勇者雪辱編 その4:迎撃
一、火と霧のはざま
剣が抜かれる音が合図になった。
刹那、夜の霧が絞られ、森の小径に沿って明暗の縞が走る。青白い火球に照らされた勇者一行の影が伸び、反対側では黒髪の女騎士が低く構えた。彼女の背に、白銀の翼を持つ魔族が静かに舞い降りる。
「前衛、押し出す。槍列、揃え」
短い号令。槍の石突が砂を噛み、影の兵たちの足並みがぴたりと揃う。女騎士の視線は一度も揺れない。対して勇者側は、光に勢いづいた声で前へ出た。
「行くぞ!」
天城が吠え、斉藤が笑い、内海が刃をひらめかせる。
タツミは深く息を吐き、レイナの詠唱が重なる。後衛でエイルバッハが火球を増やし、森を擬似の昼に変えた。
「光があるうちに押し切る! 突撃!」
踏み込んだ瞬間、地の相が変わった。見えていた地面が、わずか半足ぶん沈む。糸のように細い魔道線が足首に触れ、絡む。前の者がわずかに体勢を崩し、後続がぶつかる。ほんの指先の撓みで、列が乱れた。
「くっ……!」
タツミが咄嗟に足を払って転倒を回避し、レイナは詠唱を無理やり繋いだ。火矢が束になって霧の向こうへ降り注ぐ。だが、当たらない。火は弾かれるように逸れ、湿った地に刺さって煙だけが這う。
「こちら、遮断膜を継続。光源は逆流させる」
老魔法師の低い声が森に沈む。薄い青の膜が波打ち、エイルバッハの火球は照らす先を奪われて、逆に勇者側の顔を白く曝した。光は味方を照らし、敵を隠す。足元から、静かな焦りの匂いが立ち上る。
「見えねえ……っ!」
斉藤の舌打ち。
「関係ない、突破だ!」天城が前へ出る。
そこに槍が一本、まるで地面から生えたかのようにのび上がった。
ワーデンリッツ。槍尖はただひとつ、天城の踝の半寸前に止まり、続く撥ね上げで彼の中心を正確に浮かせる。体勢が泳いだところへ、影の兵の柄打ちが胸骨の上を滑った。
乾いた息が漏れる。致命には遠い。だが、突き進む脚に「間」を植え付けるには十分だった。
「下がるな! 前へ!」
天城は叫ぶが、声と同時に視界の端が裂けた。白銀の翼が散らし飛ばした細羽が、音もなく空気の筋を作る。蔓のように細い魔具が瞬き、内海と斉藤の肘関節を絡め取った。
「ちょ、なんだこれ──!」
力任せに振りほどけば、逆に足裏のバランスを奪う仕掛けだ。二人は同時に横へ泳いだ。そこへ女騎士の影が「一歩」だけ近づく。
斜めに置かれた刃が、押すことも引くこともなく、ふたりの刃筋をただ外へ「寄せ」た。次の瞬間、斉藤の剣が自分の膝に触れそうになり、内海の手首から確信が抜ける。
「なっ……」
「無理に振らせない。はい、そこまで」
淡々とした声。彼女は踏み込まない。踏み込むのは、常に相手のほうだった。
⸻
二、崩れ
後列から雷撃が閃いた。レイナの詠唱が焦りとともに早まる。
稲妻が霧の膜を貫く。狙いは女騎士の足元。しかし光は彼女の位置に届く前に、意図的に設計された金属片に吸い寄せられ、地中へ逃げた。
「吸い込み……?」
レイナの頬がこわばる。眼前で魔術が「無駄」になる感覚。そこに生まれるのは、純粋な「遅れ」だ。
「レイナ、下がれ。立て直す」
タツミが横目で告げる。彼は相手の刃筋と足の置き方を見ていた。女騎士は、ただ強いのではない。最短距離で切らず、最短時間で崩す。剣を「振らせない」ために、こちらが「振る」前の体を斜めに進め、刃が空を切るように地面へ流す。
ならば、とタツミは反対に「振らない」ことを選んだ。間合いを半歩だけ外し、相手が寄せている力の方向へ小さく体を乗せる。自分からは何も起こさない。起こさせる。
女騎士の視線が一瞬、彼の足の向きを確認した。
「見えているな」
低い声。次の拍、タツミの右肩に軽い衝撃。剣は弾かれていない。ただ、「置き換えられた」。右が右でなく、左が左でなくなるような、不思議な感覚。背骨がひと呼吸の間だけ自分のものではなくなる。
膝が砂を噛む。
「悪いが、ここは通せない」
女騎士は一歩も動かない。けれど彼女の周りの空気が、細く尖っている。
背後で、エイルバッハが光の球をさらに増やした。眩さが目を焼く。その光の輪の外で、別の詠唱が低くうねる。
「風路、閉鎖。可視領域、縮退」
老魔法師の声。光が膨らむほど、見えるものが減っていく。勇者側の目は火球に慣れ、森の暗さにつり合わなくなった。一方で、防衛側は暗さに目を慣らし、光を背にした影を読む。
「内海、斉藤、下がって体勢を──」
タツミの言葉が終わる前に、地面が低く鳴った。前に出ていた二人の足元で、黒土が小さく陥没する。罠ではない。踏み込みの方向を半足ぶんずらすための、ほんの浅い「くぼみ」だ。そこへ槍の石突が触れ、支点を作られた二人の体は、体勢を直そうとした瞬間に逆に回った。
「ちくしょう──!」
内海の背に、影の兵の木剣が軽く触れる。斉藤の肘に、短い棒が「置かれる」。痛みは薄い。だが、関節の余白が奪われる。
「くそっ、離せ!」
「離している。自分で絡まっているだけだ」
冷ややかな声に、斉藤は歯を噛んだ。
彼らは「戦っている」つもりだった。しかし相手は「崩している」だけだ。崩れたところへ、何も重ねてこない。ただ戻らせない。
「天城! 一旦──」
「黙れ!」
天城が前へ踏み込む。苛烈な一撃。女騎士は刃を合わせず、腕の内側、手首の上に短く刃を置く。天城の剣は自らの重量で「止まる」。そこへ槍の石突が小さく天城の足の小指の前に触れ、体は自動的に別の方向を選ばされる。
視界の端で、白銀の翼が砂を巻き、細羽がまた空に筋を引いた。魔具の線が、天城の腕にも絡む。切ろうとすれば切れる。だが、切るための角度が常に半刻遅い。
「寄り添うな。剣は、もっと孤独でいい」
女騎士の声音は静かだった。
天城は喉を鳴らす。怒りが沸き、同時に微かな恐怖が立ち上る。
自分が「主役ではない」舞台の空気。誰かが、台本そのものを書き換えている。
⸻
三、縫い止め
レイナは回路を組み替えた。雷ではなく、音。鼓膜を裂くほどの圧ではなく、人の身体が無意識に弱い帯域での共振。彼女は杖を逆手に取り、地を軽く叩いた。
「共鳴、三」
見えない震えが走り、影の兵の足が一斉に半足遅れる。そこへタツミが踏み込んだ。剣は振らない。柄と鞘で二人の肩を弾き、前に空間を作る。
「抜ける──!」
わずかな裂け目。タツミはそこを走った。女騎士が一歩、彼の前に出る。
交差。
刃は触れない。触れたのは、視線だけ。
彼は理解する。彼女は、彼の「抜ける」意志そのものを見ている。抜けるための身体の嘘を、たったひとつの足の向きで止める。
タツミは初めて、剣の柄を握った手に力を入れた。振らない剣では、ここは通れない。振っても、通れないかもしれない。それでも、と彼は思った。
振った。
振った瞬間、彼は見た。女騎士が、ほんのわずか首を振って否を示し、刃を下ろして彼の刃を迎えたことを。
甲高い音が一度だけ鳴る。タツミの足が、勝手に後ろへ下がった。肩口が空気の硬さに押し返される。
「悪くはない。だが、ここは通らせない」
タツミは歯を食いしばり、レイナへ短く頷いた。撤退の合図。それは、負けを認める合図ではない。整えるための、後退だ。
「下がるな! 俺は──」
天城の声が割れる。その足元に、軽い震動。地の中に仕掛けられた空洞が、彼の体重で「鳴る」。それは落とし穴でも穴でもなく、ただ「足の裏に異物がいる」と身体に知らせるための、悪意のない罠だった。
人間の体は、正体のわからないものから足を退く。
その「本能」に刃を合わせられたとき、剣は勝手に遅くなる。
「セレスティア、右側の二人を切り離して」
女騎士の声。白銀の翼が砂地を撫で、細羽が二筋、内海と斉藤の間の地面に刺さる。光糸が走り、二人は互いの姿を視認できなくなる。声は届く。姿は届かない。連携が切れる。
「内海! どこだ、内海!」
「こっちだよ、斉藤。……いや、違う、これ声だけだ!」
網にかかった魚のように、二人は一歩ごとに絡まっていく。
後方で、エイルバッハが歯噛みした。
「光源、これ以上は……!」
老魔法師が短く答える。「下げろ。これ以上は味方を焼く」
火球が一つ、二つと消える。視界に闇が戻る。見えない森は、味方の心を削る。天城の呼吸が荒くなった。
「下がるぞ」
タツミの声が低く響く。「このままじゃ、壊されるだけだ」
「誰が下がるって言った!」天城が振り返る。「俺は──」
「ここで折れれば、本当に終わる」
ワーデンリッツの声が、勇者側に向いた。彼は槍を下げたまま、天城を見た。
「退け。戦えない戦場は、いくら刃を振っても勝てない」
「黙れ、外様が!」
天城の拳が震えた。怒りと、そして言葉にならない不安。
そのとき、女騎士が初めて一歩、前に出た。刃先は下がったまま。
「撤く賢明さを持つ者を、私は追わない」
その一言に、森の空気が変わった。
勝てない、と全身で理解している者から順に、足が後ろへ向く。タツミが先に身体を反転させ、レイナが詠唱で後退の防壁を作る。内海と斉藤はなお悪態を吐きながらも、視界が戻らぬ苛立ちに肩を震わせた。
「天城。生き残れ」
タツミの一言は、命令ではなく願いだった。天城は歯を軋ませ、剣を握り直した。その刃が今、何を切りたいのか、彼自身がわからない。
⸻
四、退き際
退路は狭い。だが、ある。
老魔法師の膜が濃度をゆるめ、風が通る筋が一本だけ開いた。そこへタツミが先頭で入り、レイナが後ろを守る。内海と斉藤は互いの腕を掴み合って、息を合わせ直す。エイルバッハは火球を最小限に落とし、後ろ足で下がるようにして霧の濃度を読む。
中村は、最後尾にいた。
誰かに押され、誰かに蹴られ、体勢を崩すたびに「邪魔だ」と吐き捨てられる。足がもつれ、転ぶ。泥が口に入る。
「立て、中村!」
タツミが手を伸ばした。その手に中村が触れる前に、天城の声が飛ぶ。
「そいつはいい。置いていけ」
レイナの目が細くなる。「口を慎みなさい」
「戦えないやつは荷物だ。俺の勝ちに不要なものは、全部捨てる」
言いながら、天城は自分の胸が痛むことに気づいていた。痛みは、悔しさの形だ。負けを言葉にするかわりに、何かを踏みつけて音を立てたくなる。
「……行け」
ワーデンリッツの槍が、退路の先を指した。老魔法師は最後尾から霧の膜を閉じ始める。女騎士は追わない。ただ、退いていく影を見送り、背を向けた。
森の外れ、土の匂いが草の匂いに変わる辺りで、ようやく一行は足を止めた。息が荒い。胸が焼ける。静寂が耳鳴りに似て、頭の奥を叩く。
「ふざけるな……ふざけるなよ……!」
天城が拳で木を殴った。皮が剥け、血がにじむ。
「たまたまだ。あんなのは、運が悪かっただけだ」
「違う」
タツミの声は低かった。「あれは準備だ。地と風と光を全部、向こうのものにされていた」
「言い訳か?」天城が睨む。
「違う。現実だ」
その返答に、天城の唇が歪む。
「はは。そうだよな。じゃあ──誰のせいでこうなった?」
沈黙が落ちる。
内海が振り向いた。斉藤が視線で追い、エイルバッハは口を閉ざす。
レイナは息を呑み、タツミは拳を握った。
「おい、中村」
天城の声が、濁った水のように冷たくなった。
「お前、何回転んだ? 何回、列を乱した?」
「……ごめん、なさい」
「謝るな。価値が下がる」
天城は笑った。
「ああ、そうだ。全部、お前のせいにすればいい。俺の負けじゃない。俺の物語は、まだ一度も負けていない」
内海が軽い声で合わせる。「だよな、アマギさん。中村が足引っ張んなけりゃ、俺ら勝ってたっすよ」
「そうだ、そうだ。こいつが囮に立たなかったからだ」斉藤が吐き捨てる。「役立たずのくせに、列に混じってんじゃねぇ」
「やめなさい」
レイナが間に立った。その目は怒りよりも哀しみに近かった。
「負けた理由を誰か一人に押しつけたら、あなたは次も負ける」
「黙ってろ」天城が押し返す。「俺は──」
「もういい」
タツミが短く言った。「今は休め。話は、あとだ」
誰も頷かない。頷ける者がいなかった。
夜風が、さっきまで燃えていたはずの光の匂いをさらっていく。森の方角では、何も起きていないような静けさだけが広がっていた。
中村はわずかに身を縮め、誰にも見られぬように顔を伏せた。
泥に落ちた小さな光の粒が、指の先で潰れる。あれは何の光だったのか、自分でもわからない。ただ、胸の奥がやけに空洞のように軽かった。
「戻るぞ。今夜は、ここまでだ」
ワーデンリッツが最後に言った。
誰に向けた言葉でもない。しかし、その声だけが、一行を動かした。
彼らの背中は森から遠ざかる。
敗北の奥で、別の夜がゆっくり始まりつつあった。
(つづく)




