履歴書
コタロウが「働きたい」と言い出したのは、
夕方のニュースが三度目の特番に変わった頃だった。
リビングの空気は、まだ落ち着いていない。
母はスマホで“犬 雇用”と検索し、
父は腕を組んで無言のままテレビを見ている。
画面では、盲導犬協会の代表が語っている。
『動物にも選択肢を——』
そのとき、足元で声がした。
「僕も、何かできると思う」
三人同時に視線が落ちる。
コタロウは伏せたまま、
ゆっくりと尻尾を動かしている。
「何かって?」
父の声は少し固い。
「働くとか」
静かに、でもはっきりと。
母が小さく息をのむ。
「こたちゃん、無理しなくていいのよ」
「無理じゃないよ」
コタロウは首を上げる。
「今まで、君たちに食べさせてもらってたでしょ」
胸がちくりとする。
「でも、それは——」
僕は言いかけて止まる。
“家族だから”と言おうとした。
でも、それは
“養っていた側”の言葉だ。
「僕、自分で選んでみたい」
その言葉は、
思っていたより軽かった。
重いのは、受け取る側だった。
父が言う。
「犬が働くって、何をするんだ」
テレビでは、
警察犬がインタビューを受けている。
『今までは命令で動いていました。でもこれからは契約です』
契約。
その言葉が部屋に落ちる。
コタロウは少し考えてから言った。
「散歩案内とか?」
「は?」
思わず声が出る。
「散歩好きな人、いっぱいいるでしょ。僕、道覚えてるし」
笑うべきなのか、真面目に受け止めるべきなのか分からない。
でもコタロウは本気だった。
「それにね」
少し間を置く。
「君、受験で忙しいでしょ」
目が合う。
逸らせない。
「だから、僕が自分の散歩くらい自分で決められたら、いいかなって」
それは優しさなのか。
遠慮なのか。
それとも——準備なのか。
「家にいればいいだろ」
父が言う。
「今まで通りでいい」
その“今まで”が、
もう存在しないことを、誰も口にしない。
コタロウは首を横に振る。
「今まで通りって、どこまで?」
静かだが、逃げ場のない問い。
僕は立ち上がる。
机の上のノートを開く。
なぜか分からない。
でも、書かなければいけない気がした。
「履歴書、いるんじゃない」
自分でも変なことを言っていると思う。
でもコタロウは目を丸くする。
「りれきしょ?」
「うん。働くなら」
ペンを持つ。
【氏名】
「コタロウ」
「名字は?」
家族全員が止まる。
犬に名字はあるのか。
父が小さく言う。
「……うちの名字でいいだろ」
コタロウは少しだけ黙る。
それから、笑う。
「じゃあ、よろしく」
僕は名字を書く。
その瞬間、
妙な実感が湧いた。
本当に“家族”になった気がした。
【年齢】
「十四歳」
書きながら、手が止まる。
犬の十四歳は、人間でいえば——
考えないようにする。
【特技】
「待て」
思わず吹き出す。
「それ特技?」
「長いよ」
少し誇らしげに言う。
母が泣き笑いをする。
でも父は笑わない。
ただ、コタロウを見ている。
その目には、
反対とも賛成ともつかない色があった。
書き終えた紙を見つめる。
ただのノートのページ。
でもそこには、
“犬”ではなく、
一人の名前がある。
コタロウはそれを覗き込む。
「僕、ちゃんといるね」
その言葉に、
なぜか胸が詰まる。
ちゃんといる。
昨日までも、いた。
でも昨日までは、
“書類に書けない存在”だった。
テレビの速報が流れる。
【動物自立支援センター設立へ】
母が小さく言う。
「本当に、行くつもり?」
コタロウは答えない。
ただ、僕を見る。
その目は、朝よりも少し遠い。
僕は思う。
働きたい、は
生きたい、なのか。
それとも。
チャイムが鳴る。
いや、違う。
それは玄関のインターホンだった。
世界が、
家の中まで来ている。




