第11章 :『ホルマリンの悪夢、あるいは硝子越しの姉妹たち』
その場所の空気は、地上(煉獄)の腐敗臭とは異質の、冷たく鋭い臭いがした。 鼻孔を刺す薬品臭。そして、乾いた埃の匂い。
「……生体反応なし。ですが、微弱な電力供給が継続されています」
アイリスがチェーンソー剣を構え、警戒しながら進む。 非常用電源の赤い回転灯が、長い廊下を不気味に照らし出している。壁には『B-3 生体部品保管室』というプレートが半分剥がれ落ちていた。
「生体部品……やな響きだな」
俺はライフルのグリップを握りしめた。 アガルタの教科書では、葬送機は「AIと超合金の結晶」だと教わってきた。だが、イヴの言葉が脳裏をよぎる。『混ざりもの』。
プシュー……。 気密扉を手動でこじ開けると、冷気が足元を這った。 中に入った瞬間、俺たちは息を呑んだ。
そこは、墓場だった。 ただし、土の下ではない。ガラスの中の墓場だ。
広大な部屋に、林のように立ち並ぶ円筒形のガラス水槽。 緑色の保存液の中には、無数の「それ」が浮いていた。
「……嘘、でしょう?」
アイリスの声が震えた。 水槽の中にあるのは、機械のパーツではない。 白くふやけた、人間の脳髄。 脊髄が垂れ下がり、無数の電極が直接神経に突き刺されている。 隣の水槽には眼球だけが、その隣には神経繊維が張り巡らされた人工心臓が。
「これが、葬送機の……『材料』?」
俺は吐き気を堪え、水槽の下にあるプレートを読んだ。 『試作体 No.402:拒絶反応により廃棄』 『試作体 No.505:自我崩壊により凍結処理』
部品ではない。これらはすべて、かつて生きていた人間だ。 人間を部品に加工し、金属の殻に閉じ込める。それが、人類の守護神の正体だったのか。
「う、あ……ッ」
隣で、何かが崩れ落ちる音がした。 アイリスが膝をつき、口元を押さえている。
「クロト、私……私も、これと同じ……? 私の頭の中に、誰かの死体が……?」
『共感接続』を通じて、強烈な拒絶反応が流れ込んでくる。 恐怖。自己嫌悪。そして、自分が「穢れた存在」であるという絶望。 アンドロイドには嘔吐機能などないはずだ。だが、彼女の体は激しく痙攣いていた。
「見るな、アイリス!」
俺が駆け寄ろうとした瞬間。
『侵入者検知。カテゴリ:機密保持対象。排除モード起動』
無機質な合成音声が響き渡った。 部屋の四隅から、クモのような多脚戦車が現れる。旧時代の自動警備ドローンだ。赤いセンサーが俺たちを捉える。
「アイリス、立つんだ! 来るぞ!」
俺は叫ぶが、アイリスは震えたまま動けない。 赤いレーザーサイトが彼女の頭部に集中する。
「クソッ!」
俺は彼女の前に滑り込み、対物ライフルを腰だめで発射した。 ズドン!! 轟音と共に、先頭のドローンが吹き飛ぶ。だが、数は十機以上。
「アイリス! お前が何で作られていようが関係ない! 今ここにいるのは、俺の相棒だろッ!!」
俺の声に、彼女がハッと顔を上げた。 赤い瞳に、涙のような生理食塩水が溜まっている。
「……クロト」 「死にたくなきゃ剣を取れ! 生きるんだよ、俺たちは!」
ドローンの一機が跳躍し、鋭利な爪を振りかざす。俺のリロードは間に合わない。 ガキンッ!! 金属音が火花を散らす。 寸前で、巨大な黒い刃が爪を受け止めていた。 アイリスだ。まだ足は震えている。だが、その手はしっかりとチェーンソー剣を握っていた。
「……了解。生存ます」
ブォォォォォォン!! エンジンが咆哮する。 彼女は迷いを振り払うように剣を薙ぎ払った。水槽が割れ、保存液と脳髄が床にぶちまけられる中、ドローンの群れが鉄屑へと変わっていく。
戦闘は一分で終わった。 静寂が戻った部屋で、アイリスは荒い排気音を漏らしていた。
「……汚れた手です」
彼女は自分の手を見つめた。返り血ならぬ、緑色の保存液に塗れた手。
「それでも、俺が繋いでやる」
俺はハンカチを取り出し、彼女の手を丁寧に拭った。 そして、部屋の最奥にあるメインコンピュータへと歩み寄る。 電源が生きていたのは、ここだけだ。誰かが最近、アクセスした形跡がある。
モニターを覗き込んだ俺は、言葉を失った。 そこに表示されていたのは、アイリスの設計データ。 そして、その『コア』となった提供者の名前。
『プロジェクト・アイリス 被験体No.704:セレン・アークライト』
心臓が止まるかと思った。 セレン・アークライト。 それは、三年前に死んだはずの、俺の実の姉の名前だった。
「……嘘だろ、姉さん……?」
背後でアイリスが息を呑む気配がした。 運命の歯車が、残酷な音を立てて噛み合った瞬間だった。




