勇者雪辱編 その1「侵入者たち」
夜の森は、湿った息をひそめていた。
濃い霧のような闇の中を、六つの影が進む。
天城、内海、斉藤、中村――そして、タツミとレイナ。
異界から呼ばれ、かつて「勇者」と称された残党たちである。
風が抜けるたびに、枝葉が擦れ合い、ざわめきが生き物の声のように響いた。
「……ここで間違いないんだろうな」
先頭を歩く天城が、低く言った。
その声だけで、背後の四人が肩をすくめる。
中村が慌てて返した。
「は、はいっ……! 地図ではこの先に街が……!」
「チッ、靴の紐が解けた。クソ……」
天城はわざと大げさに立ち止まり、舌打ちする。
「オイ、中村。コッチに来い。走れ!」
名を呼ばれた瞬間、中村の背筋が凍った。
慌てて駆け寄ったが、何をする間もなく拳が飛んだ。
腹に突き刺さるような一撃。空気が喉から抜ける。
「うぐっ……!」
「言われる前に気付けや、ノロマ。いつまで足引っ張る気だ?」
天城は中村の胸ぐらを掴み、片手で持ち上げるようにして吐き捨てた。
内海がにやにやと笑う。
「おーっと出た! アマギ様の教育パンチ、今日もキレッキレっすねぇ」
「さすがっすよ、俺らのリーダー!」斉藤が調子を合わせる。
「この世にアマギ様の機嫌損ねて生きて帰った奴なんていねぇ!」
天城は満足げに鼻で笑い、拳を下ろした。
「ふん、当然だ。俺様が“進め”と言ったら、進むんだよ。
“止まれ”と言ったら、息も止めろ。わかったか?」
中村は痛みに顔を歪めながら、小さく答える。
「……は、はい……天城様……お優しいです」
「優しいだぁ?」
その瞬間、再び拳が飛ぶ。今度は頬を正面から撃ち抜かれた。
「誰が“優しい”って言った。俺を侮辱してんのか?」
地面に叩きつけられた中村の体に、内海と斉藤の靴が容赦なく入る。
「おらっ、リーダーの言葉は絶対だろ!」
「ほら、笑えよ中村ぁ! アマギ様のジョークだぞ、へへっ!」
泥と血が混じり、頬に張り付く。
中村はもう声を出せない。ただ唇を震わせて呟く。
「……ごめんなさい……」
「聞こえねぇな!」
天城が中村の頭を片足で踏みつけ、さらに押しつける。
「俺様が笑えって言ったら笑え!」
「……っ、は……はは……」
「うるせぇ笑い方だな」
もう一度、靴が振り下ろされた。乾いた音が森に響く。
タツミが思わず口を開く。
「やめろ、もういいだろ。……このままじゃ足手まといになるだけだ」
「足手まとい? それはお前らが勝手に感じてるだけだろ」
天城は鼻で笑った。
「俺様の“調子”を狂わせるやつは、足手まといってんだよ。
なぁ、内海」
「っすねぇ! 気配りってやつですわ!」
「斉藤」
「間違いねぇっす、アマギ様が言えばそれがルールっす!」
二人の声が、盲目的な信仰のように重なる。
その空気に、レイナが冷たい声を落とした。
「……くだらない」
彼女は振り返らず、森の奥を見つめていた。
その瞳の奥にあるのは、怒りではなく――諦めに近い。
「私たちはここへ、復讐しに来たんでしょ。
アリア……あの女を倒すために」
「そうだな」タツミが短く頷く。
「俺は一度、奴に剣を弾かれた。あの時の屈辱を返す。それだけだ。
……勝負は正面からつける」
天城がにやりと笑った。
「へぇ、正面からね。立派な理想だ。けどな、戦いに“正面”なんてねぇ。
勝った奴が正義だ。俺はそれを選ぶだけだ」
「戦いの意味を履き違えてる」
レイナの言葉を、天城は鼻で笑い飛ばす。
「うるせぇな。俺様が“やる”って言ったらやるんだよ。
勝ち方も、殺し方も、俺が決める。
……なぁ中村、そうだろ?」
呼ばれた中村は、血の滲む口を拭いながら、かすれ声で答えた。
「……はい、天城様……そのとおりです」
「声が小せぇ!」
拳が再び腹に入る。肺の空気が押し出され、喉が鳴る。
「お前は俺の命令を聞くだけの“口”だ。それ以外使うな」
「は、はい……」
「違ぇなぁ?」天城が目を細める。
「俺様が“違ぇな”って言ったら?」
「……天城様……違ぇ……です」
返した瞬間、頬に再び衝撃。
その拍子に中村は尻もちをつき、泥を噛む。
内海と斉藤が待ってましたとばかりに笑い声を上げた。
「ははっ、まーたやっちまったな中村!」
「勘弁してやれって言いたいけど、アマギ様の教育っすもんねぇ~」
「なぁ中村」天城が見下ろす。「お前、俺のこと何だと思ってる?」
中村は一瞬、口を開いたが、言葉が出てこない。
森の冷気が肺に刺さる。
「……お、俺は……天城様の……」
「ん?」
「……天城様の……主……です」
「はぁ?」
次の瞬間、天城の靴が横から飛んだ。頬を打たれ、地面に転がる。
「俺様を“主”だぁ? 言葉を選べっつってんだよ。
俺様は“神”だ。お前みてぇなクズが、口に出すな」
内海が腹を抱えて笑い転げる。
「ハハッ! 出た、アマギ様の“神宣言”! まじ鳥肌っす!」
「おい中村、ありがたく拝めよ!」斉藤が中村の頭を足で押さえつける。
「アマギ様の靴だぞ! 触れられるなんて光栄だな!」
中村は泥に顔を押しつけられながら、ゆっくりと拳を握った。
痛みではなく、空しさが喉を焼く。
やがて小さく唇が動いた。
「……くそったれが……」
「なんだ?」天城が眉をひそめる。
中村は俯いたまま、ゆっくり顔を上げた。
血の混じった唾を、彼の足元に吐きかける。
静寂。
次の瞬間、鈍い音が三つ、続けざまに鳴った。
天城、内海、斉藤――三方向から蹴りが飛び、肋を、頬を、肩を抉る。
「調子に乗るなよ、ゴミが!」
地面に倒れた中村の身体が、痙攣のように震える。
殴られるたびに、呼吸が掠れる。
その音だけが、夜の森に長く残った。
◇
「……あの連中、ほんとに勇者だったのか?」
斜面を登りながら、レイナがぽつりと呟く。
タツミは短く答えた。
「勇者なんて、誰が名乗ってもいい。今じゃただの言葉だ。
……でも俺は、剣で返す。あの日の負けを」
「同感よ」レイナの声が小さくなる。
「でも、彼らのやり方じゃ何も変わらない。復讐は、ただの逃げ道よ」
前方で、天城が振り返る。
「おいタツミ。お前ら、さっきから何コソコソ話してんだ?
俺様の作戦に文句でも?」
「ない」タツミは即答した。
「ただ、勝つ方法を選べと言ってるだけだ」
「勝つ方法? 決まってんだろ」
天城はニヤリと笑い、腰の魔灯を高く掲げた。
「正面から叩き潰す。それが一番、絵になる」
その笑みは、獣のそれに近かった。
空気が、わずかに震えた。
どこかで梟が一声鳴く。
それはまるで、この森そのものが“観客”であるかのようだった。
誰も気づかない。
――この夜が、彼ら自身の破滅の始まりであることを。




