第32章:『深海のコンサート、あるいは音速を斬る一閃』
キィィィィィン……!!
脳が揺れる。 視界が歪み、平衡感覚が消失する。 歌姫の歌声は、物理的な壁となって俺たちを阻んでいた。
「ぐ、あぁ……ッ!」 「マスター! 心拍数低下! これ以上は脳に後遺症が……!」
アイリスが俺を庇って前に出るが、彼女の装甲にも無数の亀裂が走っていた。 超音波振動が、超硬合金の結合を分子レベルで解こうとしているのだ。
「アハハハ! どうしたの? もっと聴いてよ、私の愛の歌を!」
沖合の岩場で、歌姫が嘲笑う。 彼女がひれを弾くたびに、海面が爆発したように吹き上がる。近づけない。ライフルも照準が定まらない。
――考えろ。 音は振動だ。防ぐことはできない。 なら、どうする?
「……アイリス、聴覚センサーを切れ」
俺は骨伝導通信を通じて指示した。
「え?」 「音に抗うな。……お前のフレームの振動数を、奴の歌声に合わせろ。『共振』させるんだ!」 「共振……? ですが、失敗すれば機体が空中分解します!」 「成功すれば、お前は音そのものになれる。……奴のエネルギーを利用して、加速しろ!」
アイリスの赤い瞳が、一瞬だけ揺らぎ、そして決然と輝いた。
「……了解。私の全てを、貴方の策に委ねます」
アイリスが姿勢を低くする。 黒いラバースーツのような水中装備が、微かに唸りを上げ始めた。
「周波数、解析完了。……同調、開始!」
ヴィィィィィィン!
アイリスの身体が、歌姫の歌声と同じ波長で震え始めた。 衝撃が抜けていく。いや、機体の振動エネルギーへと変換されていく。
「行くぞ、アイリス! その騒音女を黙らせろ!」 「イエス、マスター!!」
ドォォォォン!! アイリスが水面を蹴った。 背中のハイドロ・ジェットが水を噴き出し、彼女は一瞬で海中へと姿を消した。
海の中は、音の伝導率が高い。 歌姫にとっては絶対有利なフィールド。だが、今のアイリスにとっては「加速装置」だった。
「なっ……何、あのスピードは!?」
歌姫の表情が凍りつく。 海面下に、黒い稲妻が走っていた。 魚雷? いや、それよりも速い。 歌声の衝撃波に乗って、アイリスは音速に迫る速度で突っ込んでくる。
「来ないで! 私のステージに上がらないでぇぇ!!」
歌姫が絶叫し、海水を圧縮した高圧カッターを放つ。 だが、アイリスは止まらない。 水中での三次元機動。しなやかな肢体をくねらせ、美しい流線型を描いて回避する。 その姿は、歌姫よりも遥かに「人魚」らしく、そして凶悪だった。
ザパァァァッ!!
水柱を上げ、アイリスが歌姫の目の前に飛び出した。 水着姿のまま、手には必殺の大鎌『アズラエル』。
「貴女の歌は、彼には届かせません」
アイリスの瞳が冷徹に光る。
「なぜなら――貴女の歌は、あまりに『雑音』だからです!」
彼女は鎌の先端を、歌姫の喉元に突きつけた。 切断ではない。打撃だ。
「黙りなさいッ!!」
ズドォォォォォォン!!
パイルバンカーが炸裂した。 極太の杭が、歌声の源である喉を、声帯を、そして頸椎ごと粉砕する。
「カ、ヒュ……ッ!?」
歌声が途切れた。 歌姫は信じられないという顔で自分の喉を押さえ、口から空気を漏らす。 美しいソプラノは消え、ただの風切り音だけが残った。
ドサリ。 歌姫の体が岩場から崩れ落ち、海へと沈んでいく。 その死に顔は、驚きと恐怖に彩られていた。
***
静寂が戻った。 波の音だけが優しく響く。
「……終わったか」
俺が岩場にたどり着くと、アイリスが浅瀬に立ち尽くしていた。 全身ずぶ濡れで、黒いスーツが肌に張り付いている。 彼女は俺に気づくと、少し恥ずかしそうに鎌を背中に隠した。
「……作戦完了です、クロト。私の歌声キャンセリングは、有効でしたか?」 「ああ。最高だったよ」
俺は彼女の頭を撫でた。 濡れた銀髪が手に絡みつく。
岩場の上には、歌姫が守っていた端末が残されていた。 俺はそれを解析する。 最後の使徒。No.4の居場所。
画面に表示されたのは、地上のどこでもない座標。 高度36,000km。 静止軌道上。
「……マジかよ」
俺は空を見上げた。 青い空のずっと向こう。かつてアガルタが地上を監視するために使っていた、旧時代の遺産。 『軌道エレベーター・天の柱』。
「最後の敵は、宇宙か」
雪山で手に入れた飛行ユニット『イカロス』。 その本当の使い道が、今ここで繋がった。 俺たちのハネムーンの終着点は、星の海になるらしい。




