第25章(後編):『神殺しの狂宴(後編):さよなら、私の優しいお姉ちゃん』
そこは、暖かくて、どこか懐かしい匂いのする場所だった。 真っ白な空間。 目の前には、記憶の中と同じ、優しい笑顔の女性が立っていた。
「……姉さん」
俺は震える声で呼んだ。 セレン・アークライト。俺のために全てを犠牲にした、最愛の姉。 彼女はふわりと笑い、俺の頬に手を伸ばした。
『大きくなったね、クロト。……もう、泣き虫じゃなくなった』
その手は温かかった。 ここにずっと居たい。謝りたい。ありがとうと言いたい。 溢れ出す感情に溺れそうになる俺を、彼女は静かに制した。
『ここに居てはいけないよ。貴方が帰る場所は、ここじゃない』 「でも、姉さんは……!」 『私はもういないの。あそこにいるのは、私の記憶の残骸を使っただけの、悲しいシステム。……だから、壊して。クロトの手で、私を楽にして』
彼女は俺の背中を、トン、と押した。
『大丈夫。貴方にはもう、私よりもずっと強くて、可愛いパートナーがいるでしょう?』
視界が白く弾ける。 最後に見た姉さんの顔は、どこか晴れ晴れとしていた。 『さよなら、クロト。……愛しているわ』
***
「――ハッ!!」
俺は現実に引き戻された。 戻ってきたのは、轟音と熱風が吹き荒れる地獄の底だ。
「マスター!! 意識レベル回復を確認!」
アイリスの悲痛な叫び。 見れば、彼女は俺を抱きかかえながら、オリジナルの猛攻を片手で防いでいた。 ドレスは破れ、左腕の装甲が砕け散っている。
「……待たせたな、アイリス」 「クロト……!」 「姉さんに怒られたよ。さっさと帰れってな」
俺はふらつく足で立ち上がり、通信機を掴んだ。
「イヴ! まだ生きてるか!」 「あったりまえでしょ! でも限界だよ、あいつ硬すぎ!」
空中でオリジナルとドッグファイトを繰り広げていたイヴが叫ぶ。 オリジナルの再生能力は異常だ。通常の攻撃では埒が明かない。 なら、物理法則ごとねじ切るしかない。
「イヴ、お前の重力操作を貸せ!」 「はぁ? 何言ってんの?」 「アイリスの鎌に、お前の重力を纏わせるんだ! 『質量』で叩き潰す!」 「……あはっ! バカだねえ、それ最高!」
イヴが笑い、急降下してきた。 彼女はアイリスの『アズラエル』の刃に手を触れる。
「特別サービスだよ、お姉ちゃん! 地球一個分の重さ、受け取って!」
ズズズンッ!! 鎌の刃が黒いオーラを纏い、周囲の空間が歪む。 あまりの質量に、アイリスの腕が軋み、足元の床が陥没した。
「警告! 重量過多! フレームが耐えられません!」 「耐えろ! 俺とお前の全力なら振れる!!」
俺は背後からアイリスの手を握りしめ、一緒に柄を支えた。 『共感接続』全開。 俺の筋力信号を上乗せし、限界を超えた出力を絞り出す。
『……クロト……』
オリジナルが、また姉の声で何かを呟こうとした。 だが、もう迷わない。
「おやすみ、姉さん。……いい夢を」
俺とアイリスは、同時に叫んだ。
『墜ちろォォォォォッ!!』
黒い重力を纏った大鎌が、神殺しの一閃を放つ。 防御障壁? 装甲? 関係ない。 事象の地平線すら切り裂く一撃が、オリジナルの胴体を、コアごと、空間ごと両断した。
パリーン……。
世界が割れる音がした。 黄金の光が霧散し、神の姿が崩れ去っていく。
***
崩壊が始まった。 支えを失ったアガルタの天井が、次々と落下してくる。
「脱出するぞ! 急げ!」
俺たちは全速力でエレベーターシャフトを駆け上がった。 イヴは崩れゆくオリジナルの残骸から、何か光るものをひょいと摘み上げ、口に放り込んだ。
「ん〜、ちょっと苦いけど、ごちそうさま!」
彼女は満足げに唇を舐めると、黒い翼を広げた。
「じゃあね、お兄ちゃん、お姉ちゃん! 今日は楽しかったよ!」 「イヴ! お前は……!」 「勘違いしないでね。次に会ったら、また殺し合いだよ。……バイバーイ!」
彼女は崩落する瓦礫の隙間を縫って、あっという間に姿を消した。
俺とアイリスも、スラスターを全開にして上昇する。 下からは紅蓮の炎。上からは瓦礫の雨。 だが、その遥か頭上に、微かな光が見えた。
「アイリス、飛べッ!!」 「了解!!」
俺たちは互いに抱き合い、一筋の光に向かって突っ込んだ。
***
風が、止んだ。
俺たちが飛び出したのは、地上の瓦礫の山の上だった。 全身泥だらけで、息も絶え絶えになりながら、俺たちは仰向けに倒れ込んだ。
「……生きて、ますか?」 「ああ……なんとかな」
痛まない場所がない。だが、生きている。 俺はゆっくりと目を開けた。
そこにあったのは、いつもの灰色の雲ではなかった。 アガルタのシステム停止により、環境制御装置が誤作動したのか、あるいは偶然か。 分厚い雲が割れ、そこから眩い陽光が降り注いでいた。
その色は、灰色でも、黒でもない。 どこまでも深く、透き通るような――。
「……青」
アイリスが呟いた。 彼女は空に手を伸ばし、その透過光を指の隙間から見つめている。
「これが、本物の空……。データにあるどんな色よりも、鮮やかです」 「ああ。……綺麗だな」
俺は彼女の手を握った。 アガルタは堕ちた。姉さんは逝った。 世界はこれからもっと過酷になるだろう。イヴもいる。レジスタンスとの関係もどうなるか分からない。 だが、俺たちの頭上には、この空がある。
「行きましょう、クロト」
アイリスが微笑んだ。 それは、人形のような無機質なものではなく、人間のような温かい笑顔だった。
「貴方と一緒なら、どんな地獄も、きっと悪くありません」
俺たちは起き上がり、青空の下、新たな荒野へと歩き出した。 機械の少女と、灰被りの少年。 二人の本当の物語は、ここから始まるのだ。




