“水車小屋のささやき” 前編 ― 粉と煤と、届かない声
河港〈グレイフォード〉は、夕暮れになると舟の舳先が一斉に家へ帰る。
水面は桃色に、煙突は灰色に、帆は風の背中に。
そして噂は、揚げたての魚みたいに、熱のあるうちに人の口から口へ渡る。
「……水車小屋に、出るんだとさ」
露店の親父が、紙包みを差し出しながら言った。
「夜な夜な男が歌うような声で、“リサ”ってな――」
「塩は控えめで」アリアは銀貨と一緒に一言添える。
「“リサ”、ですか」
「そう。港の娘だよ。婚約者の若い職人を事故で亡くしてからだ。あの水車小屋は、二人がよく隠れ家にしてたって話でな。ま、儲けるのは祈祷師だけだが」
祈祷師。
その単語の臭い(香水と香の中間、粉と鈴の中間)が、風の向きを変えるより早く広場の真ん中へ漂ってきた。
「来たぞ、来たぞー! 浄霊・成仏・退散、何でもござれの〈大霊導師〉ルヴァン様が御前にー!」
大げさな声とともに、派手な外套の男が舞い込んできた。
胸にはこれでもかの護符、腰にはなぜか鈴、背には丸太――ではなく、異様に長い香炉棒。
(長い。嫌な予感しかしない)
アリアは魚を一口、塩の具合はちょうどよい。噂の具合は過剰だ。
「女騎士殿!」
呼び止めたのは、露店の向かいで布をたたんでいた年配の女性。
「もしや旅で腕に覚えのある方……その、水車小屋のことで港長のところへ」
アリアは短くうなずいた。噂の確認は、だいたい“港長”や“村長”を経由すると早い。
*
港長室は、網と航路図の匂いがした。
壁の地図の隅に、小さく赤い印――川の曲がり角に水車小屋。
「騒ぎが大きくなっての」港長は頭をかき、茶をすすめる。「祈祷師が来てから、余計にね。あの男、夜の見世物をやると言って聞かんのだ」
「リサという娘さんは?」
「まじめな子だ。今は叔母の家に身を寄せておる。夜が怖いと言ってな。……できれば、この熱を冷ましてやってほしい。幽霊も祈祷師も」
幽霊も祈祷師も。
同列に並べられることに、幽霊側は苦笑いしているかもしれない。
アリアは茶を受け取り、「見に行きます」とだけ答えた。
*
〈大霊導師〉ルヴァンの“見世物”は、想像の斜め上を行く準備周到ぶりだった。
――準備の種類が、間違った方向に周到、というだけで。
水車小屋の前に、鈴のついた幕。
小屋の梁には、粉袋。
扉には、光る塗料で描いた護符。
小屋の裏手には、やたら長い香炉棒(先ほど見たやつ)を振り回す手下。
(粉は風下に吊るな、と誰か教えてやってほしい)
「さぁ諸君、恐れるな! ルヴァン様の術で、霊はたちまち成仏――」
ぶわっ。
風が一度だけ方向を変え、粉袋が裂けた。
白い粉雪が、見物客とルヴァン自身をまんべんなく覆う。
「め、目がぁ!」「鼻が!」「お、落ち着いて! これは結界の粉で!」
(結界の粉がくしゃみを誘うのは普遍の真理)
アリアは外套の襟を上げ、粉の波から半歩退く。
「――お戻りなさいませ」
そこで、誰かの囁きが耳の縁をくすぐった。
誰も言っていないのに、確かに聞こえる。
(今のは、人の声ではない。気配の拍)
「出たー!」
素人歓声が波になる。
ルヴァンが慌てて鐘を鳴らす。
からん、からん。
「静まれ、静まれ! まずは霊との交信を――」
彼が香炉棒を振り上げた瞬間、後ろの手下が足を滑らせ、棒はきれいな弧を描いて――アリアの外套の襟にひっかかった。
「……」
外套は、ばさっと剥がれ、竿旗のように宙を舞い、鈴幕に見事に絡まって掲げられた。
「おお、祈祷師さま、外套が!」「清められとる!」
「清められていません」
アリアは真顔で答え、無言で香炉棒から外套を取り返す。
ルヴァンは粉まみれの顔で愛想笑い。「霊が嫉妬しておるのだ、ええ、女騎士殿の気高さに――」
「棒を下ろしてください。非致死・ほどほどでお願いしたい」
笑いが起き、張り詰めた空気がわずかに抜ける。
(緊張を笑いでほどくのは、悪くない。……だが本丸は、別にある)
「リサさんは?」
アリアは人垣の後ろに控える若い女性に目を留めた。
頬がこけ、目の下に薄い影。
「わ、私です……」
「ここは寒い。中へ。人払いを」
港長が頷き、数人が小屋の扉を押し開けた。
*
水車小屋の中は、乾いた木と水の匂い。
歯車が、夜の川の力を受けてこくり、こくりと首を振る。
板張りの床は過去の歩幅で擦り減り、窓辺には、薄い刻み傷――名前の頭文字みたいな、乱暴な、しかし丁寧な癖。
「……ここで、声がするんです」
リサは両手を胸の前で重ね、怯えたように言った。
「わたしの名前を呼ぶの。あの人みたいに。……でも、あの人は、もう――」
アリアは首だけで否定も肯定もしない。
小屋の奥、梁の影に、煙になりきれない影がある。
音ではない。目でもない。
(“いる”)
それだけが、確かだった。
「祈祷師の術に頼る前に、静かに聞いてもいいですか」
「……はい」
アリアは剣帯をゆるめ、外套を畳み、床に手をつく。
耳を閉じ、鼻を開き、皮膚で風の重さを測る。
水車の拍。
板の乾き。
リサの呼吸。
――そして、もうひとつの拍。
「……エリオル?」
リサが、ほとんど息だけで呼ぶ。
アリアの後ろで港長が目を丸くする。
(名前。鍵だ)
「返事が、いるなら、返せ」
アリアは小屋の中に向けて、届け手の言葉を投げる。
返事はすぐには来ない。
来ないが、音が変わる。
水車が一瞬、軽く回った。
「っ……!」
リサの肩が震える。
アリアは静かに手を上げ、扉の隙間から入ってこようとする〈大霊導師〉を遮った。
「まだだ。粉はいらない」
ルヴァンはむっとして鼻を鳴らす。「むむ、素人考えで!」
アリアは扉の枠に紙を一枚貼る。
白紙。何も書いていない。
(“ここに言葉を置ける”場所を、見える形に)
「言いたいことがあるなら、ここに触って」
誰にともなくつぶやく。
沈黙。
水音。
風。
白紙が、ほんの少しふくらんだ。
触れられたのだ。
指はない。だが、触れた。
紙の中央に、湿りが一滴。
ゆっくりと、縦にのび、最後に点を打つ。
ひらがなの、り。
次いで、さ。
――リサ。
リサの口から、小さな嗚咽が漏れた。
ルヴァンの粉袋が、うっかりもう一つ、背後ではじけた。
(空気、読んでほしい)
粉が舞い、白紙の文字はぼやける前に、アリアの指先で縁を取られた。
「読める」
アリアは短く言う。
「あなたを、呼んでいる」
リサは机の角につかまり、近寄る。
「エリオル……? わたし、ここにいるよ」
こくり。
水車がひとつ頷く。
白紙の下辺に、もう一文字。
ご。
ひどくゆっくり、たどたどしく。
(ご……? 続きは?)
め。
ん。
ね。
――ごめんね。
アリアは目を伏せる。
リサは、肩で泣いた。
ルヴァンは粉まみれで鈴を握りしめ、鈴は控えめにちりと鳴った。
外で、誰かの足音。
見物の群れ。
噂の拍が、また大きくなってくる。
アリアは白紙を窓辺に移し、外に向けて手を広げた。
「ここから先は、見世物ではない」
港長が頷き、扉の外の人の波を押し返す。
ルヴァンが抗議しかけた口に、港長の「粉は後で掃除を頼む」の一言が刺さる。
(正しい役割分担)
「エリオル」
リサは涙の向こうで笑った。
「わたし、あなたの工具箱、まだ持ってる。……返しに来て。叱って。あのときみたいに」
工具箱。
アリアは耳の後ろで音を拾う。
小屋の隅、古い布の下に木箱。
金具が、さびている。
蓋が、自分で――ひとつ、息を吸って――動いた。
きい。
中には、刻印入りの小さなレンチと、つぶれた鉛筆。
鉛筆は、白紙の横で転がり――止まった。
その位置は、誰かと誰かの手の届く距離。
「……明日の朝、続きをしましょう」
アリアは立ち上がる。
「夜は、ほどほどで終わるものです」
リサは頷いた。
外の風が粉を運び去り、鈴の音は遠くなる。
水車が、こくりともう一度頷いた。
扉を閉める直前、アリアの耳に、あまりにも小さな、しかしまっすぐな声が触れた。
――ありがとう。
彼女は振り返らず、ただ外套の襟を直した。
夜の河港は、噂より静かだった。
(後編「水車小屋のささやき ― 紙に残る言葉、指に触れる朝」へ続く)




