勇者雪辱編 その2「歪んだ絆」
夜の森に焚き火の明かりが浮かんでいた。
小さな火を囲んで六人。火花がパチパチと弾け、光の円が彼らの顔を明滅させる。
焦げた匂いの中で、虫の声は遠い。
タツミは黙って剣を磨いていた。磨くというより、刃を確かめるような手つきだ。
その背を、レイナが冷めた目で見つめる。
焚き火の向こうでは、天城が葉巻のようなものを咥え、内海と斉藤が取り巻きのように笑っている。
「……ったく、退屈な夜だぜ」
内海が石を蹴った。「さっさとぶっ壊してぇ。あの黒い街ごと」
「焦るな」天城が言う。「夜明け前が一番静かなんだ。……狩りの始まりにはな」
「狩り、ね」
レイナが火の明かりを見つめたまま呟く。
「そんな軽い気分で来てないわよ、私は。あいつらに“負けた”まま、終われるもんですか」
天城が目を細める。「おや、珍しいな。お前が熱くなるなんて」
「当然でしょ」レイナが睨む。「私はヨンエの背中を見てきた。あの人は本物の勇者よ。
――だから、私はあの人の“次”に立つ。
そのために、あの街を守ってるやつらを倒す」
天城は鼻で笑った。「ヨンエねぇ。王に尻尾振って“第一勇者”の座に収まった、あの女か」
「違う」タツミが低く言った。「あの人は強い。北のガルドリアで、“黒鎧の騎士”と“炎槍の老将”を同時に退けたらしい。
俺たちとは格が違う。……けど、俺はそれでも追いたい。剣を、強さを、あの高さまで」
天城は肩をすくめた。「やれやれ。お前ら真面目だな。
俺様が目指すのはそんな“模範解答”じゃねぇ。俺は――この世界そのものを支配する」
「世界を?」レイナが眉をひそめる。
「そうだよ。俺たちは召喚されたんだ。“選ばれた”んだ。
この舞台の主役が誰か、考えるまでもねぇだろ? この世界の連中はモブだ。
ヨンエだろうが王だろうが、脚本通りに動く駒にすぎねぇ」
焚き火の火がぱち、と大きく弾けた。
誰も笑わない。
沈黙を破ったのは斉藤の軽い笑い声だった。
「ま、でもアマギ様の言う通りっすよ。こっちは“勇者”なんすから。
あの時負けたのは、たまたま運が悪かっただけっしょ。ねぇ?」
中村は小さく頷いた。火の光が彼の頬の傷を照らす。
だがその頷きが気に障ったのか、天城が顔を向けた。
「……お前、今笑ったか?」
「い、いえ……!」
「いえじゃねぇ。俺様が笑えって言ったら笑え。
俺様が黙れって言ったら、息も止めろ。わかったか?」
「は、はい……!」
「声が小せぇな」
天城の靴が地を蹴る。中村の肩口に一撃。倒れたところを、内海と斉藤が挟み撃ちにした。
泥が跳ね、鈍い音が三つ続く。
「ほら、中村ぁ、勇者様の指導だぞ?」
「ありがたく受け取れよ、“モブキャラ”!」
レイナが立ち上がった。「やめなさい!」
「何だ?」天城が振り返る。
「それ以上やったら、あなたたちまで“負け犬”になるわよ」
「……は?」
天城の口角がゆっくりと吊り上がる。
「俺様が、負け犬?」
火が映るその瞳は、笑っていなかった。
中村が呻き声を漏らしたその瞬間、天城の足がもう一度振り下ろされた。
「俺様が“負け犬”だと? 冗談じゃねぇ」
斉藤が慌てて笑う。「おいおい、まあまあ、アマギ様! 姐さんも悪気は――」
「うるせぇ」
天城が手を上げ、斉藤の頬を軽くはたいた。
「お前らもだ。俺に意見すんな。
この世界の筋書きは、俺が書き換える。俺が主役だ。――誰にも渡さねぇ」
沈黙。
火の粉が一つ、宙に昇る。
それが夜風にさらわれて消えたあと、タツミがゆっくりと口を開いた。
「……なあ天城。
お前、あの時のこと、覚えてるか?」
「なんの話だ」
「召喚の夜だよ。俺たちは“世界を救うために呼ばれた”って言われた。
俺は信じた。あの言葉を。
でも今のお前は……救うどころか、壊すことしか考えてねぇ」
「壊す? ああ、そうかもな。
でもな、壊さなきゃ作り直せねぇんだよ。
俺たちのための世界を――“勇者のための世界”をな」
タツミは答えなかった。
その沈黙に、レイナが小さく息を呑む。
焚き火がぱちりと音を立て、灰が舞う。
天城はゆっくり立ち上がり、上着を脱ぎ捨てた。
黒い布が地に落ち、内ポケットから何か固いものが転がる。
誰も気づかない。
ただ、月のない空の下、黒い板のようなそれがわずかに光を反射していた。
「明日だ。夜明け前に仕掛ける。
向こうがどう迎えようと、俺が勝つ。
俺の物語に“敗北”は存在しねぇ」
そう言って、天城は焚き火を踏み消した。
闇が戻る。風が止まり、湿った土の匂いが濃くなる。
中村は血の滲む唇を噛み、泥を握りしめていた。
彼の頭上で、梟が一声鳴く。
森の奥、見えない何者かの視線が、じっと彼らを見つめていた。
◇
その夜、レイナは一睡もできなかった。
火のない闇の中で、タツミの声だけが微かに聞こえる。
「……お前、本気でヨンエを超えるつもりか?」
「ええ」
レイナは迷わず答えた。「あの人の隣に立てるのは、私だけよ。
“黒鎧の騎士”を退けた彼女を越えなきゃ、何の意味もない」
「……そうか」
タツミの声は静かだった。「でもな、レイナ。
剣を握る理由が“誰かを越えるため”だけなら、いつか折れる。
俺はそういう剣を何度も見てきた」
「心配してくれてるのね。でも平気よ」
レイナは小さく笑った。「あんたみたいに真面目な人が一人くらいいないと、みんな腐るもの」
ふと風が吹き、森の葉がざわめく。
その音の奥に、何かの足音が紛れていた。
レイナは眉をひそめ、腰の短剣に手を伸ばす。
「……何か、聞こえた?」
「気のせいじゃない」タツミが低く言う。「もう、見られてる」
闇の中で、梟がもう一度鳴いた。
その鳴き声が、遠く離れた街の警戒線へと伝わっていくことを、彼らはまだ知らない。




