富山帰還編その2 神々の視線、帰郷の縁側
前話までのあらすじ)
アリアは、解析済みの「不審端末(CIA所有物)」を受け取り、渡り人絡みの暗い糸が地球に伸びていると確信。東堂、随行のオートマタ二体(ネオン/アルネオラ)と共に、夜のルーンブルク中庭からポータルを開き、日本へ――まずは神域へ報告するため、馴染みの神社へと帰還した。
鈴の緒が、夜風にからりと鳴った。
視界が白から藍へと戻り、アリアはゆっくりと息を吐いた。苔むす石段、黒々とした社殿、宵闇に浮かぶ紙灯籠。土と杉の香りが胸の奥まで沁みわたり、足裏の感覚がたまらなく懐かしい。
「……戻りました」
両の掌を合わせ、頭を垂れる。すぐ背後には東堂。がっしりした体躯が、不思議と神前では小さく見えた。オートマタのネオンとアルネオラは、僅かに膝を折って控える。彼女たちは人の形を巧みに模しているが、礼は礼――無駄のない所作で、神域の空気に溶けた。
社殿の闇がふっと揺れ、二つの影がすべり出る。一方は笠を傾けた和装の蛙、もう一方は白衣に朱の袴の狐。どちらも、こちらの世界の古い神の面を纏う。
「よくぞ参ったのう、異界ヴィルムハーゲンよりの騎士よ」
「また随分と背負って帰ってきたわね。顔つきが違うわ」
蛙の神が喉を鳴らし、狐の神が細い目を笑ませる。アリアは正座し直し、言葉を選び始めた。
「現状をご報告します。……向こうの国――アリアンロッドでは、大規模な戦がありましたが、いったん鎮静。ですが、その陰で、地球の“組織”が異界に手を伸ばしている形跡が見つかりました」
懐から、布に包んだ黒い端末を取り出す。神前へ直接差し出すことはせず、拝殿脇の供卓に静かに置いた。苔の匂いの奥で、電子機器の冷気が微かに頬を撫でる。
「この端末の出所は、こちらの“合衆国の情報機関”。異界の暴走する『勇者』一派に混じり、暗躍している可能性が高いと……。そこで、いったん戻り、然るべき方々へ道筋を通したく」
蛙神がゆるく頷いた。
「ふむ……人の世の欲は、異界の扉よりも隙間が多い。流れこむは易し、払い出すは難し、じゃ」
狐神が、朱の袖で口元を隠した。
「報せを怠るな。ヴィルムハーゲン側の女神――イヨにも伝えておきなさい。あちらの柱が知らぬまま、こっちだけで手を打てば、柱は折れる。繋がりは、神域ほど脆いのよ」
アリアの肩が一度、小さく跳ねる。胸の内で「しまった」という苦みがほどけ、真っ直ぐに頭を垂れた。
「……失念。必ず、イヨ様へ伝達します」
「よいよい。忘れるほど駆けておる、ということじゃ。だが――」
蛙神は石段の上から、ゆっくりとこちらを見下ろす。
「汝は騎士、いまは侍。刃は抜く前に納め方を決めよ。人の世の理と神々の理は似て非なる。道筋を違えぬよう、よう心得よ」
「肝に銘じます」
言い終えるより早く、東堂が背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「東堂隼人と申します。こちらの世界の者ですが、アリアと共に向こうで戦いました。……失礼があれば、俺に言ってください」
狐神が面白そうに眉を上げる。
「ふふ。筋が通ってる。いい“弟子筋”ね」
蛙神も喉を鳴らした。
「うむ。では行くがよい。おばあちゃんの家で、まずは“人の縁”を確かめよ。神は縁の先に宿る」
参道を撫でる風が、鈴の緒をもう一つ鳴らした。アリアは礼を終えると、端末を布で包み直し、ネオンたちに目配せする。
「――では、行こう。おばあちゃんに、ただいまと言わなきゃ」
石段を下りる足取りは、信じられないほど軽かった。
◇
富山の夜は、ひっそりと人の気配を吸っている。見慣れた曲がり角、電信柱の影、細い用水路のさざめき。アリアは無意識のうちに歩幅を合わせ、東堂は靴音を控えめにした。ネオンとアルネオラは、行き交う車の光を避けるように歩き、時折、きゅ、とつま先を揃えて止まる――礼儀作法の学習結果が可笑しくて、アリアは少しだけ笑った。
門の前で、東堂がそっと息を呑む。引き戸のすりガラス越し、廊下の明かりが点いている。玄関の鈴を鳴らすと、すぐに“あらまぁ”という声が飛んできた。
「アリアかい!? 夜に珍しい!」
障子を跳ね上げるほどの勢いで、おばあちゃんが現れた。小柄な体、エプロン、少し汗ばむ額。アリアは堪えきれず、正座でペタンと座って頭を下げる。
「ただいま、戻りました」
おばあちゃんの手が、髪にそっと触れた。掌の温度が、胸の底までほどける。
「はぁ……良かった。痩せてないね? ご飯は食べてるね?」
「食べてる食べてる。いっぱい」
「よし」
おばあちゃんの視線が東堂へ移る。
「まぁ、大きい子だこと。アリアの……お友だち?」
「はい。東堂隼人さん。向こうで一緒に」
「はじめまして。夜分にすみません。お邪魔します」
東堂は緊張で肩がこわばり、畳へ正座。耳まで赤い。おばあちゃんは緩く目を細めた。
「頼もしそうだねぇ。……で、そっちの二人は」
ネオンとアルネオラが息を合わせ、綺麗に一礼する。
「初めまして。ネオンと申します」
「アルネオラです。夜分に無礼いたします」
おばあちゃんはほんの一拍、彼女たちを見つめ、そして満面の笑みを浮かべた。
「ちょっと痩せすぎ! ちゃんとご飯、食べてるのかい?」
「……」
ネオンとアルネオラは一瞬だけ視線を交わし、同時に小首を傾げる。
「努力します」
「……はい、努めます」
アリアは堪えきれず、口元を手で押さえた。おばあちゃんは台所へ引っ込むなり、冷蔵庫を開ける音を響かせ始める。
「お茶いれて、おはぎ出して、漬物も出して――。あら、スイカもあった!」
「おばあちゃん、座って。わたしたちやるから」
「なぁに言ってんの、帰ってきた子に働かせる親があるかい」
そんな押し問答の最中、縁側側の戸ががらりと開いた。
「……お、明かりついてると思ったら。アリア、久しぶりだなぁ」
スーツの上着を腕に引っ掛け、ネクタイをゆるめた男が、夜の熱気を背負って立っていた。洋一――従兄である。アリアの胸が、過去の夏と現在の夏で同時に詰まる。
「洋一……!」
「おう。東京からさっき帰ってきてさ。……なんだ、今日は賑やかだな」
東堂が立ち上がり、軽く会釈する。
「はじめまして。東堂隼人です」
「ども。洋一。アリアの従兄だ。座れよ――あ、足崩していいから。うち、体育会系禁止な」
畳の空気が、笑いで少し緩む。おばあちゃんはちゃぶ台にお茶を並べ、皿に盛られたおはぎを置いた。ネオンとアルネオラは湯呑を両手で受け取り、所作の正確さにおばあちゃんが目を丸くする。
「えらいわねぇ、二人とも。背筋が伸びてる子は、それだけで八割方、立派な人だよ」
「……記録します」
「学習しました」
アリアはお茶をひと口、喉の奥で熱を受け止める。落ち着いたところで、洋一が真顔になった。
「で。帰ってきたってことは、ただの帰省じゃないな?」
アリアは頷き、布に包んだ端末へ目を落とす。
「向こうで……よくないものを見つけたの。こっちの“組織”が絡んでる。だから、神さまに報告して、それから――村瀬警部さん、それにFBIのマイケルさんに、もう一度会いたい」
洋一が短く息を呑む。東堂は言葉を継いだ。
「俺からも頼みたい。こっちから向こうへ連れて行きたい連中がいる。アリアの国……いや、街でなら、アイツらが“人間として”やり直せる。だから、その前に、ちゃんと筋を通したい」
おばあちゃんは静かに頷いた。
「話は難しいけど、言ってることはわかるよ。……人はね、“戻る場所”があれば、少しは優しくなれるから」
縁側の向こうで、夜が濃くなった。庭の砂利に、遠い街灯の光が白く点々とこぼれる。
アリアは姿勢を正し、神社で託された言葉を口にする。
「先に女神イヨにも報告を上げる。神域同士の筋を通してから、人の側の筋――村瀬さんやマイケルさんへ。東堂の仲間の件も、シャルルたちと作った説明書を添えて」
ネオンがすっと手を上げる。
「補足。イヨ様への伝達は、明朝、神社での“鏡面同期儀”を提案。神域間の負荷、最小」
アルネオラが続ける。
「村瀬氏への連絡線は、既存の“間接ルート”を再使用可能。危険度低」
洋一は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「よし。なら段取りは見えた。アリア、明日は朝一で神社。それから俺の車で県警まで出る。……“向こうの話”は俺も全部わかっちゃいないが、アリアが真剣だってことはわかるからな」
「助かる」
「それとだ」
洋一はちら、と東堂の肩幅を見、口端を上げた。
「そっちの“相棒”も頼もしそうだ。ばあちゃんの漬物、もう一皿出すか」
「ありがたく!」
東堂が即答し、おばあちゃんがふふと笑って立ち上がる。台所に消える背を見送りながら、アリアは息を細く吐いた――ここは、心がほどける場所だ。
ふと、おばあちゃんが戻ってきて、ほんの少しだけ真面目な顔をした。
「アリア。危ないことは、危ないって、ちゃんと言いなさいよ」
「……うん」
「人はね、強がる子を見れば見るほど、助けるタイミングを逃すもんだよ。あんた、昔から『大丈夫』って言い過ぎるから」
胸の奥に、申し訳なさと、ありがたさが同時に満ちる。アリアは素直に頷いた。
「今度は――言う。頼る」
「よろしい」
おばあちゃんはおはぎの皿を押しやり、笑ってみせた。
「さあ食べな。……ネオンちゃん、アルネオラちゃん、あんたたちもよ。『努力します』なんて言ってないで」
「いただきます」
「いただきます」
湯気と甘い香りの中、東堂がぽつりと呟く。
「……いいな。こういう夜」
アリアは障子越しの月を見上げた。向こうの世界の空は、いま何色だろう。ルーンブルクの夜風、酒場の笑い声、みんなの顔――胸の内側に、軽い痛みと温かさが重なる。
(必ず、繋ぐ。神の理も、人の筋も、どちらも違えずに)
湯呑の縁に映る月が、ちいさく震えた。
◇
夜が更ける頃、縁側で小さな作戦会議が始まった。蚊取り線香の匂い、ぴん、と鳴る風鈴。洋一がメモ帳を広げ、ネオンが薄い光子板を投影する。アルネオラは神社で用いる儀式の図を静かに描き、東堂は招きたい“顔ぶれ”の話を、必要最低限の固有名詞だけでまとめた。
「まずは明朝の鏡面同期儀。イヨ様へ報告、承認。次に県警。村瀬警部、場合によりマイケル氏への橋渡し」
「その後、東堂の“候補者”に一次接触。オートマタ一名が同席して、説明――“守るための移住”であって、“囲い込むための勧誘”ではないことを、強調する」
アリアは頷いた。
「それと――向こう(ルーンブルク)の動線。チーム分けは済んでる。探索は予定通り進行、街は学園と訓練で回す。シャルル、ハルト、グルー長、グバ長老、オリビエが政を見てくれる」
洋一が「うーん…なんかよくわからんが……まぁ頑張れや」おばあちゃんが湯を継ぎ足す。湯気の白が、虫の音に溶けた。
「――アリア」
おばあちゃんが少しだけ柔らかい声で呼ぶ。
「明日が済んだら、昼は家で食べな。たけのこご飯、炊いとくから」
胸の奥が、じん、と温かくなる。アリアは、子どもの頃と同じ声で答えた。
「うん。ありがとう」
その時、縁側の障子がかすかに揺れた。月明かりが、庭の砂利道に薄い銀の川を作る。遠くの神社の鈴が、もう一度だけ鳴った気がした。
(見ていてください。――イヨ様にも、必ず)
アリアは静かに目を閉じ、掌を合わせた。
夜は、優しく、深く、彼らを包みこんだ。




