第29章 :『白銀の地獄、あるいは体温という名の生命線』
視界が、真っ白に塗りつぶされていた。
ゴォォォォォ……。 轟音と共に吹き荒れるブリザード。気温はマイナス30度を下回っているだろう。 強化服のヒーターはとっくにバッテリー切れだ。
「はぁ、はぁ……ッ」
一歩踏み出すたびに、足が雪に沈む。感覚がない。 俺たちはバイクを麓に捨て、徒歩で山頂を目指していた。 この山の頂にある旧軍事施設。そこに、イヴに対抗するための『遺産』が眠っているという情報を、庭師のデータから得たからだ。
「……警告。マスターの体表温度が危険域まで低下しています。これ以上の行軍は、生命維持に支障をきたします」
アイリスが俺の腕を掴んだ。 彼女の身体には雪が積もっているが、その動きは鈍っていない。アンドロイドにとって、寒さは冷却効率が上がるだけのボーナス環境だ。 だが、生身の人間(俺)にとっては地獄だ。
「まだだ……あそこまで行けば……」 「非合理的です。死んでしまっては元も子もありません」
アイリスは強引に俺を引っ張り、岩陰の小さな洞窟へと押し込んだ。
***
洞窟の中も凍えるように寒かった。 俺はガタガタと震えが止まらない。意識が遠のきそうだ。
「ク、ロト……」 「……なんだ?」 「許可を求めます。……緊急保温措置を実行します」
アイリスはそう言うと、自身のドレスのフロントジッパーを下ろし、俺に覆いかぶさってきた。 え? と思う間もなく、彼女の柔らかな肢体が俺に押し付けられる。
「な、何を……」 「動かないで。……排熱リミッター、解除。表面温度、40度に設定」
ジュワッ……。 雪が溶ける音がした。 冷え切った俺の身体に、強烈な「熱」が伝わってくる。 それは機械的な熱さではなく、まるで高熱を出した人間のような、生々しい温もりだった。
「あったかい……」 「私の動力炉は、貴方の心臓の近くにあります。……聞こえますか? 私の鼓動が」
ドクン、ドクン。 彼女の胸の奥から、力強い振動が伝わってくる。 俺は無意識に彼女の背中に手を回し、その体を抱きしめた。
「……ああ。聞こえるよ。すごく、安心する音だ」 「……そうですか。機能的にはただのポンプ音ですが、貴方がそう感じるなら、これは『鼓動』なのでしょう」
アイリスが俺の首筋に顔を埋める。 外の吹雪の音が遠ざかっていく。 この極寒の世界で、俺たちだけが熱を共有している。 それが、どうしようもなく愛おしかった。
***
数時間後。 嵐が過ぎ去った雪山は、静寂に包まれていた。 体力を回復した俺たちは、再び歩き出した。
山頂付近。巨大なコンクリートの塊が見えてきた。 目的の施設だ。 だが、その入り口までの道に、奇妙なものが並んでいた。
「……なんだ、これ?」
氷像だ。 数十体。いや、百体以上。 老人も、子供も、武装した兵士もいる。 彼らは皆、驚愕と恐怖の表情を浮かべたまま、透き通る氷の中に閉じ込められていた。
「精巧な彫刻……ではありません。内部に生体反応の残滓があります」 「人間を、瞬間凍結させたのか……?」
背筋が凍る。 その時、氷像の回廊の奥から、コツコツと氷を叩く音が響いた。
「美しいだろう? 僕のコレクションだ」
施設のゲートの上に、一人の少年が座っていた。 透き通るような青い髪。半透明の氷でできた鎧を纏っている。 その手には、氷の鑿が握られていた。
「……人間は醜い。老いるし、腐るし、裏切る。でも、凍らせてしまえば永遠に『綺麗』なままだ」
少年――第二使徒『彫刻家』は、うっとりと氷像を撫でた。
「君たちも仲間に入れてあげるよ。特にそこのお姉さん……銀色の髪が雪に映えそうだ」 「お断りします。私はマスター専用の『暖房器具』ですので」
アイリスが『アズラエル』を構え、排熱モードを起動する。 刀身が赤熱し、周囲の氷が蒸気となって立ち昇る。
「炎か。野蛮だねえ……僕の芸術を溶かすなんて」
彫刻家の目がスッと細められた。
「美を知らぬ者に、永遠の沈黙を」
彼がかざした手から、青白い冷気が噴出した。 その冷気は、アイリスの熱気すら押し返し、空中の水分を一瞬でダイヤモンドダストに変える。
「警告! 周辺気温、絶対零度に接近! ……排熱が追いつきません!」 「下がるんだ、アイリス!」
俺たちはとっさに施設のゲート内へと飛び込んだ。 背後で、重厚な防爆扉がカチンコチンに凍りつき、閉ざされる。
「……逃げ込んだか。まあいい、そこは僕のアトリエだ。ゆっくりと追い詰めて、最高のポーズで凍らせてあげるよ」
扉の向こうから、無邪気で残酷な笑い声が響いた。 俺たちは、氷の悪魔が支配する迷宮へと閉じ込められてしまったのだ。




