雪明りの誇り(第3話・完)
夜の嵐は、壁を叩くときだけ声を荒げ、すぐにまた黙り込んだ。
白百合女学院の大広間では、毛布の山のあいだから小さな寝息が重なり、暖炉の火がぱちと静かに弾けた。
アリアは窓辺に立ち、指先で霜を払う。外の白は濃く、耳の奥で風の拍が揃わない。
(――来る)
剣の柄に軽く触れ、アリアは外套を羽織った。
廊下の向こう、修繕した外壁に通じる勝手口の閂が、ごくわずかに鳴った気がしたのだ。
「どこへ?」
暖炉のそばで座っていたエリナが顔を上げる。
アリアは人差し指を唇に当て、微笑だけで応えた。
「すぐ戻る。――みんなには、眠る拍を崩させないで」
エリナは小さく頷く。目はまっすぐで、王女のようだった。
*
勝手口の前は、雪でわずかに盛り上がっていた。
外から扉を押し開ける白い跡、その上を新雪が薄く覆っている。
(たったいま、ではない。けれど、まだ近い)
窓。
廊下の突き当たり、細身の窓の掛け金が、ひとつだけ内側から外れていた。
アリアは呼吸を浅くして近づき、外の暗がりに視線を滑らせる。
雪の影に、人の肩が沈む。
(非致死・ほどほどで)
窓を半分だけ開き、外に出た足音のほうへ向けて低く声を投げる。
「――そこまで」
影がびくりと跳ね、雪の上で滑った。
「ひっ!」
細い悲鳴。思ったより若い。
アリアが軒下へ回り込むと、半分凍りついたマントに身を包んだ青年が、よろけながら後退した。
「盗人、じゃない」
アリアは鞘に指をかけたまま、青年の手元を見た。
手袋は破れ、片方の指先が血で固まっている。紐の端には、見覚えのある百合の刺繍。
「……学院の者か?」
青年はしばらく迷い、うなだれた。
「元、です。――造園の見習いでした。冬前に働き口を失くして、どうにもならなくて……」
「だから、寄宿舎に忍び込む?」
「違うんです。盗むつもりじゃ……いや、最初は薪を少しだけ、と。でも中に女の子たちの声が聞こえて……」
言葉が凍る。
アリアは目を細め、間を取った。
(嘘の音は軽い。いまのは、重い)
「院長に直談判する勇気は?」
青年は首を振る。「追い出されます。以前、私のことで要らぬ騒ぎがあって……。だからせめて、屋根の雪の荷だけでも下ろして行こうと。ぼくが切った枝で、重みが偏ってしまっていたから」
アリアは眉をあげた。
「――なら、いっそ中でやれ。外で震えながらでは足場も悪い」
青年は驚いた顔をした。
「でも、ぼくは追い出されます」
「私が雇う。ギルドの応急支援枠で、いまだけ。私の指示で働く者は、依頼の“助手”だ」
青年の肩がほどけて、雪の上に座り込んだ。
震え混じりに笑い、何度も頭を下げる。
*
梯子と縄、道具は学院の倉から借りた。
アリアは青年に手袋をもう片方渡し、手早く段取りを伝える。
「上で無理はしない。――呼吸を合わせる。一拍で払って、一拍で戻る」
二人は屋根に上がった。
梢の影が雪の上で墨のように揺れ、風の切っ先が頬を刺す。
アリアが雪庇を崩し、青年が落下しない角度で押し箒を走らせる。
音を立てず、細く、確かに。
(力でなく、拍で)
やがて、もっとも重かった中央の雪がどさりと落ちた。
屋根がほっと息を吐いたように軋む。
アリアは屋根の端でバランスをとり、青年に合図する。
「よくやった。――降りよう」
梯子の下では、エリナが毛布を抱えて待っていた。
「女騎士さん! 大丈夫?」
「大丈夫だ。……彼は私の助手として手伝った」
エリナは一瞬だけ驚き、それから微笑んで毛布を青年の肩にかけた。
「ありがとう。あなたも、寒かったでしょう」
青年は言葉を失い、ただ深く頭を下げた。
*
夜更け。
嵐はようやく弱まり、窓の外の白は灰色に変わっていった。
大広間の火は小さくなり、人の寝息は穏やかに揃う。
エリナは座ったまま窓の外を見ていた。アリアが隣に腰を下ろす。
「さっきの人、助けたのね」
「助けたというより、使った。学院のために、そして彼のために」
エリナはうなずき、少しだけ唇を噛んだ。
「院長先生、怒るかしら」
「怒るだろう。だが、“結果”の前では怒りの角も丸くなる」
エリナは小さく笑った。
「女騎士さんは、不思議ね。剣より、言葉の置き方が鋭い」
「剣は一度抜けば戻す場所が要る。言葉は置き場所次第で、人を温める」
エリナは目を伏せ、両手を胸の前で重ねた。
「私も、いつか。――温める側になれるかしら」
「もう、なっている」
アリアがそう言うと、少女の背筋はさらに伸びた。
*
朝。
雲は薄く、高いところに青が見える。
降り積もった雪の重みが抜け、屋根は静かな息をしていた。
院長は梯子と縄の跡を見て、顔を険しくした。
「誰が勝手な真似を」
アリアは一歩進み出る。
「私の判断です。依頼“外”の作業でしたが、緊急性を優先した」
「もし事故があったらどうするつもりだった」
「起きなかった。――段取りが適切だったからです」
押し問答の空気を、別の声が切った。
「院長先生」
エリナが前に出て、まっすぐに見上げる。
「女騎士さんは、ここを守ってくださいました。私たちも、助けてもらいました。
それから、昨夜は私がみんなに毛布を分けました。……怒るなら、私にもください」
少女の声は澄んで、周囲の生徒たちは息を呑んだ。
やがて、いつもはエリナを遠巻きにしていた子が、おずおずと一歩出る。
「……毛布、あったかかったです」
もう一人が続く。
「椅子を運ぶの、手伝えって言ってくれて、怖くなかった」
「私、泣いてばかりだったけど、エリナが『泣いても雪は止まらない』って言ったから……」
小さな声が重なり、波になる。
院長は唇を強く結び、視線を落とした。
やがて、しわがれた声でつぶやく。
「規則は人を守るためにある。――昨夜は、人が先だったのだな」
院長はアリアに向き直り、ぎこちなく頭を下げた。
「助かった。礼を言う」
それから、エリナに目を移す。
「おまえは……身分に相応しい振る舞いをした。いや、身分を超えた、のかもしれん。……よくやった」
大広間の空気が、やわらかくほどけた。
*
正午。
雪かきの終わった校庭に、陽が差した。
アリアは荷をまとめ、依頼完了の書付に署名を入れる。
受付に提出する控えをもう一枚。
ギルドの紙は、町の安堵に変わる。
「もう行ってしまうの」
エリナが名残惜しそうに立っていた。
アリアは頷き、鞄から小さな包みを取り出す。
古物屋で買った指先用の布手袋、そして短い鉛筆が二本。
「これを。――短くなったら、言って。替えは各地の市で手に入る」
エリナの目が輝く。
「描いていいの?」
「描きたいものがあるなら、いつでも」
アリアは少しだけ声を落とす。
「君は王女より王女らしい。誇りを忘れるな」
エリナは唇を結び、深く一礼した。
「忘れません。……いつか、女騎士さんの前で、胸を張って見せたい。私の描いた“温かい場所”を」
「その日を楽しみにしている」
門の前で、昨夜の青年が待っていた。
院長に話が通り、庭の仕事を短期で任せられることになったのだという。
彼は何度も頭を下げ、エリナに「ありがとう」を言った。
エリナはふふ、と笑って言う。
「私がしたのは“最初の一言”だけ。――動いたのは、あなた」
風が弱く、雪がきらきらと光る。
少女たちが門まで見送りに出てきて、もじもじしながら口々に言った。
「……さよなら」「また来てね」「巡回の時、こっそりお菓子置いてくれてたの知ってる」
「それは内緒だ」
アリアが肩をすくめると、笑いが弾けた。
*
城下を出る小道で、アリアは一度だけ振り返った。
白百合の紋章が光の中に立ち、校庭には子どもたちの足跡が散らばっている。
その真ん中で、エリナがひとり空を仰いだ。
雪はやみ、空は高い。
(――“守るべきもの”は、剣だけでは守れない)
紙、段取り、そして誇り。
それらが重なったとき、町は自分で自分を支え始める。
アリアは外套の襟を正し、歩を速めた。
鞄の底には、ギルドの控えと、予備の鉛筆と、未使用の白紙が数枚。
白紙は軽い。だが、置き場を得れば、町を温める。
独りの旅路は続く。
“気高き少女”の噂は、やがて雪解けとともに町を渡り、
後年、白百合の寄宿舎に新しい暖炉が据えられるころ――
「誇りを忘れない子の話」として、長い冬の夜の物語に添えられるのだ。
(了)




