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早い春の犬  作者: 臥亜


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1/10

犬が喋った朝

プロローグ

その日、犬が喋った。

正確に言えば、

世界中の動物が、人間の言葉を話し始めた。

テレビは朝から騒ぎ、

専門家が並び、

SNSは祝祭のように溢れた。

でも、僕の記憶に残っているのは、

ニュースの映像ではない。

リビングの、いつもの場所。

窓から差し込む、少し白い冬の光。

十四年間、同じように丸くなってきた一匹が、

ゆっくり顔を上げて言った。

「……おはよう」

それだけだった。

奇跡でも、悲鳴でもなく、

ただの挨拶。

僕は返事ができなかった。

怖かったわけでもない。

嬉しかったわけでもない。

ただ、

何かが終わって、

何かが始まったと分かったからだ。

言葉を持つ前の時間には、

戻れない。

撫でるだけで通じた日々は、

もう昨日になった。

それでも。

あの日の空気は、どこか春の匂いがしていた。

まだ冬なのに。

少しだけ、早い春。

その春が、

こんな形で終わるとは、

あのときの僕は、まだ知らなかった。

犬が喋った朝、

僕は英単語帳を開いていた。


“responsibility”


責任。


蛍光ペンで線を引いたその瞬間、足元で声がした。


「ねえ」


母の声じゃない。父でもない。


低くて、少しかすれていて、

けれどはっきりした発音だった。


「その単語、好き?」


シャーペンの芯が折れた。


ゆっくり視線を落とす。


コタロウが、こっちを見ていた。


十四歳の老犬。

白かった毛はほとんど灰色で、右目は少し濁っている。

いつも通りの朝。いつも通りの姿。


違うのは、口が動いたことだ。


「……は?」


僕の声のほうが、よほど犬みたいだった。


リビングではテレビがついている。

アナウンサーが早口で何かを伝えていた。


『本日未明より、世界各地で動物が——』


その足元で、キャスターの飼い猫が言った。


『昨日のごはん、少なかったよ』


スタジオが静まり返る。


母が台所でフライパンを落とした。


油のはねる音。


父はリモコンを何度も押している。

チャンネルを変えても、変えても、同じだった。


犬が吠えずに喋り、

猫が鳴かずに抗議している。


僕はもう一度、足元を見る。


コタロウは尻尾を振っていない。


ただ、まっすぐ僕を見ている。


「驚きすぎ。そんな顔、初めて見た」


夢だと思いたかった。


でも、夢にしては具体的すぎる。


床の冷たさも、朝の匂いも、

全部、いつも通りだった。


「……コタロウ?」


「うん」


「今、喋った?」


「うん」


会話が成立している。


それがいちばん怖かった。


母が恐る恐る近づいてくる。


「こ、こたちゃん……?」


コタロウは母を見る。


「おはよう。味噌汁、ちょっと濃い」


母が泣き出した。


父は無言でテレビを消した。


部屋が静まる。


その静けさの中で、コタロウは小さく息を吐いた。


「やっと、言える」


その声は、思っていたより疲れていた。


僕は単語帳を閉じる。


責任。


頭の中でさっきの単語が浮かぶ。


「ねえ」


コタロウが言う。


「僕の散歩ってさ」


少し間があく。


「義務?」


胸が、変なふうに縮む。


今まで毎日行っていた散歩。


嫌がったことなんてない。


尻尾を振って、リードをくわえて、玄関で待っていた。


それが全部、

ただの習性じゃなかったとしたら。


「別に……」


言葉がうまく出ない。


「嫌なら、言えばよかっただろ」


コタロウは首を傾げる。


「言えなかったよ。君、いつも急いでた」


図星だった。


受験勉強、部活、スマホ。


散歩は“こなすもの”だった。


「でもね」


コタロウは続ける。


「嫌いじゃない。ただ、君がスマホ見ながら歩くの、ちょっと寂しい」


父がソファに座り込む。


母はテーブルにつかまったまま動かない。


世界は今ごろ大混乱だろう。


でも僕の世界は、

老犬の一言で静かに壊れている。


「ねえ」


コタロウは僕を見上げる。


「僕は、君の暇つぶし?」


違う、と言いたかった。


けれど喉が詰まる。


僕は毎日、言葉を覚えている。


英語も、古文も、公式も。


でもいま必要な言葉は、

どのページにも載っていなかった。


沈黙が落ちる。


コタロウは目を細める。


怒っていない。


責めてもいない。


ただ、待っている。


僕の言葉を。


テレビの消えた画面に、

僕たちが映っている。


人間三人と、一匹。


いや——


一人と、一人と、一人と、もう一人。


初めてそう思った。


「……今日、ちゃんと歩こう」


やっと出たのは、それだけだった。


コタロウは小さく笑う。


「うん。それでいい」


尻尾が、ゆっくり揺れる。


いつもと同じ仕草なのに、

意味がまるで違って見えた。


外では近所の犬が叫んでいる。


「なんで今さらだよ!」


誰かの家のインコが泣いている。


「怖い、怖い、怖い」


世界は騒いでいる。


でも僕たちは、まだリビングに立ったままだ。


英単語帳が床に落ちている。


“responsibility”


そのページが開いたまま。


コタロウがそれを見て言った。


「それ、難しい?」


僕は少し考えてから答える。


「……たぶん、今から覚える」


コタロウは頷いた。


「じゃあ、一緒だね」


朝日が差し込む。


十四年、同じ家にいる犬。


でも、今日からは違う。


僕は初めて、

コタロウの目を正面から見た。


吠えない犬が、

確かにそこにいた。


そしてその日、

世界は少しだけ静かになった。


僕の中だけが、

うるさかった。

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