珍獣保護区の大脱走 ― 「拍」と「ほどほど」の使い方
ギルドの掲示板に、また見覚えのある筆跡が走っていた。
《辺境・蒼苔谷“珍獣保護区”の安全監査と避難導線の整備。推挙:エミリア(A級)》
アリアは短くため息をついて、依頼票を剥がした。
(推挙の頻度が高い。……あの人、国を跨いでどこにでもいるな)
*
蒼苔谷は春の手前で、空気だけが生ぬるい。
谷底に並ぶ木柵は、木ではなく符陣で編まれていた。石柱に刻んだ紋に魔力を通し、拍で開閉を制御する“柵”だという。
案内役の管理官――錬金博物師ロクソは、丸眼鏡を押し上げて胸を張った。
「当保護区では、希少生物を“ほどほどに幸せ”へ導くのが理念です。
見学は危険のない区画のみ。符陣柵は“短短長”で開、“長短短”で閉。簡潔でしょ?」
(簡潔であれば、人は油断する)
木陰の小柵では、子ども竜が樽をかじっていた。
「ピップ、樽はだめ」飼育係が叱ると、青緑の舌でぺろりと謝る。
別の囲いでは、角の丸いウサギがころんと転がり、透明なヤモリが壁を滑り、音まね鳥エコーが「ほどほど!ほどほど!」と覚えたてを連呼している。
見学に来ていた村の子どもたちは大歓声。
アリアは外套の襟を正し、広域の見取り図を紙に写した。矢印、避難小屋、貯水塔、橋――
(万一の時は、橋がボトルネックだ)
「女騎士さん!」
背後で、見学の吟遊詩人が陽気にリュートを爪弾いた。た・た・たーん/タタ。
管理官が慌てて走る。「あぁっ、楽士さん、“符陣の拍”に触るような曲は――」
遅かった。
谷の上の風見板が軋み、符陣の石柱が微かに同調する。
リュートの“シンコペーション”が、短長短で空気を裂いた。
ぱんっ。
符陣柵が、一瞬だけ理屈を忘れて、線をほどく。
子竜ピップの瞳が輝いた。「今だ!」と言わんばかりに樽をくぐり抜け、透明ヤモリは壁から解き放たれてするんと外へ、角ウサギはころころと坂を転がり、音まね鳥エコーが頭上で「今だ今だ!」を増幅した。
「――閉」
アリアは管理台の符陣盤に手を伸ばし、長短短を刻む。
一部は戻る。が、半分は逃げ足が速い。
(拍が二つになった。符陣と、楽士)
「楽士、二拍休め!」
短い号令に、リュートの音が途絶える。空気が凪ぐ。
その瞬間、アリアは笛(ヤンから借り受け、以後携行している)を二短一長。
小型の連中は足を止め、アリアの白紙矢印の下にちょこんと集まる。
「よし」
布袋で包もうとした、その気配の向こう。――地鳴り。
「管理官、あの鈍い音は?」
「格納区画の……**甲槌竜**です。温厚ですが、拍に敏感で。乱れると、“道を均す”習性が……」
「均す、とは」
「橋とか、門とか、出っ張りを、です」
(橋はだめだ)
*
谷の中央へ向かう砂利路を、どどんと影が揺れた。
岩板のような背、棍棒のような尾。
甲槌竜が“乱れ拍”を踏みつけ、一直線に橋へ向かう。
見学の子どもたちが悲鳴を上げ、飼育係が散る。
アリアは矢印札を掲げ、叫ぶ。
「年少は小屋へ! 水甕の横で集まれ! 大人は橋を空ける!」
音まね鳥が「小屋へ!小屋へ!」と伝令役になって飛ぶ。役に立つ時は立つのだ。
甲槌竜は、橋脚を均すために尾を振り上げ――
アリアは太鼓を取った。祭り用の小さな胴。どん・た/どん・た。
甲槌竜の目がこてと向く。
(退屈に、等間に)
どん・た/どん・た。
巨体の足取りが揺らぎ、尾がゆっくりと下りる。
……が、背後でまた誰かが叫んだ。「急げ急げ!」「早く早く!」
声の乱拍が波紋になり、甲槌竜の瞳に波が立つ。
「――っ、やめろ、等間で喋れ!」
アリアが怒鳴るより早く、巨尾が薙いだ。
橋の欄干がばきんと裂け、アリアの足場に影が落ちる。
身体が浮く――掴む物がない。
そのとき、影の矢が風を裂いた。
細い繊維で編まれた横幕(市場の日よけ布)が、石の出っ張りと欄干の残骸にぱしと縫いつけられ、滑空するアリアの腰をすっと受け止める。
布がしなる前に、背後から大盾ががんと支柱になり、衝撃を殺した。
「全く。見てられないわね」
赤い外套。
エミリア。
「ガルド、壁」
「応!」獣人戦士が大盾を橋脚に突き立て、巨尾の再打撃を受け止める。
「マリア、結界。橋の出っ張りを“平ら”に見せて」
「了解」神官の指先が描いた光が、欄干の残骸を**“地面”に錯覚させる薄膜を作る。
「シリル、背に登って“拍止め”の楔を打つ。落ちるなよ」
「褒められて伸びるタイプ!」盗賊が笑い、甲槌竜の側面にするり**と取りついた。
アリアは布から転がり出て立ち上がり、太鼓を再開する。
どん・た/どん・た。
マリアの結界が波を吸い、ガルドの盾が力を受け、シリルの楔が甲槌竜の肩の拍感応板にかちと噛む。
巨体がはたと止まり、尾が地を打つ前に、エミリアの声がすっと入る。
「――今」
アリアは笛を長一短。
谷じゅうの符陣柱がこくりと頷いて、閉の等間を刻みだす。
甲槌竜の瞼が重くなり、どすんと膝を折った。
砂利に広がった波紋が、やっと、静かになった。
*
収容は、粘り勝ちだった。
透明ヤモリには粉袋を破って白粉を舞わせ、足跡で追った。
角ウサギは転がる癖を読み、坂の下に藁の山。
子竜ピップは干し肉を見せた瞬間に外套の裾に噛みつき、アリアは真顔のまま裾を引きちぎった。
(……後で縫う)
音まね鳥エコーは、エミリアの「静まれ」を真似て自分で静まり、村の子どもたちが拍子木で等間を保つ。
「いち・に、いち・に」
子どもたちは笑い、やがて“伝令”として役に立ち始める。
(置き場を与えれば、騒ぎは力に変わる)
日が傾くころ、逃げた連中は皆、母屋の母符の周りにちょこんと伏していた。
管理官ロクソは地面に手をつき、眼鏡を曇らせて頭を下げる。
「重ね重ね、申し訳ありません……! “簡潔”を押しすぎました。
見学時に楽士不可、符陣の拍は等間のみ、説明は紙で――全部、紙で残します」
「よろしい」アリアは頷く。
「それと、緊急時の合図も“ほどほど”に。叫び声は乱拍だ。――“いち・に”で喋る」
子どもたちが胸を張る。「任せて!」
音まね鳥が「いち・に!」と被せ、甲槌竜がこくりと頷いた(ように見えた)。
エミリアは剣を拭い、無造作に納める仕草まで妙に優雅だった。
汗を拭う指先、布の扱い、立ち居振る舞い――型が美しい。
アリアは、ふと目を細める。
(……でも勘違いだろう。せいぜい没落貴族の出くらいじゃないか?)
背後でガルドが苦笑を漏らし、マリアが肩をすくめ、シリルは甲槌竜の背の上でやれやれと手を振った。
「さてと」
エミリアは軽く顎をしゃくる。
「避難導線の紙、あなたがまとめて。――私は『危険物:楽士』って札を立てておくわ」
「項目を増やすな」アリアは肩を落とした。
「冗談よ。……じゃ、私は次の依頼があるから。相棒たち、行くわよ」
「お嬢――いや、隊長」
三人は苦笑混じりに続く。
すれ違いざま、エミリアが低く言った。
「ねえアリア。あんたの拍、やっぱり好きよ。剣より前に、場が動く」
「……礼を言う」
「礼はいいの。――格好よく去るのも、A級の仕事」
彼女は片手をひらりと振り、谷の風に紛れた。
*
夕映えの蒼苔谷に、紙が数枚、掲げられた。
《見学時は等間拍のみ/“急げ急げ”は禁止/合図は「いち・に」で》
《年少者は水甕へ→/橋は空ける/楽士の演奏は許可制》
《ほどほどを守る/紙は命綱/拍は灯り》
鞄の底に、アリアは控えを書き写して仕舞う。
軽い白紙が、町の重みに変わる瞬間を、何度も見てきた。
谷を出る小道で、子竜ピップがこっそりついてきて、アリアの外套の裂け目をぺろりと舐めた。
「直す気遣いは買う。でも噛んだのは君だ」
「ぺろり」
真顔で叱って、頭をこつりと撫でる。
子竜は満足げにこくりと頷き、保護区へ駆け戻っていった。
(“ほどほど”が分かれば、どんな暴れ者も、だいたい良い隣人になる)
風が、等間で谷を撫でた。
女騎士は外套を正し、次の町へ歩き出した。
(了)




