水車小屋のささやき 後編 ― 紙に残る言葉、指に触れる朝
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1 夜明けの小屋
夜のざわめきがようやく去った。
水車小屋には粉の匂いだけが残り、梁の影には淡い気配がまだ漂っていた。
アリアはそのまま小屋の隅に腰を下ろし、外套を膝にかけて目を閉じる。
(……ここに、まだ“いる”)
水音と木の軋みの拍は、どこか人の呼吸に似ていた。
一夜を越えれば、残る言葉がひとつはあるだろう。
そう確信しながら、女騎士は静かに夜を明かした。
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2 紙の上の最後の言葉
朝焼けが窓を染めたとき、リサが港長に伴われて小屋に戻ってきた。
泣き腫らした目には、しかし小さな決意が宿っている。
「……アリアさん。もう一度、呼んでいいですか?」
「ええ。今日は粉も鈴もない。声は静かに届くはずです」
アリアは昨日の白紙を机に広げる。
粉で汚れてかすれた“リサ”の文字の横に、また新しい筆跡が――
ゆっくりと、にじむように浮かび上がった。
あい
して
る
リサは両手を口に当て、こぼれる声を止められなかった。
「……そんな、最後に、それを……」
白紙はなおもふくらみ、もう一行。
ありがとう
「――っ」
涙は止められないが、笑みが同時に浮かんでいた。
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3 工具箱の記憶
アリアは隅から小さな木箱を持ってきた。
金具の錆びついた工具箱。昨日、自ら開いたもの。
「これを、あなたに」
差し出すと、リサは震える指で受け取った。
箱の中の鉛筆が、白紙の横に転がる。
ゆっくりと、最後の文字が刻まれた。
さようなら
風がふっと吹き抜けた。
水車がこくりとひとつ頷き、静かに回転を止める。
気配は、そこから先には残らなかった。
リサは箱を抱きしめて泣き、やがて笑った。
「……もう、大丈夫です。わたし、歩きます」
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4 祈祷師の後始末
外に出ると、広場では粉まみれの〈大霊導師〉ルヴァンが、港の子どもたちに雑巾を押しつけられていた。
「なぜ私が掃除を!」「当たり前です、撒いたのはあんたでしょ!」
子どもたちの声に押され、彼は涙目で鈴をちりちり鳴らしながら粉をかき集めている。
リサは小さく笑い、アリアに頭を下げた。
「あなたに会えてよかった。本当に……ありがとう」
「私は媒介にすぎません。声を聞いたのは、あなたです」
アリアはそう言い、外套を正した。
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5 旅立ち
河港を離れる道の上で、アリアは一度だけ振り返った。
水車小屋は朝日を浴び、静かに川を受けて回っている。
粉も鈴もない。
ただ、白紙が一枚、窓辺に留められていた。
そこには“リサ”の名と、“ありがとう”の文字。
アリアは鞄の奥に、自分も一枚、白紙を仕舞った。
(……ほどほどに、残しておくのもいい)
風が頬を撫でる。
女騎士は歩幅を変えず、独りの旅を続けた。
(了)




