第4章 :『禁忌のブラックボックス、あるいは非情なる廃棄命令』
その呼び出しは、安息の時間すら与えてはくれなかった。
整備ドックのシャッターが、けたたましい警告音と共に強制開放される。 なだれ込んできたのは、黒いバイザーで顔を隠した武装憲兵(MP)の小隊だった。
「クロト少尉! 貴官および704号機の身柄を拘束する!」
銃口が一斉に向けられる。 整備台の上でオイル交換を受けていたアイリスが、瞬時に反応した。彼女の瞳が戦闘モードの赤に染まり、駆動音が唸りを上げる。
「……敵性反応。対象、味方識別信号を持っていますが、敵対行動を確認。排除しますか?」 「よせ、アイリス! 抵抗すれば反逆罪だ!」
俺は両手を挙げて彼女を制した。 ここで暴れれば、それこそ奴らの思う壺だ。だが、ただの帰還報告にしては物々しすぎる。 俺たちは銃を突きつけられたまま、上層エリアへと連行された。
***
通されたのは、司令部最上階にある執務室だった。 本革のソファ、クリスタルガラスの調度品。地下のスラム街では一生お目にかかれない贅沢品が並んでいる。
デスクの向こうに、その男はいた。 アガルタ防衛軍統括司令、ガランド大佐。 鉄色の髪を撫でつけ、爬虫類のような冷たい瞳をした男だ。
「……優秀だな、少尉。あの汚染区域から生還するとは」
ガランドは手元のホログラム・ディスプレイを操作しながら、感情のない声で言った。 そこには、先ほどの戦闘記録――アイリスが『歌姫』を撃破した瞬間の映像が再生されている。
「称賛の言葉など不要です。何の用です? 俺たちは規定通りの任務を遂行しただけですが」 「規定通り、か。だが、君たちは余計なものまで持ち帰ってしまったようだ」
ガランドが指を弾くと、空中に新たなデータウィンドウが開く。 それは解析された『歌姫』の内部データだった。 複雑な文字列の中に、見覚えのあるコードが含まれている。
――ID: A-302948 [Missing]
「これは……アガルタ市民のIDタグ?」 「そうだ。三年前に行方不明になった、ある研究員の妻のものだ」
俺は息を呑んだ。 『天使』が人間を捕食するのは知っている。だが、IDタグごとその情報を保持しているなど聞いたことがない。いや、それどころか――。
「まさか、『天使』の正体は……」 「そこまでだ、少尉」
ガランドの声が、氷点下まで下がった。 重圧のような殺気が部屋を支配する。
「真実が常に大衆を幸福にするわけではない。この地下都市の秩序は、嘘と隠蔽によって保たれているのだよ。……君のような、勘の鋭すぎる羊飼いには邪魔な事実だ」
彼はデスクから一丁の拳銃を取り出し、滑らせるように俺の前へ投げた。 重厚なマグナムリボルバー。対アンドロイド用の徹甲弾が装填されたものだ。
「単刀直入に言おう。君の機体、704号機は『未知のウイルス』に汚染された可能性がある」 「汚染? 馬鹿な、アイリスの論理防壁は完璧です!」 「可能性の話をしているのだ。リスクは排除しなければならない。……分かるね?」
ガランドは冷ややかな笑みを浮かべた。
「その機体を、今ここで廃棄処分しろ。君自身の手で」
心臓が早鐘を打つ。 隣に立つアイリスを見る。彼女は拘束具をつけられたまま、静かに俺を見つめていた。 彼女には聞こえているはずだ。自分の処刑宣告が。
「……もし、断ると言ったら?」 「君を反逆罪で処刑し、機体は強制分解して焼却炉行きだ。どちらにせよ、あのガラクタは残らんよ」
詰んでいる。 ここで俺が引き金を引けば、俺だけは助かる。軍のエリートコースに戻れるかもしれない。 アイリスはただの機械だ。代わりはいくらでもいる。そう教えられてきたはずだ。
俺は震える手で拳銃を拾い上げた。 ずっしりと重い。それが命の重さだ。
「……アイリス、メモリーバックアップは?」 「直近のバックアップは三ヶ月前です。それ以降の戦闘記録、学習データ、貴方との会話ログは……初期化されます」
彼女は淡々と答えた。 初期化。それはつまり、今のアイリスの「死」を意味する。 俺が初めて名前を呼んだことも、さっきのオイル交換の約束も、すべて消え失せる。
「指揮官。合理的判断を推奨します。私の製造コストよりも、指揮官一名の育成コストの方が高い。貴方が生き残る方が、軍にとっては有益です」
アイリスは一歩前に出た。 その銃口を、自らの額――コアのある位置に押し当てる。 冷たい金属同士が触れ合う音がした。
「撃ってください、マスター。……貴方の手で終わるなら、それは私の本望です」
赤い瞳が、潤んでいるように見えた。 機械人形が、泣いている? その瞬間、俺の中で何かが弾けた。 『共感接続』を通じて流れ込んでくるのは、恐怖でも諦めでもない。 ――ただ純粋な、俺への献身と、消えたくないという切なる「願い」。
俺は引き金に指をかけた。 だが、その銃口が向く先は、彼女の額ではなかった。
「……悪いな、大佐」
俺はニヤリと笑った。狂犬のように。
「俺のパートナーは、整備の途中なんでね。壊すわけにはいかないんだよ!!」
銃声が轟く。 それは、アガルタ全体を敵に回す、反逆の狼煙だった。




