森の門に射る矢 ―エルフの少女編①―
「いい加減にしてくれないか、エリオット!」
アリアの声が森に響いた。つい先ほどまで藪を跳ねていた兎は、いまや白い骨格だけで二足立ち、ぎくしゃくと首を傾けている。少年はその骨を陶酔に似た眼差しで見つめた。
「だって、アリア。この肩甲骨の角度……筋の流れが想像できるだろ? もう芸術――」
「芸術だろうと食えないなら無意味だ。今日は保存食で済ませる」
アリアは腰袋から干し肉と黒パンを差し出し、骨兎の額に二指で触れる。
「戻れ。骨兵解放」
白骨はぱらりと崩れ、落葉に紛れて静かに土へ還った。エリオットはしょんぼりとパンを受け取る。
「……ごめん」
「気にするな。ただ、時と場所を選べ。お前の術は人を救うために使う」
淡い吐息が白く散る。森は深く、湿り、鳥の声すら遠い。目指すは奥の里――エルフの集落。そこに「森羅の雫」と呼ばれる再生の結晶があるという。解けない呪いを解く鍵が、そこに。
しばらく進むと、蔦で編まれた巨大なアーチが現れた。苔むした根が地を穿ち、門は息づく生き物のように微かに脈を打つ。
「……あれが入り口か」
アリアが呟いた刹那、ひゅ、と空が鳴った。
反射で剣が跳ね上がる。刃が火花を散らし、岩肌に弾けた矢の鏃から紫の液が滴った。
「毒矢」
二の矢、三の矢。アリアは半身を切って弾き、最後は足で地を抉って間を詰める。
茂みが揺れ、銀髪が差す。長い耳、澄んだ青の瞳――エルフの少女が弓を引ききっていた。
「人間は、里に近づくことを許さない」
声音は冷えた泉のように澄んでいる。アリアは剣先を下げ、低く応えた。
「争うつもりはない。助けを求めに来た。『森羅の雫』の伝承を聞いている」
かぶせるように弦の軋み。次の矢は迷いがなかった――その前へ、エリオットが滑り込む。
「待って! 君の目、僕と同じだ。誰にも寄りかかれずに、ずっと冷たくしてきた目だ」
少女の指が、ぴたりと止まる。弓弦がわずかに震え、青い瞳が揺れた。
沈黙が、落ちる。
弦が弛み、矢は戻された。少女はゆっくりとフードを下ろす。
「……私はリリス。里の……忌み子」
風に銀髪が鳴った。アリアは剣を鞘に納め、膝をひとつ折って視線を合わせる。
「名乗りに礼を。私はアリア。こちらはエリオット。助けが必要なら言ってくれ」
リリスは唇を噛み、かすかに頷く。
「……母が、呪われている。誰にも近づくなと言われている小屋で……日に日に、枯れていくの」
アリアの目が細くなる。エリオットの指先に静かな魔力が灯った。
「案内して」
◆
森を縫う獣道の先、小さな小屋があった。苔むした屋根、朽ちた扉。中はうす暗く、薬草と血の匂いが混ざっている。寝台の上に、一本の枯れ木のような女性が横たわっていた。頬はこけ、唇は白い。
「母さん……」
リリスが手を握る。冷たい。アリアは脈を測り、目蓋の動きを見てから、エリオットに目で合図した。
「視ていいか?」
「頼む」
エリオットは女性の手首に触れ、低く詠唱を紡ぐ。
「……死の影、来るな。示せ、形。呪詛視」
白い指先に黒い糸が絡み――じわ、と浮かび上がる。胸から腹、喉へ、細い棘が内側に食い込むように走っていた。呪いの形は、不吉に美しかった。
「……これは、長くかけられた呪いだ。外からの一撃じゃない。日々、砂を落とすように、弱らせる」
アリアは短く息を吐く。
「誰がやった」
リリスは震え、言葉を絞った。
「……長老たち。母は“森羅の巫女”だったのに、突然“穢れを呼ぶ”って。わたしが、忌み子に生まれたから」
アリアの指が、寝台の木を軽く叩いた。致死か否か――判断の秤が胸の内に上がる。
(まだ斬る場ではない。事実を掴む)
「解けるか、エリオット」
「できる。けど、乱暴に剥がせば命が持たない。雫(結晶)があれば楽だけど……」
「なら段階的に削ぐ。私が守る」
アリアは扉の外に視線を向けた。森のざわめきが、わずかに硬い。人の足音、鉄の匂い。
(……重い。外に“別の敵”がいる)
「急いだ方がいい。森が警告してる」
エリオットが頷き、手を重ねる。
「まずは喉の棘から。緩解呪……**聖光祈祷**の代替、弱い光で包む」
微かな光が喉元に灯り、黒い糸が一筋ほどける。女性の呼吸が少し楽になった。リリスが涙をこぼす。
「母さん……!」
「まだ序の口だ。続ける」
アリアは椅子を引き寄せ、扉と窓を見張りながら、可変槍の柄に指をかける。突と薙ぎ――状況で切り替えるために。
(助ける。助けたうえで、里の真を問う。それから――必要とあれば、斬る)
◆
二本、三本――棘がほどけ、女性の頬にかすかな血色が戻る。呼吸は深く、目蓋が震えた。
「……森、の……匂い」
最初の言葉は、羽のように軽かった。リリスは唇を噛み、笑った。
「母さん、わたしよ」
エリオットが汗を拭い、息を整える。
「休憩を入れたい。無理に剥がすと反動が来る」
「外を見てくる。すぐ戻る」
アリアは立ち上がり、扉の隙間から森を覗く。
風が止んだ。鳥が鳴かない。遠く、葉がまとめて擦れる音――多すぎる足。
金属音。短く、規律的な合図。
(軍靴)
アリアは槍を抜き、柄を短く締めて室内に戻った。
「エリオット、リリス。里へ伝令を。武装を整えろ。――人間の軍だ」
リリスの顔から色が引く。
「帝国……?」
「たぶん、レムリア帝国」
窓の外で、黒鉄の影が樹間に差した。赤い月章の旗。槍列、重装。
先頭に、灰色の外套を纏った男が立つ。獲物を値踏みするような眼。
(――将。ガレス・ヴェイン)
彼の背後に二人の影。湾曲剣を腰に携えた冷たい目の男、副官ヴァルク。
紅の外套を燃やすような若い魔導士、セラ・ノウス。
さらに離れた樹間、獣の気配。獣兵隊長ラガン。
(間が悪い、が――やるしかない)
アリアは槍をぐっと伸ばし、突槍に切り替える。
「エリオット、結界を。リリス、里の門へ走れ。母上を守る人を集めろ」
「わかった。**骨翼形成**で小屋を覆う」
「私は……!」
「来い、リリス。案内はお前にしかできない」
少女は涙を拭き、弓弦を確かめた。
「……うん」
扉が開く。冷たい空気が流れ込み、葉の影が戦場の模様に変わる。
アリアは一歩、外へ出て、声を張った。
「ここは森の領域だ。引け。用件があるなら代表だけ来い」
静寂。やがて、灰外套の男が笑った。
「文明は境界を越える。森もまた、版図に過ぎん。――私はレムリア帝国将軍、ガレス・ヴェイン。命じる。道を開け」
アリアは顎をわずかに傾け、彼の背後を測る。矢倉代わりの樹上に、弓兵。左右で斧と槍の小隊。後方に魔導士。獣兵は風下。
(弓から。次に魔導。前衛は突で裂ける)
「拒否する」
その一言が、火蓋だった。
樹上が鳴り、矢が空を裂く。
アリアは前へ踏み込み、槍を水平に。突きが連なり、矢筋を砕く。
背でエリオットの陣がひらき、小屋の上に白い骨の庇が生えた。
「範囲守護魔法!」
白の光が一瞬だけ差し込む。彼方でエルフの術者が結界を重ねたのだ。
リリスが矢を放つ。**風矢魔法**の細い尾が、樹上の弓兵の手を射抜く。
「セラ、前を焼け」
ガレスの声。
紅の外套が唇を歪め、杖を突き出した。
「喜んで――爆炎嵐魔法!」
炎の渦が地を舐める。アリアは槍を斜めに構え、短く締めて薙ぎ払う。
熱が刃の表面を走る。視界の端で、黒い影――獣兵の突進。
狼の耳、低い重心。ラガンの双剣が草を裂いた。
致死の判断は、刹那だった。
アリアは片脚を軸に、槍を最短距離で返す。
一撃で喉。――できる。だが、彼はまだ踏み込みの手前。
(殺す理由は十分か? まだだ)
代わりに、足首の腱を刺す。
ラガンは地を転がり、爪で止血しながら舌打ちした。
「……女、容赦はしないが、狩りは嫌いじゃない」
「なら引け」
アリアは冷たく返し、次の矢を弾いた。
エリオットの声が背に届く。
「アリア、長くは持たない! この人数は――」
「わかってる。門まで下がる。里の陣形に乗る」
ガレスが顎を上げ、手を振る。小隊が扇状に展開し、樹間から槍列が前へせり出す。ヴァルクが短く号令をかけた。
「間合い詰め、三段突。左、落ちるぞ」
冷静で、的確。厄介だ。
アリアは可変槍を伸ばし、突の間合いで先頭の槍を弾き、柄で顎を打ち、二列目の喉元へ刃を移す。
男の眼が見開かれ、血が線を引く。致死――必要。
次の瞬間には、三撃目を腹に当て、気を絶ち、倒す。
「リリス、右へ!」
「精霊導術――風、私の矢に!」
矢が曲がり、樹上の魔導士の杖を弾いた。セラが舌打ちして笑う。
「面白い。君の槍、私の火とどっちが速い?」
「試すか?」
アリアは肩を落とし、呼気を深くする。
殺すべき時は、殺す。その覚悟は、もう持っている。
だが――この瞬間は、退くべき時だ。守るために。
「下がれ!」
アリアは叫び、二人を庇って後退した。矢の雨、火の舌、獣の息。
骨の庇が軋み、里の門が見える。
蔦のアーチが光り、緑の結界が息づいた。
「開け!」
リリスの叫びに応じ、門がほどける。
アリアは最後の一歩で槍を薙ぎ、追ってきた槍の穂先をまとめて叩き落とす。
そのまま後ろへ跳び、結界の内へ滑り込んだ。
蔦が締まり、外と内が断たれる。
帝国軍の足が止まり、ガレスが一度だけ剣の柄に手を置く。
「……森ごと焼く気はない。昼までに門を開けろ」
灰外套は背を向け、短く命じた。
ヴァルクが頷き、隊列が退く。セラは名残惜しそうに火を指で弄び、ラガンは足首を押さえて鼻を鳴らした。
静寂。
門の内側で、アリアはゆっくりと槍を下ろした。喉の奥が焼けるように乾いている。
「間に合った。エリオット、呪いを続けろ。リリス、長老を呼べ」
リリスはうつむき、拳を握った。
「……長老は、母に呪いを。謝らせる」
アリアは頷く。
「順番だ。まず、母上を生かす。次に――里の真をただす」
その目は澄んでいた。
致死の閃きも、赦すための鈍色も、どちらもそこにあった。
(扉は蝶番から開く。――押し破らず、外させる)
森がふっと息を吐いた。
夜が近い。
――つづく。
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後書き
お読みいただきありがとうございます。
①では遭遇/邂逅/第一交戦までを描き、アリアの槍運用と“必要なら致死可”の判断軸を提示しました。
次回②**「呪詛の棘」**では、リリス母の解呪と、里の長老たちの罪に踏み込みます。
帝国軍は一時後退。猶予は“夜明けまで”。




