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女騎士の独り旅!  作者: 和泉發仙


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 “水車小屋のささやき” 前編 ― 粉と煤と、届かない声



河港〈グレイフォード〉は、夕暮れになると舟の舳先が一斉に家へ帰る。

水面は桃色に、煙突は灰色に、帆は風の背中に。

そして噂は、揚げたての魚みたいに、熱のあるうちに人の口から口へ渡る。


「……水車小屋に、出るんだとさ」

露店の親父が、紙包みを差し出しながら言った。

「夜な夜な男が歌うような声で、“リサ”ってな――」

「塩は控えめで」アリアは銀貨と一緒に一言添える。

「“リサ”、ですか」

「そう。港の娘だよ。婚約者の若い職人を事故で亡くしてからだ。あの水車小屋は、二人がよく隠れ家にしてたって話でな。ま、儲けるのは祈祷師だけだが」


祈祷師。

その単語の臭い(香水と香の中間、粉と鈴の中間)が、風の向きを変えるより早く広場の真ん中へ漂ってきた。


「来たぞ、来たぞー! 浄霊・成仏・退散、何でもござれの〈大霊導師〉ルヴァン様が御前にー!」

大げさな声とともに、派手な外套の男が舞い込んできた。

胸にはこれでもかの護符、腰にはなぜか鈴、背には丸太――ではなく、異様に長い香炉棒。

(長い。嫌な予感しかしない)

アリアは魚を一口、塩の具合はちょうどよい。噂の具合は過剰だ。


「女騎士殿!」

呼び止めたのは、露店の向かいで布をたたんでいた年配の女性。

「もしや旅で腕に覚えのある方……その、水車小屋のことで港長のところへ」

アリアは短くうなずいた。噂の確認は、だいたい“港長”や“村長”を経由すると早い。



港長室は、網と航路図の匂いがした。

壁の地図の隅に、小さく赤い印――川の曲がり角に水車小屋。

「騒ぎが大きくなっての」港長は頭をかき、茶をすすめる。「祈祷師が来てから、余計にね。あの男、夜の見世物をやると言って聞かんのだ」

「リサという娘さんは?」

「まじめな子だ。今は叔母の家に身を寄せておる。夜が怖いと言ってな。……できれば、この熱を冷ましてやってほしい。幽霊も祈祷師も」


幽霊も祈祷師も。

同列に並べられることに、幽霊側は苦笑いしているかもしれない。

アリアは茶を受け取り、「見に行きます」とだけ答えた。



〈大霊導師〉ルヴァンの“見世物”は、想像の斜め上を行く準備周到ぶりだった。

――準備の種類が、間違った方向に周到、というだけで。


水車小屋の前に、鈴のついた幕。

小屋の梁には、粉袋。

扉には、光る塗料で描いた護符。

小屋の裏手には、やたら長い香炉棒(先ほど見たやつ)を振り回す手下。

(粉は風下に吊るな、と誰か教えてやってほしい)


「さぁ諸君、恐れるな! ルヴァン様の術で、霊はたちまち成仏――」

ぶわっ。

風が一度だけ方向を変え、粉袋が裂けた。

白い粉雪が、見物客とルヴァン自身をまんべんなく覆う。

「め、目がぁ!」「鼻が!」「お、落ち着いて! これは結界の粉で!」

(結界の粉がくしゃみを誘うのは普遍の真理)

アリアは外套の襟を上げ、粉の波から半歩退く。


「――お戻りなさいませ」

そこで、誰かの囁きが耳の縁をくすぐった。

誰も言っていないのに、確かに聞こえる。

(今のは、人の声ではない。気配の拍)


「出たー!」

素人歓声が波になる。

ルヴァンが慌てて鐘を鳴らす。

からん、からん。

「静まれ、静まれ! まずは霊との交信を――」

彼が香炉棒を振り上げた瞬間、後ろの手下が足を滑らせ、棒はきれいな弧を描いて――アリアの外套の襟にひっかかった。


「……」


外套は、ばさっと剥がれ、竿旗のように宙を舞い、鈴幕に見事に絡まって掲げられた。

「おお、祈祷師さま、外套が!」「清められとる!」

「清められていません」

アリアは真顔で答え、無言で香炉棒から外套を取り返す。

ルヴァンは粉まみれの顔で愛想笑い。「霊が嫉妬しておるのだ、ええ、女騎士殿の気高さに――」

「棒を下ろしてください。非致死・ほどほどでお願いしたい」


笑いが起き、張り詰めた空気がわずかに抜ける。

(緊張を笑いでほどくのは、悪くない。……だが本丸は、別にある)


「リサさんは?」

アリアは人垣の後ろに控える若い女性に目を留めた。

頬がこけ、目の下に薄い影。

「わ、私です……」

「ここは寒い。中へ。人払いを」

港長が頷き、数人が小屋の扉を押し開けた。



水車小屋の中は、乾いた木と水の匂い。

歯車が、夜の川の力を受けてこくり、こくりと首を振る。

板張りの床は過去の歩幅で擦り減り、窓辺には、薄い刻み傷――名前の頭文字みたいな、乱暴な、しかし丁寧な癖。


「……ここで、声がするんです」

リサは両手を胸の前で重ね、怯えたように言った。

「わたしの名前を呼ぶの。あの人みたいに。……でも、あの人は、もう――」


アリアは首だけで否定も肯定もしない。

小屋の奥、梁の影に、煙になりきれない影がある。

音ではない。目でもない。

(“いる”)

それだけが、確かだった。


「祈祷師の術に頼る前に、静かに聞いてもいいですか」

「……はい」


アリアは剣帯をゆるめ、外套を畳み、床に手をつく。

耳を閉じ、鼻を開き、皮膚で風の重さを測る。

水車の拍。

板の乾き。

リサの呼吸。

――そして、もうひとつの拍。

「……エリオル?」

リサが、ほとんど息だけで呼ぶ。

アリアの後ろで港長が目を丸くする。

(名前。鍵だ)


「返事が、いるなら、返せ」

アリアは小屋の中に向けて、届け手の言葉を投げる。

返事はすぐには来ない。

来ないが、音が変わる。

水車が一瞬、軽く回った。


「っ……!」

リサの肩が震える。

アリアは静かに手を上げ、扉の隙間から入ってこようとする〈大霊導師〉を遮った。

「まだだ。粉はいらない」


ルヴァンはむっとして鼻を鳴らす。「むむ、素人考えで!」

アリアは扉の枠に紙を一枚貼る。

白紙。何も書いていない。

(“ここに言葉を置ける”場所を、見える形に)

「言いたいことがあるなら、ここに触って」

誰にともなくつぶやく。


沈黙。

水音。

風。

白紙が、ほんの少しふくらんだ。

触れられたのだ。

指はない。だが、触れた。


紙の中央に、湿りが一滴。

ゆっくりと、縦にのび、最後に点を打つ。

ひらがなの、り。

次いで、さ。

――リサ。


リサの口から、小さな嗚咽が漏れた。

ルヴァンの粉袋が、うっかりもう一つ、背後ではじけた。

(空気、読んでほしい)

粉が舞い、白紙の文字はぼやける前に、アリアの指先で縁を取られた。

「読める」

アリアは短く言う。

「あなたを、呼んでいる」


リサは机の角につかまり、近寄る。

「エリオル……? わたし、ここにいるよ」

こくり。

水車がひとつ頷く。

白紙の下辺に、もう一文字。

ご。

ひどくゆっくり、たどたどしく。

(ご……? 続きは?)

め。

ん。

ね。

――ごめんね。


アリアは目を伏せる。

リサは、肩で泣いた。

ルヴァンは粉まみれで鈴を握りしめ、鈴は控えめにちりと鳴った。


外で、誰かの足音。

見物の群れ。

噂の拍が、また大きくなってくる。

アリアは白紙を窓辺に移し、外に向けて手を広げた。

「ここから先は、見世物ではない」

港長が頷き、扉の外の人の波を押し返す。

ルヴァンが抗議しかけた口に、港長の「粉は後で掃除を頼む」の一言が刺さる。

(正しい役割分担)


「エリオル」

リサは涙の向こうで笑った。

「わたし、あなたの工具箱、まだ持ってる。……返しに来て。叱って。あのときみたいに」


工具箱。

アリアは耳の後ろで音を拾う。

小屋の隅、古い布の下に木箱。

金具が、さびている。

蓋が、自分で――ひとつ、息を吸って――動いた。

きい。

中には、刻印入りの小さなレンチと、つぶれた鉛筆。

鉛筆は、白紙の横で転がり――止まった。

その位置は、誰かと誰かの手の届く距離。


「……明日の朝、続きをしましょう」

アリアは立ち上がる。

「夜は、ほどほどで終わるものです」


リサは頷いた。

外の風が粉を運び去り、鈴の音は遠くなる。

水車が、こくりともう一度頷いた。


扉を閉める直前、アリアの耳に、あまりにも小さな、しかしまっすぐな声が触れた。

――ありがとう。

彼女は振り返らず、ただ外套の襟を直した。


夜の河港は、噂より静かだった。

(後編「水車小屋のささやき ― 紙に残る言葉、指に触れる朝」へ続く)

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