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早い春の犬  作者: 臥亜


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7/10

夜の声

その夜、僕は眠れなかった。

リビングの灯りが消えないからだ。

時計は午前一時を回っている。

喉が渇いて、部屋を出る。

廊下の先、リビングから小さな声が聞こえる。

父の声だった。

「……起きてるか」

返事はない。

でも気配はある。

僕はドアの隙間から覗く。

ソファに座る父。

足元にコタロウ。

テレビはついていない。

世界は静かだ。

「悪かったな」

父が言う。

唐突だった。

「昼間のこと」

コタロウはすぐに答えない。

父は続ける。

「反対したいわけじゃない」

少し間。

「怖いだけだ」

その言葉は、昼間より正直だった。

「急に、同じ高さに立たれてさ」

苦笑する。

「今まで守ってるつもりだったのに」

コタロウが顔を上げる。

「守ってくれてたよ」

父は目を伏せる。

「でもそれ、俺が勝手に思ってただけかもしれない」

沈黙。

外で風が鳴る。

「なあ」

父がゆっくり言う。

「働くって、そんなに大事か」

コタロウは少し考える。

「大事っていうか」

言葉を選ぶ。

「ちゃんと生きてるって思いたいだけ」

父は笑う。

「十分、生きてるだろ」

「うん。でも」

少しだけ息が荒い。

ほんの少し。

「選べるなら、選びたい」

父はその呼吸に気づいている。

何も言わないが、視線が落ちる。

「なあ」

父が小さく言う。

「出ていくのか」

昼間と同じ問い。

でも今度は、責めていない。

コタロウは答える。

「分からない」

正直だ。

「ただ」

続ける。

「もし、ここに残るって決めたら」

父を見る。

「それは、君たちを選んだってことになる」

父の喉が動く。

「今までは?」

「今までは、選べなかった」

残酷な言葉だ。

でも、嘘じゃない。

父は長く息を吐く。

「……ずるいな」

「うん」

コタロウは笑う。

「ずるい」

父も少し笑う。

その笑いは、泣きそうだった。

「十四年だぞ」

「うん」

「散歩も、病院も、誕生日も」

「覚えてるよ」

「それ全部、選んでなかったって言われると、ちょっと傷つく」

コタロウは、ゆっくり首を振る。

「違うよ」

父を見る。

「君は選んでた」

静かに言う。

「毎日、帰ってきた」

父の目が揺れる。

「僕は、選べなかった」

その違い。

父は言葉を失う。

コタロウが続ける。

「だから今、同じにしたい」

外の風が少し強くなる。

カーテンが揺れる。

「俺はな」

父がぽつりと呟く。

「お前が犬のままでよかったと思ってる」

正直すぎる言葉。

「喋らなきゃ、こんな面倒なこと考えなくてよかった」

コタロウは怒らない。

ただ、小さく言う。

「ごめん」

「謝るな」

即座に返す。

「悪いのは世界だ」

その言い方が、少しだけ救いだった。

沈黙が落ちる。

時計の音。

父は手を伸ばし、

コタロウの頭を撫でる。

いつもの仕草。

でも今は、意味が違う。

「……行くなら、ちゃんと決めてからにしろ」

低い声。

命令ではない。

「逃げるな」

コタロウは目を細める。

「うん」

その声が、少し掠れる。

父は気づく。

「……大丈夫か」

「うん」

短い。

でも、少し遅い。

父の手が止まる。

「無理するな」

静かな命令。

コタロウは答えない。

ただ、父の膝に額を乗せる。

子犬のころと同じ仕草。

父の指が震える。

「……お前、ずっと犬でいろよ」

冗談みたいな願い。

コタロウは目を閉じる。

「それは、無理」

優しい声だった。

僕はドアの影で立ち尽くす。

入れない。

この会話は、二人のものだ。

父はもう一度撫でる。

ゆっくり。

何度も。

時間をなぞるみたいに。

そのとき、

コタロウの呼吸が、ほんの一瞬だけ乱れる。

父の手が止まる。

でも、何も言わない。

言わないほうが、

今は優しいと分かっているからだ。

「寝ろ」

父が小さく言う。

コタロウは目を開ける。

「うん」

その声は、昼よりも少し軽い。

でも、長くない気がした。

僕は静かに部屋へ戻る。

布団に入っても、眠れない。

リビングの灯りは、

しばらく消えなかった。

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