第17章 :『暴食の女王と、泥濘(ぬかるみ)の失敗作』
それは、生物と呼ぶにはあまりに冒涜的だった。
地下から噴き出したのは、黒い泥だ。 アスファルトのような粘度を持った流動体。それが、ボコボコと泡立ちながら膨れ上がり、周囲の瓦礫や機械を飲み込んでいく。
「ア……ガ……」
瀕死のシュナイダーが何かを叫ぼうとした瞬間、黒い波が彼を呑み込んだ。 断末魔すら上がらない。 数秒後、泥の表面にシュナイダーの苦悶の表情が浮かび上がり、そして溶けるように消えた。
「……対象、構成物質不明! あらゆる物理スキャンが無効です!」
アイリスの声に焦りが混じる。 泥はシュナイダーを取り込んだことで質量を増し、天井に届くほどの巨人と化した。顔のない頭部から、ギョロリと無数の目玉が開く。
「下がるんだ、アイリス! 距離を取れ!」 「いけません! この速度ではマスターが追いつかれます。迎撃します!」
アイリスが前に出る。 ブォォォォン!! 『対艦用チェーンソー剣』が唸りを上げ、泥の巨人の胴体を薙ぎ払った。
ズプッ。 手応えがおかしい。 高速回転する刃が、泥の中で空転している。切断できない。それどころか――。
「警告! ブレードの腐食を確認! 超硬合金が融解しています!」
ジュワワワワ……と嫌な音が響く。 最強の剣が、飴細工のように溶かされていく。 巨人の身体から黒い触手が伸び、動けなくなったアイリスへと殺到した。
「しまっ――」 「アイリスッ!!」
俺がライフルを構えた、その時だ。
ドォォォォン!!
真上の天井が、爆発したかのように弾け飛んだ。 瓦礫の雨と共に、軽やかな着地音。 舞い降りたのは、鮮血のような赤。
「あーあ。せっかくのお昼寝中だったのに、うるさいなぁ」
けだるげな声。 赤いレインコートの少女――イヴが、瓦礫の上にしゃがみ込んでいた。 彼女は頬杖をつき、眼下の惨状を退屈そうに見下ろしている。
「イヴ……!?」 「あ、お兄ちゃんたちだ。……うわ、なにこれ汚い。失敗作が溢れちゃってるじゃん」
イヴは泥の巨人を見て、汚いものを見るように鼻をつまんだ。 巨人は新たな獲物に反応し、触手をイヴへと伸ばす。アイリスを溶かしかけた、必殺の一撃だ。
「危ない!」
俺の叫びも虚しく、触手はイヴを直撃し――。
パチン。
イヴが指を鳴らした瞬間。 触手は弾け飛び、霧散した。 いや、違う。触手だけではない。 彼女の前方にある空間そのものが「捻じ切られた」のだ。
「身の程を知りなよ、No.00(ゼロ)。あんたはただの廃棄データなんだから」
イヴが右手をかざす。 それだけの動作で、巨大な泥の塊が、見えない巨大なプレス機に挟まれたようにひしゃげた。
『ギ……ギャア……ア……』
空間が軋む音がする。 数十トンはあるはずの巨体が、メキメキと圧縮されていく。 バスほどの大きさから、冷蔵庫サイズへ。そしてサッカーボールサイズへ。
「ごめんね、お姉ちゃん。ちょっと借りるよ」
イヴはアイリスの手から、溶けかけたチェーンソー剣をひょいと取り上げた。 そして、圧縮されて逃げ場を失った黒い球体に向けて、フルスイングした。
「フォア!」
ドゴォォォォン!! ホームランだ。 黒い球体は音速を超えて壁をぶち抜き、はるか彼方の空へ消えていった。
静寂。 圧倒的すぎる暴力を前に、俺も、アイリスも、言葉が出なかった。 これが、イヴの力。 シュナイダーが最新鋭? 俺たちが強くなった? 笑わせる。次元が違う。彼女こそが、この地上の生態系の頂点だ。
「ふぅ。いい運動になった」
イヴは伸びをすると、チェーンソー剣をアイリスに返した。 そして、黄金の瞳で俺たちを覗き込む。
「……ねえ。まだ『熟して』ないね」
彼女はアイリスの頬――泥汚れと、俺が拭った跡のある頬に触れた。
「アガルタを壊せば、もっと美味しくなるかな? ……期待してるよ、お姉ちゃん。私の空腹を満たしてくれるのを」
彼女は無邪気に笑うと、背中から光の翼――『天使』の光輪に似たエネルギー翼を展開した。 そのまま垂直に飛び上がり、崩落する天井の穴へと消えていく。
「バイバーイ! 死なないでね!」
残されたのは、崩れゆく施設と、呆然とする俺たちだけ。
「……計測不能。エネルギー値、測定限界。……勝てません、クロト。現状のスペックでは、彼女に触れることすら」
アイリスの手が震えている。恐怖ではない。あまりの性能差に対する、本能的な畏怖だ。 俺は彼女の肩を抱き、出口へと走らせた。
「今はいい! 生き残ることが先決だ! ……あいつとの決着は、まだ先だ!」
俺たちは炎に包まれるプラントを背に、全速力で駆け抜けた。 ヴァネッサたちが待つ外の世界へ。 だが、俺たちの心には、勝利の喜びよりも深く、あけすけな恐怖が刻み込まれていた。
本当の敵はアガルタではないかもしれない。 あの、無邪気な赤い悪魔なのかもしれないと。




