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人類に見捨てられた地上で、俺と機械の少女だけが空を見る  作者: RIU


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第7章:『硝煙を洗い流す、泡沫(うたかた)の極楽浄土』

人間らしさ、というものを定義するのは難しい。  だが、少なくともこの数日間、俺たちは泥と油と、乾いた血の臭いにまみれた獣だった。


「……痒い」


 俺はボロボロのシャツの上から背中を掻いた。  肋骨の痛みは引いてきたが、衛生状態の悪化は精神を摩耗させる。特に、この湿度の高い日本の廃墟では尚更だ。


「クロト、不快指数が上昇しています。衛生状態の改善を推奨します」 「分かってるよ。だが、水がな……」


 俺は窓の外を見た。雨は止んでいるが、水道などとうの昔に止まっている。  しかし、ここは元・超高級ホテルだ。


「アイリス、屋上の貯水タンクの状態は?」 「確認済みです。フィルタリング装置を通せば、生活用水として使用可能です。……まさか」 「そのまさかだ。やるぞ、アイリス。この部屋のジャグジーを復活させる」


 俺の宣言に、アイリスの赤い瞳がパチクリと瞬いた。  そして次の瞬間、彼女は「了解!」と力強く頷き、スラスターを吹かして部屋を飛び出していった。


 ***


 そこからの作業は、執念の一言に尽きた。  俺は配管工よろしくパイプを繋ぎ直し、アイリスは怪力に物を言わせて瓦礫を撤去し、屋上からホースを引き込んだ。  熱源は、地下駐車場から回収した電気自動車のバッテリーと、携帯用投げ込みヒーター。


 そして数時間後。  スイートルームのバスルームに、温かい湯気が充満していた。


 ガラス張りの浴室。眼下には崩壊した東京の夜景。  そして目の前には、並々と湯を湛え、ブクブクと泡を立てる円形のジャグジー。


「……文明の勝利だ」 「驚異的です、クロト。廃材だけで給湯システムを構築するとは」


 アイリスが感心したように湯船を見つめる。  さて、一番風呂と行きたいところだが――。


「じゃあ、俺は先に入るよ。お前もあとで……」 「待ってください。貴方は負傷者です。一人での入浴は転倒のリスクがあります」


 アイリスは真顔で言い放つと、迷いなく自身のドレスのファスナーに手をかけた。  シュルリ、と黒い布が床に落ちる。


「おいっ!?」 「入浴介助を行います。背面の洗浄、および患部の保護。……アンドロイドである私には、恥辱という概念はありません。合理的判断です」


 露わになったのは、神が作りたもうた彫刻のように完璧な肢体だった。  継ぎ目のない白い肌。胸元に刻印された『No.704』のバーコードだけが、彼女が工業製品であることを示している。  俺は目のやり場に困りつつ、その「合理的判断」に従うしかなかった。


 ***


 チャプン、と湯が溢れる音が響く。  広い浴槽の中、湯気越しに向かい合う二人。  お湯の温度は完璧だ。固まっていた筋肉が解けていくのが分かる。


「失礼します。背中を流します」


 アイリスが俺の背後に回り込む。  彼女の手には、タオル代わりの柔らかい布。  優しく、丁寧に。彼女は俺の背中の泥を拭っていく。


「……痛くありませんか?」 「ああ、極楽だ。……上手だな」 「学習しました。力加減、指圧の角度。貴方が心地よいと感じるパターンを」


 彼女の指先が、首筋から肩甲骨へと滑る。  冷たいはずの機械の指が、お湯の熱を吸って温かい。  背中に触れる彼女のスキンの感触に、俺の心臓は少しだけ早鐘を打っていた。


「……不思議です」


 アイリスがぽつりと呟いた。


「私の肌には温度がないはずなのに、貴方に触れていると、内部フレームの温度が上昇します。冷却ファンが回っていないのに、熱いのです」 「それを、人間は『温もり』って呼ぶんだよ」 「温もり……。これが?」


 彼女は俺の背中に、こつんと額を押し付けた。  濡れた髪が肌に張り付く。


「アガルタでは、私はただの『数字』でした。壊れれば交換される部品。……でも、貴方は私を『アイリス』と呼び、壊れたら直してくれる。……そして、一緒にお風呂に入ってくれる」 「当たり前だろ。お前は俺のパートナーだ」


 俺が振り返ると、湯気で上気したように見える彼女の顔があった。  赤い瞳が、とろんと潤んでいる。  それは間違いなく、ただの機械が見せる表情ではなかった。


「……ありがとうございます、クロト。この機能キモチの名前はまだ分かりませんが、……悪くありません」


 彼女は小さく微笑むと、俺の肩にお湯をかけた。  硝煙と血の臭いは消え、代わりに甘い石鹸の香りがバスルームを満たしていた。


 ***


 風呂上がり。  俺たちはバスローブ(これも備品だ)を羽織り、窓際のソファで夜景を見下ろしていた。  体は温まり、清潔な服に包まれている。これ以上の贅沢はない。


 アイリスは濡れた髪をタオルで拭きながら、不意に眉をひそめた。


「……どうした?」 「いえ……ノイズです。先ほどから、メモリの深層領域で、未知のファイルが干渉してきています」 「戦闘のダメージか?」 「いいえ。……これは、誰かの『記憶』? 青い花、ピアノの旋律、そして……笑顔の貴方」


 俺は息を呑んだ。  青い花。ピアノ。そして俺の笑顔を知っている人物。  それは、三年前に死んだ俺の姉、セレンが好きだったものだ。


「アイリス、その記憶は……」


 俺が問いかけようとした瞬間。  ドォォォォン!!  遠くで爆発音が響き、窓ガラスがビリビリと震えた。


 俺たちは弾かれたように窓に張り付く。  数キロ先、旧・渋谷方面。  夜空に向かって、巨大な赤い信号弾が打ち上がっていた。  それを取り囲むように群がる、無数の『天使』の影。そして、それらを一方的に蹂躙する、青白い閃光。


「高エネルギー反応。……識別信号、所属不明機アンノウン


 アイリスの目が、瞬時に戦闘モードへ切り替わる。  安息の時間は終わりだ。  その光の中心には、俺たちがまだ知らない「地上の支配者」が待ち構えている。

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