第27章 :『地図なき旅路、あるいは恋人ごっこの距離感』
風の匂いが変わった。 かつての鉄錆と腐敗臭を含んだ風ではない。緑と、湿った土の匂い。
俺たちは改造した軍用バイク『スレイプニル』を駆り、鬱蒼とした森林地帯を抜けていた。 旧時代の国道はひび割れ、アスファルトの隙間から太い蔦が絡みついている。
「……クロト。心拍数が平常時より15%上昇しています。疲労ですか? それともバイクの振動によるストレス?」
背中から、インカム越しにアイリスの声が響く。 彼女の腕は俺の腰にしっかりと回され、ヘルメット越しの頭が俺の背中に預けられている。 密着度はゼロ。 硬質な装甲の感触と、内部フレームの温かい熱が背中から伝わってくる。
「……お前が強く抱きつきすぎなんだよ。苦しい」 「否定します。悪路におけるタンデム走行では、密着による重心統一が最も安定的です。これは貴方の安全を確保するための、極めて合理的なフォームです」
アイリスは平然と言い放ち、さらにギュッと腕に力を込めた。 肋骨が軋む。だが、不思議と不快ではなかった。 アガルタを出て一ヶ月。 俺たちは特定の拠点を持たず、ヴァネッサたち人類連合の依頼を受けて各地を転々とする「遊撃屋」のような生活を送っていた。
***
陽が傾きかけた頃、俺たちは廃墟となったガソリンスタンドでバイクを止めた。 屋根があり、見晴らしも良い。今夜の宿はここだ。
俺が枯れ木を集めて焚き火を起こすと、アイリスが慣れた手つきで缶詰のスープを温め始めた。 その横顔は、戦闘兵器の冷徹さを潜め、どこか家庭的な柔らかさを帯びている。
「クロト。質問があります」
スープを渡しながら、彼女が唐突に切り出した。
「先日ダウンロードした旧時代の小説データに、『新婚旅行』という概念が登場しました。男女が二人きりで、見知らぬ土地を旅し、親密な時間を過ごす……と定義されています」 「……ブフッ!」
俺は熱いスープを吹き出しそうになった。
「現在の私たちの状況は、この定義に89%合致しています。……つまり、私たちは現在、ハネムーン中と定義してよろしいでしょうか?」
彼女は真顔だ。赤い瞳が純粋な知識欲で輝いている。
「ち、違う! 俺たちは任務中だ! それにハネムーンってのは、その……結婚した夫婦がするもんだ」 「結婚……。契約の儀式ですね。では、アガルタを壊滅させた際に交わした『死ぬまで一緒だ』という契約は、結婚に該当しないのですか?」
痛いところを突く。 確かにあの時、俺たちは魂レベルで誓いを立てた。あれ以上の契約書なんて、この世界のどこにもないだろう。
「……まあ、似たようなもんかもな」 「了解。では、当面はこの旅を『ハネムーン・ミッション』と呼称します」
アイリスは満足げに頷くと、俺の隣にぴたりと寄り添って座った。 肩が触れ合う。 こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいい。 本気でそう思ってしまうほど、今の俺たちは満たされていた。
だが、世界はそれを許さない。
***
翌日。 俺たちは補給のために、地図にある小さな集落へ向かった。 だが、村の入り口に立った瞬間、違和感が肌を刺した。
「……静かすぎる」
鳥の声もしない。風の音さえ消えている。 そして、村全体が鮮やかすぎる「緑」に覆われていた。 民家の屋根、壁、そして路上に放置された車まで、見たことのない毒々しい色の花が咲き乱れている。
「生体反応あり。ですが……波形が異常です」
アイリスが『アズラエル』を実体化させる。 俺たちは警戒しながら広場へと進んだ。 そこで見た光景に、息を呑んだ。
人だ。 数十人の村人たちが、広場の中央で立ったまま動かない。 いや、動けないのだ。 彼らの足は地面に根を張り、皮膚からは枝が生え、頭部には巨大な花の蕾が寄生している。 まるで、人間が植物の「植木鉢」にされたような姿。
「う……あ……」
一人が微かに呻いた。まだ生きている。 生きたまま養分を吸われているのだ。
「酷い……。これは『天使』の捕食行動ではありません」
アイリスが怒りに声を震わせる。 その時、花畑の奥から、優雅な拍手が聞こえてきた。
「おやおや、珍しいお客さんだ。肥料になりに来たのかい?」
現れたのは、真っ白なスーツを着た細身の男だった。 緑色の長髪。手には園芸用の鋏を持っている。 その背中には、昆虫の羽のような、薄い四枚の翼が生えていた。
「誰だ、てめぇは」 「僕は『庭師』。偉大なるイヴ女王陛下に仕える、第一の使徒さ」
男は愛おしそうに、村人の頭に咲いた花を撫でた。
「陛下は仰った。『地上を楽園にせよ』と。だから僕は、こうして汚い人間たちを美しい花に変えてあげているんだよ。……素敵だろう?」 「……反吐が出る」
俺はライフルを構えた。 こいつは『天使』じゃない。明らかに知性を持ち、悪意を持って人間を蹂躙している。 イヴが生み出した、新しい悪夢だ。
「アイリス、やるぞ! これ以上好きにはさせるな!」 「了解! 対象、剪定します!」
アイリスが地を蹴る。 だが、庭師は余裕の笑みを崩さなかった。
「野蛮だねえ。僕の庭で暴れないでくれるかい?」
彼が指を振ると、地面から巨大な茨の触手が噴出した。 それは鋼鉄のような硬度で、アイリスの鎌を受け止める。
ガギィィィン!!
「硬い……!?」 「さあ、君たちも僕のコレクションにおなり。……女王陛下への、いい手土産になりそうだ」
茨が生き物のようにうねり、俺たちを取り囲む。 『ハネムーン』の終わりは、あまりに唐突だった。 第二部、開幕。俺たちの戦いは、より過酷なステージへと突入する。




