魔境国アリアンロッド・リリス編 その1 旅立ちの風、街の影
リリスは夜明け前に目を覚ました。窓の外にはまだ薄い靄がかかり、鳥たちが鳴き始める声がかすかに届いてくる。彼女は手にした聖典を閉じ、そっと立ち上がった。
「……では、行こうか」
その声に応じて現れたのは、丸みのある耳をぴんと立てた山犬の子どもである。まだあどけなさを残した顔に、それでも勇気を振り絞る気配がある。
後ろからは、ふた振りの数珠を首から下げた二人の僧侶──豪善と円真が続く。白狐は影のように従い、その尾をふわりと揺らした。
「リリス殿、本当に行かれるのですか?」
豪善が問う。
「はい。町に奴隷市があると聞きました。見過ごせません」
その言葉に山犬の子が少し怯えたように服の裾を握った。リリスは微笑んでその頭を撫でる。
「大丈夫。わたしがいるから」
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◆街の姿
半日をかけて到着したその街は、表向きは交易で賑わう平和な町だった。露店には色鮮やかな果物や布が並び、人々の声が飛び交っている。
だが、空気の底に漂う「見えない冷たさ」をリリスは敏感に感じ取った。
その答えはすぐに見つかった。
広場の一角に設けられた「影の市場」。人のざわめきの奥から、鎖に繋がれた亜人や人間たちの呻きが漏れていたのだ。
「……!」
リリスの瞳が鋭く細められる。
その場を仕切っていたのは、黒い外套を纏った肥えた男。
「寄ってらっしゃい! 見てらっしゃい! 働き手に女も子も、ここでならお安く手に入るぞ!」
男の声に笑う客たち。
リリスの背後で円真が拳を震わせる。
「なんと……こんな……」
豪善も眉をひそめ、しかし冷静に「まずは証を掴まねばなりませんな」と低く呟いた。
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◆新たな人物
市場の片隅で、ひとりの青年が目を逸らしていた。
茶色の髪を肩まで伸ばし、みすぼらしい衣を纏っているが、その瞳は澄んでいた。
彼は鎖を引かれる奴隷の列を見ながら、小さく唇を噛みしめている。
「……こんなはずじゃなかったのに」
その言葉をリリスは聞き逃さなかった。
青年の存在が、この先の旅にどう関わるのか──まだ誰も知らない。
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リリスたちは今、 街の「表と裏」を垣間見た。
次回はこの青年との接触、そして「影の市場」の深部を探る展開へと進みます。




