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早い春の犬  作者: 臥亜


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6/10

家にいろ

父は講話を見に来ていなかった。

仕事だと言っていた。

でも動画はもうネットに上がっている。

再生回数は、増え続けていた。

夕食の席。

箸の音だけが響く。

テレビは消えている。

母が言う。

「……すごかったね」

父は何も言わない。

味噌汁を一口飲む。

「見たよ」

低い声。

誰も箸を動かさない。

「立派だった」

それが褒め言葉なのか、分からない。

コタロウは静かに座っている。

「ありがとう」

素直に言う。

父は続ける。

「でもな」

空気が張り詰める。

「家にいろ」

まっすぐな言葉だった。

「もう十分だろ。話したいことも話した。

働く必要なんてない」

コタロウは少しだけ目を伏せる。

「必要、じゃないよ」

「じゃあ何だ」

「選びたいだけ」

父の眉が動く。

「選ぶってなんだ。

ここにいるのが不満か?」

「違う」

コタロウはすぐに言う。

「不満じゃない」

「だったら」

父の声が少し強くなる。

「家族だろ」

その言葉が、重く落ちる。

家族。

僕は父を見る。

それは、守ろうとしている顔だった。

でも同時に、

手放したくない顔でもあった。

「家族だから、だよ」

コタロウが言う。

「家族だから、選べるほうがいい」

父は黙る。

その沈黙は、怒鳴るより怖い。

「……俺はな」

父がゆっくり言う。

「十四年、一緒にいた」

声が少しだけ掠れる。

「急に“対等”とか言われてもな」

本音だった。

ニュースも、法律も、

追いついていないのは父も同じだ。

「対等って、冷たい言葉だ」

父は続ける。

「家族に、契約はいらない」

コタロウは少し考える。

「でも、僕は契約できるようになった」

静かな言い方。

逃げない。

「今まではできなかった」

父の手が止まる。

「それが、嫌だったのか」

「嫌じゃない」

間。

「ただ、知らなかっただけ」

その言葉が刺さる。

知らなかった。

悪気はなかった。

でも、知らなかった。

父は立ち上がる。

椅子が音を立てる。

「俺は反対だ」

はっきりと。

「働く必要はない。

ここにいろ」

命令ではない。

願いに近い。

コタロウは、父を見る。

長い時間を共有した目。

散歩も、休日も、

何も言わなくても通じていた関係。

「ありがとう」

コタロウが言う。

父が一瞬、戸惑う。

「でもね」

小さく続ける。

「“ここにいる”を、自分で選びたい」

父の表情が崩れる。

怒りではない。

恐れだ。

「……出ていくのか」

その問いは、

すでに答えを知っている声だった。

「まだ、分からない」

コタロウは正直に言う。

「でも、選ばないままいるのは、

今は少し、違う気がする」

父は何も言わない。

ただ、壁を見つめる。

十四年。

餌をやり、病院に連れて行き、

雨の日も散歩した。

それが突然、

“契約前”になる。

僕は初めて気づく。

父は、奪われたのではない。

立場を失ったのだ。

“守る側”から、“並ぶ側”へ。

それは、簡単じゃない。

沈黙が続く。

その中で、

コタロウの呼吸が少し荒い。

ほんの一瞬。

すぐ整う。

でも、僕は見る。

父も、見る。

目が合う。

父は何も言わない。

ただ、椅子に座り直す。

「……好きにしろ」

投げやりな言い方。

でも、本気の拒絶ではない。

母が小さく息を吐く。

僕は分からない。

正しいのが誰か。

守ることが愛なのか。

手放すことが愛なのか。

ただ一つ分かるのは、

時間が、

ゆっくり削れている気がすることだけだった。

食卓の上の湯気が消える。

誰も箸を動かさない。

コタロウは、

いつもより静かに座っている。

吠えない。

主張もしない。

ただ、そこにいる。

それが、

いちばん残酷だった。

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