魔王会議編その5 ルナデウス領行き前夜
アリアンロッドの港が白く煙ったころ、〈シー・ランタン〉は静かに塔の港湾区に入った。
朝の鐘はまだ一度きり。
冷たい空気を割るように、船からタラップが下りる。
甲板には、新しくこの地を踏む者たち――ノールの港で名を記した五十名が並んでいた。
毛布にくるまれた乳児。
古びた外套のままの老人。
手をつないで離さない兄妹。
そして、視線だけが鋭い、やせた若い母親たち。
桟橋ではすでに、アリアンロッド側の受け入れ班が横一列に並んでいた。
先頭にルナ。
その隣に林。
少し引いた位置に、白い装甲をまとったオートマタのネオン。
さらに後ろに、ドッグ隊の兵と、学園の上級生と思しき少年少女たちの姿がある。
「ようこそ、アリアンロッドへ」
ルナが一歩前に出て、はっきりと言った。
「まずは休むこと。今日は大きな決めごとはしません。食べて、洗って、眠って、この街がどんな場所かを見る日です」
緊張した空気が、ほんの少しだけゆるむ。
林が続ける。
「今から宿舎と食堂と浴場、それから医療室の場所を案内する。わからないことがあったら、後ろにいる“青い腕章”の子たちに聞いてくれ。学園のボランティアだ。怖がらなくていい」
見ると、十数名の少年少女が、揃いの腕章を付けてぱっと頭を下げた。
年の近い子を見ると、小さな子たちの目が少しだけ丸くなる。
“ここには同じくらいの子どもがたくさんいる”――それが分かっただけで、場の温度が変わる。
ネオンが前に出た。瞳が淡く光る。
「順に識別票をお配りします。首から下げてください。本日より一週間、食堂・浴場・診療所・学園の準備教室が利用可能になります」
胸元にかけられたのは、薄い木札だった。
子どもたちはそれを掴んで、何度も確かめる。
ノール領では“許可証”というものがほとんど配られなかったからだ。多くは“持っている者に従うだけ”だった。
木札には数字と、アリアンロッドの小さな紋章が刻まれている。
「これは……」
あの日、ルナが外套をかけてやった女――リーアが、おそるおそる尋ねた。
「あなたが今日からここで生活できる、っていう証拠。誰かが取り上げたら、すぐに言って」
ルナがそう言うと、リーアの腕に力がこもる。
抱かれたミトが眠そうに瞬きをした。
「では、移動します」
ドッグ隊の兵が号令をかけると、列は二列になって岸壁を進み始めた。
先導するのは学園のボランティアのひとり――小柄な少女が、明るい声で振り返って言う。
「走らなくていいですからねー! このまままっすぐで宿舎です!」
港から宿舎までは、石畳の広い通路が整備されている。
左右には倉庫群。ところどころに魔導灯。
ノールの港で見た“欠けた屋根”も“折れた柱”もない。大人たちが、そっと嘆息するのが聞こえた。
宿舎は塔の外縁に並ぶ木組みの長屋だった。
入口には大きく「来訪者宿」と掲げられ、朝から湯気が煙突から立っている。
「ここが最初の寝るところです。まだ正式な家じゃないけど、鍵も布団もあります」
林が扉を押し開けると、室内にはすでに寝具が人数分敷かれ、棚には湯飲みと替えの衣が積まれていた。
「服……」
「とりあえずの貸与。洗って返してくれたら、次は自分のを買えるようになる」
林が言うと、後ろでネオンが補足する。
「本日の夕刻に“労働希望登録”を行います。そこで登録した方は、三日後からリル硬貨による報酬を受け取れます」
“報酬”という聞き慣れない言葉に、大人たちがざわめいた。
ルナはそのざわめきが不安に変わらないうちに、言い添える。
「強制じゃないからね。働ける人は働く。働けない人も、ここでは生きていい。それがここでのルールです」
その一言で、肩を落としていた老人の背が、ほんの少しだけ伸びた。
◇ ◇ ◇
午前のうちに、到着組はひとまず宿舎に荷を置き、簡単な身体検査を受け、浴場の使い方を聞いた。
湯気の上がる大浴場を見て、子どもたちが目を輝かせる。
「入っていいの?」
「今日はお湯、余ってるから好きにどうぞ」
ボランティアの少年が笑って答える。
“余っている”という概念が、彼らには新鮮だった。
ノールではいつも何かが足りず、先に取った者が勝ちだったからだ。
ひと段落ついたころ、ルナと林、ヨーデル、リマ、ネオンは場所を移す。
次は学園だ。
塔の中層にあるルーン学園は、今日も子どもたちの声で賑やかだ。
外から来た者たちを受け入れる“準備教室”は、いちばん手前の明るい教室に用意されている。
磨かれた床。並んだ机。壁には各国の地図や、魔法陣を簡略化した図が貼られていた。
扉を開けると、先に来ていたオートマタ教師が、すでに黒板の前に立っていた。
やわらかい声が響く。
「おはようございます。本日からこちらで、文字と数と、この国の基本の約束ごとを学びます」
教室の隅では、学園の子たちが手を振っている。
紫怨と、ピピと呼ばれた小さな子が、興味津々という顔でこちらをのぞきこんでいた。
「ねぇ、きみたち、どこから来たの?」
「髪の色、うちのクラスにはいない色だ!」
子どもは境界を知らない。
だからこそ、初めて来た者たちのほうが緊張してしまう。
ルナは最初の一歩を助けるように、そっと背を押した。
「ここでは、みんな笑って学んでる。今日からあなたたちも、同じところに座るだけ。怖くないよ」
小さな男の子が母親のスカートを離し、もぞもぞと前に出た。
紫怨が椅子を引き、ピピがノートを差し出す。
「いっしょに書こう」
そのやりとりを見て、窓側にいたリーアが、ほんのすこし目を潤ませた。
“ここの子たちはみんな笑ってる……”
それは彼女がこの数年で見たことのない光景だった。
オートマタ教師が黒板に丸を書き、言う。
「午前は三時間だけです。難しいことはしません。字がまだ書けない人は線から。数がわからない人は、ここにいるお友だちが教えてくれます」
ルナは教室を半周し、最後に林のほうを向いた。
「……こうして見ると、やっぱりここを通すのが一番早いね」
「街に直接出すよりずっと安心だな。ここで言葉とルールを覚えれば、どこへ行っても恥をかかない」
「それに、うちの領に連れて行くときも説明が楽」
ルナの声は、どこか安堵を含んでいた。
◇ ◇ ◇
午后。
学園での初授業が終わると、今度は大人向けの説明が開かれた。会場は塔の低層ホール。
椅子が足りないので、半分は立ったままで聞く。
前に立つのは林。
横でネオンが板を掲げ、説明の項目を光字で表示する。
「これから言うことは、全部“できるならやってほしい”であって、“やらないと罰する”じゃない。そこだけ先に言っておく」
ざわめきが少しやむ。
「アリアンロッドでは、働けば硬貨がもらえる。ここで使える通貨“リル”だ。これで服や嗜好品が買える。仕事は農園、工房、清掃、建築、警備……たくさんある。選べる」
「……子どもがいても?」
年配の女が手を挙げる。
林は頷く。
「子どもがいるなら半日でもいい。子どもは午前中ここで学ぶから、その間だけ働くこともできる。
どうしても今は無理だって人は、無理をしないでいい。無理をしないでここにいることが、まず最初の一歩だ」
“無理をしないでいい”と初めて言われた人たちは、どうしていいかわからないような顔をする。
それを見て、リリスが前に出た。今日は黒のローブに細い帯だけという身軽な格好だ。
「勘違いしないでね。ここは“楽して暮らす場所”じゃないわ。
でもね、“持ってないことを責められる場所”でもないの。
あるぶんで回して、増やせる人が増やして、増えたぶんをまた回す。その輪の中に入ってほしいだけ」
リリスの声は柔らかいが、よく通る。
ノールの人々は、彼女の言葉の中に“上からの哀れみ”がないのをすぐに察した。
だから、うなずきやすかった。
ネオンが補足する。
「労働希望登録は夕刻の食堂で行います。年齢・得意分野・持病の有無を聞きますが、答えたくない項目は空欄で結構です」
林が最後に言った。
「今日だけは早めに休んでくれ。明日からはこの街の音に慣れてもらう。夜も静かだけど、港の鐘が鳴る」
港の鐘――それはノールでは警鐘だった。
この街では、出入りの合図であり、生活のリズムを伝える音だ。
◇ ◇ ◇
夕。
食堂は広く灯がともり、あたたかい匂いが充満していた。
ドッグ隊の兵が配膳を手伝い、学園生たちが器を運ぶ。
スープ、焼いた根菜、ふかした穀物など。特別豪華ではないが、どれも湯気が上がっている。
「並んでくださいねー、熱いから順番に!」
ボランティアの少女が声を張る。
ノールから来た人々は、最初こそ遠慮がちだったが、先にルナが受け取って席に着くのを見て、安心したように列に付いた。
「どうぞ」
器を受け取ったリーアは、匂いを嗅いだだけで目を潤ませた。
ミトが器に手を伸ばす。
反射的に「待って」と言いかけて、リーアはそこで言葉を飲み込んだ。
ここでは、怒鳴らなくていい。
向こうの長卓では、初めて働いた者たちが、ネオンのところに並んでいた。
掃除を手伝った男、荷運びをした若者。
ネオンが小箱を開き、銀色の硬貨を数枚ずつ手渡す。
「今日の分です。受け取ってください」
男の手が震えた。
「……こんな、重いものを」
「これはあなたが稼いだものです。今日の分は今日受け取る。それがあなたの権利です」
男は唇を噛み、頭を下げた。
隣でそれを見ていた別の女が、思わず漏らす。
「“もらうんじゃなくて、もらえる”んだ……」
林がそこに歩み寄る。
「そう。誰かが恵んだんじゃない。あなたが動いたぶんだけ、その形がここに残る。それを使って、自分のものを買えばいい」
「何を買えばいい?」
「まずは靴かな。次に服。……あと、甘いものを買うのもいい」
林が目を細めて笑うと、その場が少しだけ和んだ。
食堂の端では、リリスが見回りをしていた。
騒ぎになっていないか、弱っている者はいないか。
彼女は静かに各卓を見て歩き、ひとりひとりに短く声をかける。
「おかわりはあるわ。遠慮しなくていい。……そう、子どもに先に回して」
ドッグ隊の兵たちが「了解した」と短く答え、列の整理を手伝う。
やがて、食堂の喧噪が一段落したところで、ルナが立ち上がった。
手には小さな鐘――今日は鳴らさない。
ただ、一同の視線を集めるために掲げる。
「今はここで暮らしてもらうけど、ここは“仮の家”です」
食堂が静かになる。
「数日後、準備が整い次第、皆さんを私の領――ルナデウスブルクに案内します。
そこが本当の“これからの場所”になります。
焦らずに、この街のことを覚えていってください」
誰かが小さく「はい」と答えた。
それを皮切りに、あちこちでうなずきが起きる。
ルナはほっと息をつき、席に戻った。
◇ ◇ ◇
夜。
港のほうで鐘が一度だけ鳴る。
街の灯が静かに落ちていく時間。
ルナは宿舎の外廊下に出て、夜空を見上げた。
冬を呼ぶような透明な空気の向こうに、塔の上層の灯が瞬いている。
隣に林が来る。手にはまだ作業用の手袋が残っていた。
「無事に、初日、終わったな」
「うん。泣き出す子もいたけど、笑ってる子もいた。……悪くない始まり」
ルナは欄干に肘を乗せ、遠くの港灯を見た。
「……やっと、始まるんだな」
「あぁ」
林も同じ方向を見て言う。
「“魔族の国”としてじゃなくて、“人の国”としてな。
誰がどこの生まれでも、まず腹を満たして、布団で寝て、明日どうするか自分で選べる国だ」
「それを、父さまたちにも見せたいな」
「すぐ見せられるさ。何往復かしたら、向こうの目つきも変わる」
そこへ、リリスが廊下に出てきた。
黒いローブのまま、少しだけ眠そうな顔をしている。
「ふたりとも、外だと冷えるわよ」
「もう終わった?」
「だいたいね。食堂に残ってるのは男たちの語りだけ。あれはあれで必要だから放っておく」
リリスはふたりの隣に立ち、同じように夜空を見上げた。
「今日ここに着いた人たち、たぶん今夜はよく眠れないわ。
でも、明日は眠れる。……そうやって三日いたら、“ここにいていいんだ”って体が覚える」
「三日か」
「そう。三日。
だから、あんたたちは明日も同じ顔で“おはよう”って言うこと。
国を変えるのって、案外そういうとこよ」
ルナはくすっと笑う。
「うん。わかった。明日も同じ顔で言う」
港の灯が、ひとつ、またひとつ消えていく。
眠りにつく者たちがいる。
新しい国で初めて布団にくるまる者たちがいる。
そのすぐ外で、ドッグ隊が静かに巡回している。
この国の夜は、誰かに守られている夜だ。
ルナはもう一度だけ空を見上げ、囁くように言った。
「――次は、わたしの領だ。あそこにも、灯を増やさなきゃね」
林とリリスが頷く。
「増やそう」
「増やしましょう」
そうして、アリアンロッドでの最初の“受け入れの夜”は、静かに更けていった。




