第30章:『氷の回廊、あるいは熱情による融解点』
カキン、カキン……。 どこからともなく、氷を叩く音が響く。
「ここだよ」
右の鏡面から声がした。 アイリスが即座に『アズラエル』を薙ぎ払うが、鏡が割れるだけで手応えはない。
「残念、そっちは虚像だ」
今度は背後から。 振り返ると、氷の壁から上半身だけを出した彫刻家が、冷気の槍を放ってきた。 ズドッ! アイリスが俺を突き飛ばして回避するが、彼女の左肩が凍結し、サーボモーターが異音を上げる。
「警告。関節部の凍結進行。機動性が40%低下しています」 「クソッ、モグラ叩きかよ!」
施設内は完全なミラーハウスだった。 彫刻家は氷の中を水のように移動し、俺たちを嬲り殺しにしようとしている。 『アズラエル』の熱で溶かそうにも、相手を捉えられなければ意味がない。
「……アイリス、賭けに出るぞ」
俺は物陰に隠れながら、小声で告げた。
「奴は俺を『美しい氷像』にしたがっている。遠くから殺すんじゃなく、ポーズを付けて凍らせたいはずだ」 「……囮になるつもりですか? 却下します。生存率が低すぎます」 「俺を信じろ。奴が俺に触れた瞬間、お前が俺ごと奴を抱きしめるんだ」 「抱きしめる……?」 「ああ。俺たちの『熱』で、あいつの涼しい顔を溶かしてやるんだよ」
アイリスは数秒沈黙した後、小さく頷いた。
「……了解。貴方が凍るより早く、私の全てで温めます」
***
俺は隠れていた柱の陰から歩み出た。 ライフルを床に投げ捨てる。金属音が虚しく響いた。
「……降参だ。もう動けない」
俺は両手を広げ、天井を仰いだ。 すると、正面の巨大な氷壁から、彫刻家が滑るように現れた。
「賢明な判断だね。安心して、苦しまないように一瞬で永遠にしてあげる」
彼は氷の鑿を捨て、恍惚とした表情で俺に近づいてくる。 その指先からは、絶対零度の冷気が漂っていた。
「さあ、最高の恐怖の表情を見せてくれ……」
彫刻家の冷たい手が、俺の頬に触れた。 皮膚が粟立つ。感覚が消えていく。 今だ。
「アイリスッ!!」
俺の叫びに応え、背後の闇から銀色の影が疾走した。 武器を振るうのではない。両腕を大きく広げた、タックルの姿勢。
「なっ!?」
彫刻家が振り返ろうとした瞬間、アイリスは俺の背中越しに、目の前の敵を強く抱きしめた。 サンドイッチ状態。 俺と彫刻家が、アイリスの腕の中に閉じ込められる。
「捕まえました」 「は、離せ! 何をする気だ!」 「温めてあげます。……排熱機構、限界突破!」
ジュワアアアアアアッ!!
アイリスの全身から、紅蓮の蒸気が噴き出した。 背負った『アズラエル』のエンジンが暴走寸前まで回転し、数千度の熱量を彼女のボディへと送り込む。
「あ、あつッ……!?」
彫刻家の氷の鎧が、悲鳴を上げて溶け始めた。 俺も熱い。焼けるように熱い。 だが、アイリスがコントロールしているのか、俺へのダメージは最小限に抑えられている。その熱は、敵だけに牙を剥いていた。
「僕の……僕の氷が! 永遠が溶けるぅぅぅ!!」 「永遠なんてありません。あるのは、今この瞬間の『熱』だけです!」
アイリスがさらに力を込める。 ミシミシと、彫刻家の体が軋む。 冷気と熱気のせめぎ合い。だが、想いを乗せた熱量が、無機質な氷を凌駕する。
「ギャアアアアアアッ!!」
ボシュウウウッ! 大量の水蒸気が爆発した。 彫刻家の体は蒸発し、ただの水となって床にぶちまけられた。 後に残ったのは、びしょ濡れになった俺と、湯気を立てるアイリスだけ。
「……ふぅ。……勝ちましたね、クロト」
アイリスが俺の胸に顔を埋める。 その体はまだ高熱を帯びていたが、不思議と火傷はしなかった。
***
施設の最奥部。 氷が溶けたことで、隠されていた格納庫が姿を現した。 そこに鎮座していたのは、背負い式の翼型ユニット。
『高機動飛行ユニット・イカロス』。
旧時代、対天使戦用に開発された、空を飛ぶための翼だ。
「これがあれば……イヴの翼にも追いつける」
俺たちは濡れた服を乾かしながら、その翼を見上げた。 雪山での苦難は、この翼を得るための試練だったのだ。
外に出ると、吹雪は嘘のように止んでいた。 雲海の下に、どこまでも広がる世界が見える。
「次はどこへ行きますか? マスター」
新しい翼を背負ったアイリスが問う。 庭師の記憶データ、そして彫刻家が残した痕跡。それらが指し示す、次の使徒の居場所。
「海だ。……南の海に、イヴの歌を歌う化け物がいるらしい」 「海……。データによれば、水着という装備が必要なエリアですね」
アイリスが真面目な顔で言った。 俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。 過酷な旅の中に、確かな希望の光が見えていた。




