屍鬼紫怨誕生編 その5 湖畔の邂逅
――朝露の匂いは、少しだけ甘い。
吐く息が白くならない程度の涼しさが、子どもたちの足取りを軽くする。
「今日は釣りだー!」
ピピが両手をぶんぶん振り回す。耳飾りがきらりと跳ね、足取りはぴょんぴょん兎みたい。
その横を、ルミナスが“のしのし(でも実際はふよふよ)”と歩く。黄金の紋が頬にきらめく蛙の賢者は、相変わらず歩いているのか浮いているのか分からない足取りで、どこか誇らしげだ。
「ピピ、走りすぎると転ぶわよ」
フリージアが花弁のような薄衣を揺らしながら微笑む。肩口で揺れる髪は陽に透け、掌の上には露を含んだ白い花片。
ルミナは荷物の紐を持ち直して、にっこり。
「大丈夫。もし転んだら、歌って痛み飛ばしちゃうから」
「それ、転ばない方がいいやつ~」
紫怨が苦笑した。彼は以前より背が伸び、しなやかな影を纏っている。外套の裾は陽光を吸うような黒。歩くたび、足元の影が“ひたり”と寄り添った。
木立を抜けると、湖がひらけた。
風が一枚、面を撫でる。水面にゆれる空が、二度目の空みたいに広い。
岸辺の石に腰かけ、糸を垂らしている人物がひとり。
「先生!」
紫怨が駆けた。
「おう、紫怨。ええ朝ぜよ」
以蔵は振り向かずに応え、指先だけで竿を支えた。口元はかすかに笑っている。
「先生、もう釣れてる?」
「餌をやるのが釣りの半分じゃ。焦らん焦らん」
ふっと軽く、竿先が震える。以蔵の手首がほんの少しだけ返る。糸が弧を描き、銀色の小さな魚が陽に跳ねた。
「わあ!」
ピピが拍手する。ルミナが目を細め、口ずさむ。弦のない旋律が水面にひろがって、波紋が柔らかくほどけた。
ルミナスは「ふむ」と頷く。
「この湖は魔力の流れが安定している。釣果はよい……はず。あと水飲み場としても優秀だ。浄化はぼくがした」
「準備、しよっか」
フリージアが花片をふわりと散らし、色とりどりの布を広げた。
ルミナは小さな携帯食の包みを解き、ピピは焚き火用の小枝を集めに走る。
紫怨は以蔵の隣に腰をおろして、竿を借りる。以蔵は無言で結びの要を渡す。
「……ありがとう」
「うむ。糸の張りは、心のほど。詰めすぎると切れる、緩めすぎると逃げられる。人の縁もよう似たもんじゃ」
「うん」紫怨は握りを直す。掌の温度が竿に移り、わずかな震えを伝えあった。
*
小さな焚き火がぱちぱちと囁きはじめたころ――空気が変わった。
風向き、鳥の高さ、草冠を渡るざわめきが一斉に低くなる。
「……来る」
ルミナスが首を巡らせ、黄金の瞳孔を細める。
樹々の陰から、影が走った。
ひとつ、ふたつ、みっつ――低く構えた灰毛の獣。耳がとがり、踵が機械仕掛けのようにたわむ。
ハンターラビットだ。群れだ。
さらに、森奥がどしん、と重く鳴った。
土を押し上げる足取り。黒い背。肩の岩皮。
単独の巨熊――キリングベア。
ピピが息を呑む。
「ひっ……!」
紫怨は即座に立ち上がり、仲間と獣の間に影を伸ばした。
以蔵が静かに立つ。鞘鳴りはない。抜き身はまだ要らぬ、という姿勢。
「落ち着いて」
一拍。ルミナが目を閉じ、喉を震わせる。
彼女の歌は、湖の境界をやわらげ、獣の鼓動をゆっくりにする透明な糸だった。
恐怖の棘に布を掛けるように、荒ぶる脈を撫でおさめるように。
旋律が重なる。ルミナスの気配が“圧”になる。賢き蛙の視線は、畏怖を思い出させる古い森の王のそれ。
フリージアが前へ一歩。指先からこぼれた花粉が、薄光る霧になって風に乗る。
やさしい香り――記憶の奥の“安全だった夜”を思い出させる匂い。
獣の動きがほどける。
ラビットの爪が地面に沈み、警戒の耳がすっと下がる。
ベアの肩が撓み、うなる代わりに鼻先で空気の匂いを確かめた。
「……いい子」
フリージアが囁くと、ラビットの一頭が膝を折った。
続けて、ベアが喉の奥で「ふう」と短く息を吐く。敵意が抜ける音だ。
紫怨は胸の鼓動を鎮める。
(戦わずに済むのなら、それがいちばんいい)
けれど、ここで逃がせばまた誰かを襲うかもしれない。なにより、いまこの場で、彼らは“こちらを選んだ”。
ならば、縁を結ぶ。
「……名を、与える?」
フリージアが、花片のかげで目を細めた。
ルミナが紫怨の背に手を添える。
「紫怨くんなら、きっと大丈夫」
ルミナスは頷く。
「主の影は、主が決めるのがよい」
以蔵は何も言わない。ただ、紫怨の立ち位置を半歩だけ調整してやる。
「そこがええ。影が重なる」
紫怨は前に出る。
膝を折ったラビット、静かに立つベア。
紫怨は、かつて自分がもらった言葉の温度を思い出す。
(あのとき、名前は手を握るみたいにあたたかかった)
震えないように、息をひとつ。
「――きみは、迅く、やさしい。風みたいだ」
ラビットの耳がぴくりと動く。
「名は……迅兎」
影が、つながった。
紫怨の足元から伸びた黒が、ラビットの足指に触れ、脛、腰、背へと薄い紋を描く。
耳の付け根に、小さな影の刻印が灯った。
迅兎は目を瞬き、一歩、紫怨の足元の影へ“すっと”沈んで、次の瞬間、紫怨の背後の影から“ぽん”と顔を出した。
ピピが「わあーー!」と跳ねる。
「い、いま、消えた! で、出た!」
ルミナが笑う。
「陰移り……だね」
紫怨はベアに向き直る。
「あなたは、大きくて、あたたかい。盾みたい」
ベアは鼻を鳴らし、じっと目を合わせた。
「名は……抱熊」
どすん、と地が軽く鳴る。
抱熊の足元に影の帯が巻かれ、肩口に“抱く”の形に似た紋が現れた。
抱熊は巨体のわりに軽やかに、紫怨の影へ半身を沈ませ、フリージアの影からぬっと出る。
フリージアが目を丸くして笑った。
「ふふ、上手」
「……成功じゃな」
以蔵が短く言う。その横顔は、どこか誇らしい。
紫怨の胸の奥に、ぽ、と灯がともった。
名前は、縁だ。
縁は、責任になる。
責任は、怖い。だけど、その怖さは――温かい。
「紫怨」
ルミナが寄ってくる。歌の余韻がまだ髪に残っている。
「おめでとう。初めての……『仲間へ名前を贈る』、だね」
「うん」
答える声が、前より少しだけ低い気がした。
「ぼくにも……守れるものが、できた」
ピピが勇んで迅兎へ駆け寄り、手を振る。
「じんと! あそぼ!」
迅兎は影から“ぴょん”と飛び出して、ピピの回りをくるくる回る。
抱熊は、焚き火のそばにしゃがみ、巨腕で風よけを作った。火の粉が子どもたちに飛ばないように、ゆっくり体を傾ける。
フリージアの花片がくすぐったそうに揺れ、ルミナがやわらかな和音を紡いだ。
「……影の術、使いおったな」
以蔵が感心したように頷く。
「はい。名に、少しだけぼくの影を混ぜました」
「分け与える覚悟を持ったっちゅうことじゃ。名は渡した側も変える。忘れるなよ」
「はい」
ルミナスが喉を鳴らす。
「迅兎には『陰跳び』、抱熊には『陰抱え』の術式を付与した。最初は短距離限定、負荷を見ながら拡張するのが良い」
「了解。訓練は……ぼくが見る」
「うむ。教える者は、いちばん学ぶ」
以蔵がふと竿を持ち直し、空を一瞥した。
雲が一枚、形を変える。
「昼までに二匹は釣れる。昼餉にしようか」
「賛成!」ルミナが笑う。
「ピピは焼き係~!」
「こげないようにね」フリージアが肩をすくめる。
迅兎が「焼くの? 焼くの?」と影からぴょこぴょこ出たり入ったりして、ピピと一緒に薪を集め始めた。
抱熊は焚き火の風よけを続けながら、時々巨大な掌で空気を送る。火がちょうど良く育つ。
紫怨は竿を握り直し、湖面を覗く。
さざ波の奥で、淡い影が揺れた。
(影はいつも傍にある。怖がる必要は、ない)
糸を落とす瞬間、以蔵がぽつりと言った。
「おまんも、もう一人前じゃ」
「……まだ、半人前です。でも、ちゃんと歩けます」
「なら十分よ」
風がまたひとつ、湖を撫でる。
歌が、花が、影が、ひとつの輪みたいに重なった。
小さな輪だ。けれど、確かな輪だ。
紫怨は微笑む。
「ただいま、って言える場所が、増えた気がする」
焚き火が、ぱち、と軽く跳ねた。
湖面が光り、群青の空に白い鳥が二羽、斜めに渡っていった。
――その日、湖畔で結ばれた新しい縁は、のちに小隊の背骨となる。
迅兎は影を蹴って敵の背後へ駆け、抱熊は影ごと仲間を抱えて矢の雨から救った。
名をもらった二匹は、ただ強くなったのではない。
“帰る影”を得たのだ。
そして紫怨の胸にも、火がともり続けた。
名前という小さな灯。
それは、これから先の長い夜を照らすのに、じゅうぶんな明るさだった。




