第9章:『錆びついた心音を磨く夜、あるいは証明』
ギャリ、ギャリ、と金属を削る音が、静まり返ったスイートルームに響いていた。
俺の手元には、分解された『対艦用チェーンソー剣』の刃がある。 ダイヤモンドコーティングされた刃こぼれを、専用のヤスリで丁寧に均していく。あの『天使』の群れを両断した代償で、駆動系には肉片とオイルがこびりつき、刃はボロボロだった。
「……申し訳ありません、クロト」
向かいのソファに座っていたアイリスが、沈痛な面持ちで口を開いた。
「私の使い方が荒かったため、貴方に余計な労働をさせています」 「気にするな。道具の手入れは持ち主の義務だ。それに、こいつがなきゃ俺たちは今頃ミンチだった」
俺はオイルを染み込ませたウエスで、黒光りする刃を磨き上げる。 だが、アイリスの表情は晴れない。 彼女が気にしているのは、武器の損傷ではない。
「……あの少女、イヴが言っていました」
膝の上で拳を握りしめ、彼女は俯く。
「『混ざりもの』。『同じ匂いがする』と。……クロト、もし私が、あのような怪物と同じ存在だとしたら……」 「アイリス」 「私の内部には、ブラックボックスが多すぎます。もし私が暴走し、貴方を傷つけるようなことになれば、私は……」
彼女の論理回路が、恐怖という名の無限ループ(バグ)に陥っている。 『共感接続』を通じて、冷たい氷のような不安が俺の胸にも流れ込んでくる。
俺は手を止め、工具をテーブルに置いた。 そして、彼女の前に跪き、その冷たい両手を包み込む。
「目を見ろ、アイリス」
彼女がおずおずと顔を上げる。赤い瞳が揺れている。
「お前は怪物じゃない。イヴとは違う」 「根拠は……?」 「お前は、料理を作って、俺の怪我を気にして、一緒にお風呂に入って恥ずかしがる。……そんな怪物がどこにいる?」
俺は彼女のバーコードが刻まれた胸元に、軽く拳を当てた。
「ここにあるのが何で作られていようが関係ない。俺が信じるのは、俺を守ってくれる『お前』という意志だけだ」
精神論だ。科学的根拠など何もない。 だが、今の彼女に必要なのは論理ではなく、肯定だった。
「……クロト」 「それに、もしお前が暴走したら、俺が止めてやる。そのために、俺たちは繋がっているんだろ?」
俺は意識を集中し、『共感接続』の深度を深める。 彼女のコアの深層へ。 恐怖のノイズを、俺の意識で塗り替えていく。
ピロン、と小さな電子音が鳴った。 アイリスの瞳の輝きが増し、身体の輪郭がぼんやりと発光する。
「……リンク深度、上昇。同調率120%を突破。……不思議です」
アイリスが自分の胸に手を当てる。
「不安というノイズが消えました。代わりに、システム全体の処理速度が向上しています。まるで、貴方の心拍が私の動力炉になったような……」 「これが俺たちの『強化』だ。武器のスペックじゃない。俺たちの信頼が、最強の武器になる」
アイリスは、今度こそ柔らかく微笑んだ。 それは、イヴが見せた狂気の笑顔とは対極にある、安らぎに満ちた表情だった。
「……はい、マスター。貴方がそう言うなら、私は『私』であり続けます」
***
整備を終え、アイリスがスリープモード(睡眠)に入った後。 俺は一人、窓際で携帯端末を操作していた。
イヴとの戦闘エリアで回収した、ごく微量なデータ断片。 それをアガルタの地図データと照合する。 アイリスの不安を払拭したが、俺自身の疑念が消えたわけではない。 イヴの言葉が真実なら、アイリスの製造過程には、アガルタが隠蔽する『何か』があるはずだ。
「……出たか」
画面に一つの座標が表示される。 場所は、ここから北西へ30キロ。 旧時代の地図では『国立脳科学研究所』と記されている場所。 そして現在は――『立入禁止区域』指定エリア。
「俺たちの旅の目的地が決まったな」
振り返ると、ベッドで眠るアイリスの寝顔が見えた。 規則正しい寝息。 その平穏を守るためなら、俺は世界の真実ごとき、いくらでも暴いてやる。
俺は端末の電源を切り、彼女の隣へと潜り込んだ。 明日は早い。 灰色の空の下、俺たちの本当の戦いが始まろうとしていた。




