第31章:『青い海のセイレーン、あるいは沈黙の歌姫』
そこは、残酷なほどに美しい海だった。
白い砂浜。透き通るようなエメラルドグリーンの水面。 かつてのリゾート地は、自然に飲み込まれ、静かな廃墟となっていた。
「……ここが、海」
アイリスが波打ち際で立ち止まる。 彼女は今、いつものドレス姿ではない。 黒く光沢のある、肌に密着したラバースーツ姿だ。 形状は旧時代の「スクール水着」に酷似しているが、全身の関節部が強化され、背中には小型の水中推進器が装着されている。
「クロト。視線が不安定です。私の装備に不備が?」 「い、いや……機能的で、いいと思うぞ」
俺は慌てて視線を逸らした。 体のラインが露わになりすぎていて、目のやり場に困る。 だが、本人は至って真面目だ。
「肯定。流体抵抗を98%削減する最適解のデザインです。これで海中でも『アズラエル』を振り回せます」
彼女は水面を蹴り、軽く跳躍してみせた。 しなやかな肢体が陽光に輝く。 ……ハネムーンの続きだとしたら、刺激が強すぎる。
***
その時だった。 風に乗って、どこからか「歌」が聞こえてきた。
Lalalala……♪
それは、女声による美しいソプラノだった。 言葉は分からない。だが、聴いているだけで心が安らぎ、すべての苦しみが溶けていくような感覚。
「……綺麗な、歌だ」 「クロト? 音源を探知。……警告、精神干渉波が含まれています!」
アイリスの声が遠くに聞こえる。 俺の意識は、ふわふわとした幸福感に包まれていた。 そうだ。あっちに行けばいいんだ。 あの歌の聞こえる、青い海の底へ。そこにはきっと、死んだ姉さんもいる。
「待ってて、今行くよ……」
俺はフラフラと海に入った。 膝まで、腰まで、水に浸かる。冷たさすら感じない。 ふと海中を見ると、そこには「仲間たち」がいた。 ゆらゆらと漂う、無数の溺死体。 彼らは皆、幸せそうな笑顔を浮かべたまま、魚の餌になっていた。
ああ、俺もあんな風に――。
「――ダメですッ!!」
バシャン!! 強い力で腕を引かれ、俺は水面に倒れ込んだ。 水しぶきと共に、目の前にアイリスの顔が現れる。
「目を覚ましてください! これは攻撃です!」 「あ……アイリス?」
彼女の必死な叫びで、霧が晴れるように意識が戻った。 俺は胸まで海に浸かっていた。一歩間違えれば、あの死体の一部になっていたところだ。
「チッ……。無粋な雑音が混じったわね」
沖合にある岩場から、不快そうな声が響いた。 水面が盛り上がり、一人の女が姿を現す。 上半身は人間だが、下半身は巨大な魚――いや、海竜のような鱗に覆われている。 喉元にはエラがあり、そこから不気味な音波が放たれていた。
第三使徒『歌姫』。
「私のコンサートを邪魔しないでくださる? この男は、私の歌に涙して、命を捧げようとしていたのよ」
歌姫は岩場に寝そべり、長い尾びれで水面を叩いた。
「素晴らしい愛でしょう? 最期に聴くのが私の歌だなんて、人間にしては贅沢な死に方だわ」 「……ふざけるな」
俺は吐き気を堪えて立ち上がった。 愛? これが? ただの洗脳による大量殺戮だ。
ザパァッ! アイリスが俺の前に立ち、水着姿のまま『アズラエル』を構えた。
「訂正を要求します。彼が命を捧げるのは、貴女のような化け物ではありません」 「あら、嫉妬? 醜い鉄屑人形が、愛を語るの?」
歌姫がケタケタと笑い、大きく息を吸い込んだ。
「なら、聴かせてあげる。鉄屑をも砕く、絶望の独唱を!」
キィィィィィィン!!
歌姫の口から、可聴域を超えた超音波が放たれた。 空気が歪み、海面が激しく沸騰する。 衝撃波ではない。「音」そのものが凶器となって俺たちを襲う。
「ぐぁッ……!?」 「警告! 聴覚センサー、およびジャイロ機能に深刻なエラー! ……平衡感覚が維持できません!」
アイリスが膝をつく。 水中では音が速く伝わる。ここは彼女の独壇場だ。 音速の暴力が、俺たちを海の底へ引きずり込もうとしていた。




