声の消える日
空は晴れていた。
風も強くない。
ニュースは、別の話題を扱っている。
動物が喋ることは、もう特別ではなくなっていた。
世界は、慣れる。
残酷なくらいに。
コタロウは、家に戻っていた。
医者は言った。
「好きな場所で」
それ以上の言葉はいらなかった。
リビングのいつもの場所。
窓のそば。
日が当たる。
父が座る。
母が隣にいる。
僕は、床に座る。
コタロウは横になっている。
呼吸は浅いが、穏やかだ。
「なあ」
声はまだある。
細いけれど。
「今日、あったかいな」
「うん」
僕は答える。
「春みたい」
父が笑う。
「まだ冬だ」
「じゃあ」
コタロウは目を閉じる。
「ちょっとだけ、早い春だ」
沈黙。
テレビは消えている。
時計の音だけ。
「悠斗」
呼ばれる。
「なに」
「選べよ」
前にも聞いた言葉。
でも今日は違う。
「俺じゃなくて」
息を整える。
「お前のこと」
僕は頷く。
声が出ない。
父が手を伸ばす。
頭を撫でる。
ゆっくり。
何度も。
母も、背中に触れる。
「なあ」
コタロウが言う。
「悪くなかった」
目を細める。
「この家」
父の指が止まる。
「おい」
かすれた声。
「悪くなかった、じゃねえ」
父の声は震えている。
「最高だった、だろ」
少し間。
コタロウが笑う。
「……うん」
小さく。
「最高だった」
僕は、顔を伏せる。
涙が床に落ちる。
「なあ」
彼が、最後に言う。
「ありがとう」
はっきりと。
聞き取れる声で。
それから。
沈黙。
長い、沈黙。
僕は顔を上げる。
コタロウは目を開けている。
でも。
何かが、違う。
「……コタロウ?」
呼ぶ。
反応はない。
父が、もう一度撫でる。
「おい」
声が出ない。
コタロウは、瞬きをする。
ゆっくり。
そして。
小さく、尻尾が揺れる。
一度だけ。
「……ワン」
それは、十四年間聞いてきた声だった。
言葉ではない。
意味を持たない。
ただの、犬の声。
でも。
世界で一番、知っている音。
母が泣く。
父が顔を覆う。
僕は、笑う。
涙のまま。
「そっか」
喉が震える。
「戻ったんだ」
コタロウは、もう喋らない。
でも、目は穏やかだ。
僕は、頭を撫でる。
言葉はいらない。
彼は、静かに目を閉じる。
呼吸はある。
でも。
声は、もうない。
窓の外で、風が揺れる。
世界は何も変わらない。
ニュースも流れない。
誰も気づかない。
ただ、この家だけが知っている。
彼が。
最後まで、選んだことを。
犬として。
友達として。
最高だった家の中で。
エピローグ
春が来る。
公園のベンチ。
僕はひとりで座っている。
隣は空いている。
でも、空いていない。
風が吹く。
どこかで犬が吠える。
僕は目を閉じる。
もう、声は聞こえない。
でも。
聞こえなくても、分かる。
選ぶことは、怖い。
でも。
選ばないまま生きるより、きっといい。
「なあ、コタロウ」
風に言う。
「俺、選ぶよ」
返事はない。
でも。
それでいい。
空は青い。
少しだけ、早い春の匂いがした。




