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女騎士の独り旅!  作者: 和泉發仙


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“雪の鐘楼” 前編 ― 雪の町と少年画家


雪は、町の音を柔らかく隠す。

車輪の軋みも、露店の値切り声も、鐘楼の古い息も、いったん白い綿に包まれて、それから慎重に外へ出てくる。

冬の交易町〈ベルダム〉。大聖堂の鐘が朝を告げ、広場では冬祭りに向けた飾りが組まれていた。


アリアは外套の襟を立て、靴底についた雪を一度払ってから、広場のはしにある屋台で湯気のたつ甘いミルク粥を受け取った。

匙をひとくち口に運ぶと、薄い木の香りと温度が舌の上でほぐれる。

そのとき、背後から小さな車輪の音がした。ぎゅ、ぎゅ、と慎ましやかに、しかしまっすぐに。


振り返ると、老犬が二輪の荷車を引いていた。

毛は雪で濡れ、背中は広く、目は落ちついている。

荷車の柄を握って歩調を合わせる少年は、十にも満たないだろう。頬は赤く、指はしもやけで腫れている。

少年は角のパン屋の前で立ち止まり、帽子を取って会釈した。


「おじさん、昨日の粉、ありがとう。今日も手伝いに来たよ」

パン屋の主人は手を止めず、「あぁ、ヨハンか。そこ置いとけ」とだけ言う。

老犬が鼻で短く息を鳴らした。ふっ。

(よく慣らされた呼吸。長く荷車を引いてきた犬の拍だ)

アリアは匙を置き、少年と犬の歩幅を目でなぞった。


「ブルーノ、ここで待ってて」

少年――ヨハンは犬の名をやさしく呼び、袋を抱えて店の奥へ入る。

ブルーノは雪の中で自分の足跡を一度見て、それから落ちた粉砂糖を舐めようとしてやめた。

(舐めないの、えらい)

アリアは粥の器を返し、パン屋の軒先で荷車の車輪を覗き込んだ。古い、がたついている。

「その車輪、くさびが甘い。次に段差を越えたら抜けるかもしれない」

ヨハンが慌てて外へ出てきた。「わっ、あの、すみません、迷惑――」

「迷惑ではない。通りがかりの観察だ」

アリアは荷車の端を指で叩き、木目の音を聞いた。

「少し待って」

腰の袋から細い木片と短い金槌を取り出し、くさびを打ち直す。

こん、こん。

ブルーノがその音に合わせ、ゆっくり尻尾を二度振った。


「……すごい。ありがとう、お姉さん」

「女騎士だ」

「ごめんなさい。女騎士さん」

ヨハンは指先をこすり合わせて、息を吹きかけた。

アリアは少年の手の甲に目を落とす。紙の擦り傷が多い。

(働き手の傷ではなく、描き手の傷)


「名前は?」

「ぼくはヨハン。こっちはブルーノ。――ねぇ女騎士さん、旅してるの?」

「そう。今日はこの町で一泊」

「じゃあ、夜に大聖堂の鐘が鳴るよ。冬祭りの練習で。……すごくきれいなんだ」

ヨハンは一瞬だけ胸を張って、それからうつむいた。

「でも、ぼくは、多分見られない。荷車が終わったら、薪割りもあって……」


パン屋の主人が奥から出てきて、袋を二つ載せた。

「おい、ヨハン。遅れるなよ。祭り前は忙しいんだ」

「はい」

ヨハンは笑って返事をしたが、その笑顔は雪の上を跳ねない。



午前から昼へ、雪はやまなかった。

広場の屋台では、祭りの飾り紐に鈴がつけられ、子どもたちが白い紙に星を切り抜いている。

アリアは露店で薄いパンを買い、日陰で雪だるまを作る子どもの手際を眺めた。

そこへ、ヨハンとブルーノの荷車が再び通りかかる。今度は空だ。


「おつかれさま」

アリアが声をかけると、ヨハンは嬉しそうに立ち止まった。

「女騎士さん、ありがとう。さっき車輪が静かで、ブルーノも楽そうだった」

ブルーノは鼻先でヨハンの肘をちょんとついた。

「昼は?」

「パン屋のおばさんが端っこをくれるよ。ぼくとブルーノ、一緒に」

(端っこ、か)

アリアは買ったばかりの薄いパンを半分に裂き、布で包んだ温かい干し肉を挟んで渡した。

「受け皿に。雪は腹の中で熱になるのが遅い」

ヨハンは目を丸くした。「いいの?」

「うん」

ブルーノは礼儀正しく一歩下がり、ヨハンに合図されるまで待った。

「ブルーノ、“ありがと”」

犬はゆっくり噛み、喉が満足の音をした。


「ヨハン、その手の傷は?」

「これ? ……えへへ、描くと擦れるんだ。鉛筆、短くなっちゃって」

ヨハンは上着の内ポケットから、小さな紙束を取り出した。

古い帳面を切り分けた紙片。

炭で描かれた広場の風景、パン屋の煙突、大聖堂の尖塔。線は頼りないが、目が良い。

アリアは一枚、雪の階段に腰を下ろしながら見た。

(見ている。風の通り道と、人の重みの位置を)


「これが、ぼくの一番のやつ」

ヨハンはためらいがちに、一枚を差し出した。

大聖堂の内部。

柱の影と光の筋。

「中に入ったの?」

ヨハンは首を振った。「入れないよ。日曜日は遠くから。……パン屋の壁に貼ってある古い版画を真似したの」

(真似には願いが含まれる)


「祭りの日、誰かに見せたい?」

「見せたい! ……けど、笑われるかも。ぼく、変って言われることが多くて」

アリアは紙束を丁寧に返し、腰の鞄からまっさらの紙を一枚取り出した。

「これを。――紙は、言葉の受け皿にも、願いの受け皿にもなる」

ヨハンは両手でそれを受け取り、胸に抱いた。

「ありがとう。……ぼく、絶対に上手くなるよ」


「ブルーノ、今夜は冷える。足の毛を乾かしてやって」

「わかった。薪割りが終わったら、藁の上で」

ヨハンは小さく笑い、荷車の棒を握り直した。

「行こう。――ねぇ、女騎士さん」

「うん?」

「女騎士さんの“願いの紙”は、ある?」

アリアは少しだけ考えて、「旅を終えずに、ほどほどに笑える夜が続くこと」と言った。

ヨハンはわからないようで、でもいい言葉だと思ったように頷いた。



午後、雪は一度だけ強くなった。

風向きが変わり、鐘楼の上の旗がばさ、と鳴る。

広場の片隅で、古物屋が身を縮めつつ商売を続けている。

アリアはそこですり減った鉛筆を二本と、指先用の布手袋を買った。


「良い買い物?」

古物屋の老婆が目を細める。

「良い買い物」

アリアはそう言って、広場を見渡した。

人々は忙しく、親切はつい忘れられる。

それでも、忘れられた親切はどこかでたまって、ある日突然、雪みたいに降る。


日が傾いて、広場に灯りが点き始めた。

屋台の影で、ヨハンが薪を抱えて走っていくのが見える。

ブルーノはその後ろを、静かな足取りでついてゆく。

二人の背中を見送りながら、アリアは宿をとった。

暖炉の火に手をかざし、外套の裾の雪を落とし、背中を伸ばす。


――その夜、鐘が鳴った。

遠く、高く、雪を震わせ、空を洗う音。

アリアは窓辺に立って耳を澄ます。

鐘の音は大聖堂からまっすぐ街路を走り、それからどこかの小さな家の屋根に潜って、また外へ顔を出す。

(彼らに、届いているだろうか)



翌朝。

雪は少しだけ弱まり、空は薄い水色を見せていた。

アリアが広場へ出ると、パン屋の前に人だかりができている。

パン屋の主人が厳しい顔で誰かを叱っていた。

「――約束の時間に来ないなら、もう頼めんぞ! 祭り前だというのに!」

アリアは近づき、壁の陰から覗く。

そこにヨハンとブルーノの姿はない。


パン屋の奥から、主人の妻が小声で言う。

「今朝は姿が見えないよ。あの子の叔父さんのところにも行ってない。夜の間にどこかに――」

(いやな拍)

アリアは足早に別の通りへ向かった。昨夜ヨハンが薪を運んでいた裏路地。

雪の上に、小さな靴跡と、犬の足跡が並んでいる。

二つの足跡は、途中でいっそう寄り添って、やがて、川沿いの道へと続く。

(外で夜を明かしたのか? いや、足跡は途中で戻っている)


広場の反対側、古い倉庫の裏で、アリアは二人を見つけた。

ヨハンはブルーノの首に腕を回し、藁の上でうずくまって眠っていた。

犬は少年の背中に体を丸め、雪がかからないよう覆っている。

「……起きて」

アリアは肩に手を置き、優しく揺らした。

ヨハンは目を開け、最初にブルーノを見、次にアリアを見、それから安堵の息を吐いた。

「ごめんなさい……叔父さん、怒って、部屋に入れてくれなくて……」

ブルーノが小さくくうと鳴いた。

アリアは少年の頬に触れる。つめたい。

「宿に来て。火とスープがある」



宿の暖炉の前で、ヨハンはスープを飲み、ブルーノは寝床で足を曲げ伸ばし、少しずつ色が戻ってきた。

アリアは卓に紙を広げ、昨日のまっさらな一枚を指で押さえた。

「描く?」

ヨハンは息を吞んだ。「いま?」

「いま」

アリアは古物屋で買った鉛筆を差し出した。

「短くなったら、言って。替えがある」

ヨハンは布手袋を受け取り、指先を入れて、紙に向かった。


最初の線はぎこちなかった。

だが、二本、三本――鐘楼の影と、広場の屋台と、ブルーノの背中のカーブが紙に定着してゆく。

外の雪はまだ降っている。

宿の誰かがふと足を止め、少年の手元を見た。

「……上手だね」

ヨハンは照れくさそうに笑って、鉛筆を動かし続けた。


「祭りの日、誰かに見せよう」

アリアが言うと、ヨハンは顔を上げた。

「誰か?」

「たとえば。――鐘楼守」

「鐘楼守?」

「鐘を鳴らす人は、音だけでなく、町の影も見ている。紙の影を見せるのに向いている」

(そして、鐘楼守はたいてい頑固で優しい)

ヨハンは強く頷いた。「うん!」



夕刻。雪はやんだ。

祭りの前夜。灯りは増え、道には人が出、屋台では温かい飲み物が配られ、鈴の音が重なる。

アリアはヨハンとブルーノを連れて、大聖堂の裏手にある鐘楼守の住まいを訪ねた。

門の前で呼び鈴を引くと、年配の男が出てきた。

「どなた」

「旅の者です。――紙を、見ていただきたくて」

鐘楼守は眉をひそめ、「祭り前は忙しい」と言いかけ、ヨハンの手の中の紙に目を落とした。

少年は緊張で紙を落としそうになり、ブルーノが鼻で支えた。

「……入れ」

鐘楼守は短く言い、灯りの下へ通した。


ヨハンは震える手で紙を差し出し、言葉を探して――見つからず、ただ頭を下げた。

鐘楼守は無言で一枚、二枚、三枚と目を通し、最後に、大聖堂の内部を描いた紙の前で止まった。

「中に、入ったことはあるか」

ヨハンは首を振る。「ない」

「――よく見ている」

鐘楼守の声は低く、硬いが、どこか柔らかかった。

「祭りが終わったら、一度だけ連れて行ってやろう。……責任者に許可を得られたらな」

「ほんとに!」

ヨハンの顔が一気に明るくなる。ブルーノが尻尾を床にとん、とんと打った。

アリアは胸の中で小さく息を吐き、礼を述べた。

(間に合うか――天候と人の都合が、いつも橋を左右に揺らす)



夜が深くなる。

風が強くなる。

雪雲は戻ってきて、町の灯りの上に重く垂れ込めた。

宿へ戻る途中、アリアは広場で足を止めた。

ヨハンとブルーノが、祭りの飾りを見上げている。

少年の手には、古物屋の鉛筆と、使い切った短いやつ。

「女騎士さん」

「うん」

「ぼく、明日の祭りで、もっと描く。……見せたい。笑われてもいい。――見せたい」

アリアは頷いた。

「見せよう。非致死・ほどほどに、勇気を使って」

ヨハンは意味がわかったような、わからないような顔で笑った。

ブルーノはその横で、雪の匂いを嗅ぎ、空の冷たさを測っている。


宿の前で、アリアはふと空を仰いだ。

(荒れる)

雪は、この町の音をまた包み込むつもりだ。

鐘が鳴るころ、道は白に沈むかもしれない。

その白の中で、少年と犬が迷わないよう、矢印があればいい。

紙に書く矢印でなく、音の矢印。

アリアは宿の主に頼み、もし子どもが道に迷ったら鐘楼守へ連絡するよう紙を置いた。


「明日、吹雪なら。――ここを避難の受け皿に」

「任せな」宿の主は頷き、扉に小さな札を下げた。

《雪避けできます》


アリアは炉の火で手を温め、外套の裾を整え、剣を縛る紐を緩めた。

剣ではなく、紙で守る夜がある。

(彼らが鐘の下にたどり着けますように)


窓の外、雪は再び強くなった。

ひとつ、ふたつ、灯が消える。

そして、深い夜の底で、風が町の角を曲がった。


(後編「雪の鐘楼 ― 鐘の下で眠る者たち」へ続く)

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