第10章 :『鋼鉄の駿馬(スレイプニル)、あるいは風を切る背中』
地上での移動は、常に死と隣り合わせだ。 一歩踏み出すたびに足場の崩落を警戒し、物陰の『天使』に怯える。30キロという距離は、この煉獄においては永遠にも等しい。
「……徒歩での到達予想時刻、14時間。日没に間に合いません」
アイリスが瓦礫の山を見上げながら、淡々と計算結果を告げる。 俺たちは今、かつて『高速道路』だった高架下のジャンクション跡地にいた。頭上には、無惨に折れ曲がった道路がアーチのように架かっている。
「夜間の移動は自殺行為だ。足がいるな」
俺の視線が、コンクリートの残骸に半分埋もれた「鉄塊」に止まった。 塗装は剥げ、苔が生しているが、その骨格は軍用規格の堅牢さを保っている。 旧防衛軍の『高機動強襲二輪車』だ。
「アイリス、手を貸してくれ。こいつを掘り出す」 「了解。……ですがクロト、この損傷状態での稼働率は0%と推測されます」
アイリスは瓦礫を軽々と放り投げながらも、懐疑的だ。 確かに、タイヤはパンクし、バッテリーは完全に死んでいる。 だが、心臓部が生きていれば勝算はある。
俺はサイドカバーをこじ開け、複雑な配線を剥き出しにした。
「こいつは水素燃料電池とモーターのハイブリッドだ。……アイリス、お前の外部出力ポートを使わせてくれ」 「私の動力を……バイクに?」 「ああ。お前がバッテリー代わりだ。俺が運転するから、お前は後ろでエネルギーを供給し続けてくれ」
それは、即席の『人馬一体』システムだ。 俺は予備ケーブルを、アイリスの太腿にある接続端子と、バイクのインテークに繋いだ。 パンクしたタイヤには、硬化フォーム材を注入して無理やり固める。乗り心地は最悪だろうが、走れればいい。
「接続。出力安定。……行きます」
アイリスの瞳が青く発光する。 次の瞬間、死んでいたはずの鉄馬が、キュイイイイン……という高周波音と共に唸りを上げた。 計器類が灯り、埃まみれの車体が振動を始める。
「蘇った……!」
俺はシートに跨り、ハンドルを握った。 手に伝わるエンジンの鼓動。男なら誰だって血が騒ぐ感覚だ。
「乗れ、アイリス! 飛ばすぞ!」 「……推奨速度を超過しないようにお願いします」
アイリスが俺の後ろに跨る。 重厚なバトルドレスのスカートを巧みにさばき、彼女の腕が俺の腹部に回された。 背中に、硬質な装甲と、その奥にある柔らかい感触が押し付けられる。
「しっかり捕まってろよ!」
俺はスロットルを一気に回した。 ギャアアアッ! タイヤが地面を削り、車体がロケットのように弾け飛ぶ。
風だ。 アガルタの空調された風ではない。 硝煙と土の匂いを含んだ、荒々しい地上の風が全身を叩く。
「ッ……! 風圧レベル、想定以上! クロト、前が見えていますか!?」 「最高だろ!? これが『自由』ってやつだ!」
瓦礫を避け、崩れたアスファルトをジャンプし、俺たちは灰色の荒野を疾走した。 時折、物陰から『天使』が飛び出してくるが、今の俺たちの速度には追いつけない。 置き去りにされる怪物たちが、バックミラーの中で豆粒になっていく。
背中のアイリスが、腕に力を込めたのが分かった。 ギュッと、しがみつく強さが強くなる。
「……不思議です」
風切り音に混じって、彼女の声がインカムから聞こえた。
「効率は最悪です。振動による機体ダメージも蓄積しています。……なのに、回路が高揚しています。貴方の背中が暖かいからでしょうか」 「それもあるかもな。……俺たちは今、どこへだって行ける気がしないか?」 「……肯定。貴方となら、世界の果てまで」
灰色の雲が切れ、一筋の陽光が俺たちの行く手を照らした。 俺たちは笑い合いながら、アクセルを開け続けた。
***
一時間後。 俺たちはバイクを止めた。 目の前には、鬱蒼とした森に飲み込まれかけた巨大な白い建造物が鎮座していた。
『国立脳科学研究所』。 かつて人類の英知の結晶だった場所。今は、不気味なほどの静寂に包まれている。
「……到着しました。ここが、私の『はじまり』の場所?」
バイクから降りたアイリスが、ケーブルを外しながら呟く。 俺はライフルを構え、正門のゲートを確認した。 厳重な電子ロックが施されているはずだった。俺のハッキングツールでこじ開けるつもりだったのだが――。
「……開いている?」
厚さ50センチの鋼鉄のゲートが、わずかに開いていた。 しかも、蝶番が焼き切られている。 断面は新しい。ここ数日以内のものだ。
「クロト、熱源反応。……微弱ですが、内部に『先客』がいます」 「イヴか? それともアガルタの追手か」
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。 どちらにせよ、歓迎してくれる相手ではないだろう。
「行くぞ。ここから先は、本当の地獄だ」 「了解。……対象、全排除します」
アイリスがチェーンソー剣を構え、俺の前に立つ。 俺たちは暗い口を開けた研究所の闇へと、足を踏み入れた。




