第2章 :『体温のない肌、熱を帯びる回路』
廃墟の夜は、死のように静かだ。 かつてオフィスビルだったと思しきコンクリートの塊。その三階、壁が崩れ落ちて外気が吹き込む部屋で、俺たちは身を潜めていた。
焚き火は厳禁だ。『天使』は熱源と光に敏感だからだ。 頼りになるのは、遮蔽カーテンの隙間から漏れる月光代わりの、薄暗いケミカルライトの緑色の光だけ。
「……背部装甲、パージします」
アイリスが短く告げると、プシューという排気音と共に、彼女の背中の重装甲が外れた。 露わになったのは、人間と見分けがつかないほど精巧に作られた、白磁のような背中だ。しかし、その背骨に沿って埋め込まれた冷却用スリットと、左肩の痛々しい裂傷が、彼女が『作り物』であることを残酷に示していた。
「ひどいな。内部フレームまでイッてるぞ」
俺は携帯用の整備キットを広げ、彼女の背後に回る。 指先が彼女の肌に触れた。 冷たい。 生きている人間のような温かさはなく、硬質なセラミックと人工皮膚の冷たさが指先を刺す。
「痛覚センサーは?」 「オフにしています。作業に支障はありません。……指揮官、手早く済ませてください。貴方の休息時間が削れます」
彼女は前を向いたまま、事務的に言った。 その声には、己の体が傷ついていることへの関心など微塵もない。ただの道具のメンテナンス。そう割り切っている。
俺はんだ、と喉を鳴らし、高粘度の修復ジェルを傷口に塗り込む。 ショートした配線を繋ぎ直し、歪んだフレームを専用工具で強引に戻す。
「っ……」
不意に、アイリスの肩が微かに跳ねた。
「おい、痛いのか?」 「……否定します。異常信号による反射動作です。痛覚は遮断されています」 「嘘をつけ。お前の機体、OSが古いからたまに遮断漏れがあるんだろ」
俺は作業の手を止めず、しかし指先の力加減を少しだけ緩めた。 軍のマニュアルなら、破損パーツは「廃棄」して「新品に交換」だ。だが、今の物資状況ではそんな贅沢はできないし、何より――俺は、彼女のこの傷だらけのパーツこそが、彼女が戦い抜いてきた証のような気がして、捨てる気にはなれなかった。
「……非合理的です」
沈黙を破ったのはアイリスだった。
「この程度の損傷、戦闘行動に支障はありません。貴方はなぜ、そこまで丁寧に修復するのですか? まるで、生身の人間を扱うように」 「俺にとっては、お前も部下の一人だ。人間だろうが機械だろうが、俺のために命を張ってくれた奴を雑には扱わん」
配線の結合が完了し、バックライトが正常な青色に戻る。 俺が工具を置くと、アイリスはゆっくりと振り返った。 ケミカルライトの緑色の光に照らされた赤い瞳が、じっと俺を見つめている。解析しているような、それでいて、何か言いたげな瞳。
「……指揮官の心拍数が安定していません。疲労が蓄積しています」
彼女は自分の収納スペースから、何かを取り出した。 銀色のパウチ。軍支給の、味気ない高カロリーゼリーだ。 だが、それは俺の分ではない。アイリスの予備糧食だ。
「摂取してください。貴方が倒れると、指揮系統が崩壊します。それは困ります」 「お前の分だろ。俺は持ってる」 「私はまだ稼働限界まで余裕があります。……これは、命令ではなく提案です」
彼女は無表情のまま、パウチを俺の手に押し付けた。 その指先が、一瞬だけ俺の手の甲に触れる。 冷たいはずのその接触が、なぜか今は少しだけ、温もりを帯びているように錯覚した。
「……ありがとう。もらうよ」
俺が苦笑して受け取ると、彼女はふいっと視線を逸らし、崩れた壁の向こうへ目を向けた。
「……空」
彼女がぽつりと呟く。 壁の穴から見えるのは、分厚い鉛色の雲が垂れ込める、いつもの絶望的な空だ。
「あれの向こうに、青色があるというのは、本当でしょうか」 「ああ、あるさ。昔の記録映像で見たことがある」 「そうですか。……見てみたいですね。解析不能な色を」
感情のない声。だが、そこには確かに「意思」のような響きがあった。 人類に見捨てられたこの地上で、泥と油に塗れた俺たちは、届かない空を見上げている。
その時だ。
ピピピッ、ピピピッ。
アイリスの索敵レーダーと、俺の携帯端末が同時に警告音を上げた。 敵襲か? いや、違う。 モニターに表示された波形を見て、俺は息を呑んだ。
「……識別信号、ヒューマン? 馬鹿な、この汚染エリアで?」
アイリスが素早く『葬送の杭』を構え、俺の前に立つ。 その背中は、先ほどまでの儚げな少女のものではなく、冷徹な守護神のものに戻っていた。




