教室
犬が喋った日の午後、
学校はいつもより静かだった。
騒いでいるはずなのに、静かだった。
みんなスマホを見ているからだ。
ホームルーム前の教室。
机に突っ伏すやつ、動画を流すやつ、泣いている女子もいる。
「お前んち、ペットいる?」
前の席の坂本が振り返る。
「犬」
「喋った?」
少し迷ってから、頷く。
「……喋った」
坂本は目を見開く。
「マジかよ。うちのハムスターもだって。さっき妹から電話きた。“回し車きつい”って」
笑うやつがいる。
でもその笑いは長く続かない。
教室の後ろで誰かが言う。
「じゃあさ、今まで飼ってたって、拉致じゃね?」
空気が止まる。
「いや、でも昨日までは喋らなかったし」
「でも今は喋るだろ」
「食肉どうすんだよ」
話題が一気に広がる。
先生が入ってくる。
「……静かに」
いつもより疲れた声だった。
黒板に書く。
【命・権利・共生】
予定していた英語の小テストは中止らしい。
「今日の出来事について、意見を聞きたい」
先生は言う。
「これは“事件”なのか、“進化”なのか」
教室がざわつく。
誰かが手を挙げる。
「進化じゃないですか?だって人間と同じになったんでしょ」
「同じなの?」
別の声。
「人間と同じなら、食べられないよな」
僕は机の上の手を見つめる。
朝のコタロウの声が、まだ耳に残っている。
義務?
暇つぶし?
あれは“人間と同じ”声だった。
でも——
「違うと思う」
気づいたら、声が出ていた。
自分で少し驚く。
教室が静まる。
「同じになったんじゃなくて、前からあったのが、聞こえるようになっただけだと思う」
言いながら、胸がざわつく。
うまく言えている自信はない。
「だから急に平等とか言われても……なんか、ずるい」
「ずるい?」
先生が聞き返す。
「俺たち、昨日まで普通に生きてたのに。急に“加害者”みたいになるの、なんか……」
言葉が途切れる。
後ろの席の女子が小さく言う。
「でも、苦しかったなら、知らなかったで済ませていいの?」
その問いは、教室じゃなくて、
僕の胸に刺さる。
散歩中、スマホを見ていたこと。
忙しいからと短く済ませたこと。
知らなかった?
本当に?
先生がチョークを置く。
「正解はありません。ただ——」
少し間を置く。
「考え続けるしかない」
チャイムが鳴る。
みんな一斉にスマホを開く。
ニュース速報。
【動物市民権法、緊急審議へ】
坂本が言う。
「なあ、犬って働けんのかな」
「さあ」
答えながら、朝のコタロウを思い出す。
やっと言える。
あの声。
もし働きたいと言ったら。
もし、家を出たいと言ったら。
放課後、校門前でデモをしている人たちがいた。
「動物に自由を!」
「人間中心主義をやめろ!」
その横で、コンビニから出てきたサラリーマンが呟く。
「じゃあ何食えばいいんだよ」
世界はもう、元に戻らない。
でも僕はまだ、
自分の言葉さえ持てていない。
ポケットの中でスマホが震える。
母からのメッセージ。
【こたちゃん、今日はあまり食べない】
胸がざわつく。
朝は普通だった。
いや、普通じゃなかった。
でも、歩けていた。
急いで返信する。
【あとで散歩いく】
既読がつく。
空を見上げる。
雲は、昨日と同じ形をしている。
なのに、世界だけが違う。
僕は初めて思う。
もしコタロウが、
自分の人生を選べるなら。
その中に、
僕はいるんだろうか。
教室で言った言葉が、遅れて重くなる。
“前からあったのが、聞こえるようになっただけ”
じゃあ——
聞こえてしまった僕は、
どうする?
チャイムの余韻が、まだ耳に残っていた。




