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女騎士の独り旅!  作者: 和泉發仙


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 “白い窓辺”後編 ― 名前の種と、さよならの拍


館の奥で鳴った細い音は、外の踊りの輪を一拍だけよろめかせた。

鈴が、合図の高さで二度。ちり、ちり。

アリアは外套の裾を揃え、視線だけでリネと三つの精霊に合図する。驚かせない、壊さない、ほどほどで――それが今夜の約束だ。


「廊下の奥、左――」

眉さがりが小さく告げる。声は風の擦れのように頼りないが、方角は正確だった。

アリアは剣を抜かない。代わりに、窓辺の机に置いてあった紙の提灯をひとつ手に取り、蛍石の灯を指で包んで弱める。

「リネ。お父上と町の人たちは二階の階段口で待って。鈴が三度鳴ったら、庭へ」


「わかった。……でも、君は?」


「見に行く。――見る人の役目だ」



廊下に足をすべらせると、空気が一段冷えた。

奥の戸の金具がわずかに軋み、ため息みたいに内側へ動く。

人影が、躊躇のない歩幅で部屋に入っていく。

(迷いのない足。ここを何度も出入りした歩き方)


アリアは戸口に立ち、灯の影を壁に滑らせて部屋の輪郭を探る。

古い寝台、壊れかけの鏡、蓋のない箱。箱の中には帳面――家計の記録や、修繕の覚え書き。

その上に、太い手が伸びた。

男は背が高く、黒い短外套の襟が擦り切れている。指は炭と油の匂い。

(工事人――いや、取り壊し屋の手)


「やっと見つけた。……この館の“立ち退き”の証書。町長の印が押してある」

男は低く笑い、背中の袋を開いた。「これがあれば――」


「それは、この家の“過去”だ」

アリアは灯を少しだけ明るくした。「今夜の現在は、二階の窓で祭りを見ている」


男は振り向き、眉間に皺を寄せた。「何者だ」


「旅の者。女騎士。ただし今夜は剣を抜かない」


「なら退け。ここは俺の仕事だ。明日、壁を倒す」


「明日、君は仕事を変える」

アリアは提灯の光を紙一枚の厚さに細め、男の足元――箱の角に落ちていた鈴を照らした。「まず、鈴が鳴る」


ちりん。

部屋の奥、目に見えない指が鈴の輪を撫でた。

男はびくりと肩を揺らし、半歩退く。

「脅すつもりか」


「いいえ。知らせるだけ。――君が持ち去ろうとしているのは、紙。紙は、外で読まれるものだ」

アリアが一歩前に出た瞬間、天井近くでひゅっと風が巻き、細長い精霊が絵の額を“すっ”と持ち上げる。

丸い精霊は床板の隙間から薄荷の小袋を押し出し、眉さがりは鈴を二度鳴らした。

ちり、ちり。


廊下の向こうから、リネの声。「二度。――準備、開始!」


男が舌打ちし、帳面を乱暴に掴んだ。

「紙は渡さない。町長が俺にくれた。取り壊しの交渉は済んでる」


「交渉の紙は、公開で読めばいい」

アリアが目で合図すると、細長いのが壁の反射板を“ぱさっ”とずらし、光が男の足元に集まる。

丸いのは台所からリンゴ酒の香りを呼び、眉さがりが窓辺の鈴を柔らかく――ちりん。

音は小さいが、拍が揃う。

アリアは男の手首を見る。強張った筋、握る癖。

(掴みを“外す”ほうが早い)


「やめ――」


男の腰が帳面に合わせて引いた瞬間、アリアは踏み込みも打突もせず、ただ指先を“受け皿”にした。

掴んでいる手首の外側に軽く触れ、腕の“戻る方向”をすこし助ける。

男自身の力が、握りをほどく。

帳面がふわっと浮いた。

そこへ、細長い精霊が風で拾い上げ、額縁の裏に“ぺたり”。

丸いのは床に豆を一筋、眉さがりは鈴で合図。

男が踏む。ざざっ。

派手に転ばせない。二歩分だけ足さばきを乱すほどほどの豆。

倒れず、体勢を立て直すために後ろへ引いた拍を、アリアはそのまま出口へ誘導する。

「ここは祭り会場だ。乱入は、お断り」


男は歯を食いしばる。「子どもの遊びで邪魔を――」


「遊びは、町の真ん中にある。紙もだ」


そこへ――鈴が三度。

ちり、ちり、ちり。

階段口で待機していたリネたちが、庭へ引く合図。

「お父さん、町のみんな! 庭!」

メルロは鐘を抱きしめながら「鐘は鳴らさない!」と自分に言い聞かせ、踊りの輪は慌てず外へ移動する。

空気の三つも、するすると廊下の照明を調整し、強い光が男にだけ当たるようにする。

部屋は、舞台になった。


男の顔に焦りが走る。

「やめろ。外で騒がれると面倒だ」


「面倒を外に出すために、外がある」

アリアは帳面を指さした。「公開で読む。今夜、庭で」


「冗談じゃない。俺は町長と――」


「なら、町長も呼ぼう。矢印は、もう立っている」



庭。

紙の提灯がいくつも揺れ、矢印札が**「広場」→「庭」に裏返され、焼き菓子の匂いが風に乗る。

輪の真ん中に置かれた卓上に、額縁の裏から細長い精霊が帳面を置いた。

リネが手で押さえ**、メルロが緊張で鐘に顔を押し付け(鳴らすなと言っている)、町人たちがざわめきを飲み込む。


「読み上げます」

アリアは淡々と言い、最初の頁を開いた。

《立ち退き交渉覚え書》――印はある。だが、印の上に擦れ。日付は古い。

「この印、最近上から擦って濃くしてある。元の線が薄い」


町長が青ざめる。「わ、わしは……」


アリアは責めない。

責めると、紙は閉じる。

「ここ。修繕期限の欄が空白。空白を“契約違反”にするのは、取り壊し屋の作文」

次の頁。

《見取り図》――窓辺の部屋に墨で×が付いている。書いた手は太い。

「×の上に鉛筆の跡。誰かが消そうとした」

眉さがりが鈴をちりと鳴らす。

子どもがつぶやく。「窓、壊さないでってこと?」

アリアは頷く。「窓は、名前のない子の世界だ」


男が堪えきれず前へ出た。「紙は読めば強くなる。だが俺の紙も強い」

彼は別の巻紙を掲げる。《委任状》――字は上手い。だが、署名が遠い。

「遠い署名は、遠い責任」

アリアは短く返し、巻紙の端のにじみを指で示す。「油。鐘楼の滑車油と同じ匂い。……君は、鐘の綱の扱いも知っているのか?」


男は目を細めた。「夜警の手伝いをしたことがある。――何を言いたい」


「輪が重なるところに、都合は集まる。夜警、役所、取り壊し。重なる手が、窓を壊す」

アリアは帳面の最後の頁に指を置いた。「でも、重なる手なら、守る手にもなれる」


合図のように、鈴が二度。

ちり、ちり。

廊下の奥から、三つの精霊が列になって現れた。

細長いのは星の形に切った銀紙をひらひらさせ、丸いのは焼きリンゴの皿を抱え、眉さがりは窓辺の鈴を胸に抱くように持っている。

そして――彼らの後ろから、白い空気がそっと現れた。

昼の光を薄く溶いたみたいな輪郭。

人の形をしていない。けれど、確かにこちらを見ている。


「祭りへようこそ」

リネが一歩進み、両手を広げる。「ここは君の場所だよ」


白い空気は、庭の匂いと灯りと人のざわめきの中で、わずかに濃くなった。

アリアは卓上の紙の端に小さな余白を見つけ、ペンを置いた。


《名前の候補》

□ すず

□ まひる

□ しろ

□ みな (“みる・みなれる”の“みな”。見守るの“みな”でもある)


リネがペンを取り、白い空気のそばで膝をつく。

「……君が、選んで。君の紙だよ」


白い空気が、紙の上でそよと動いた。

薄い風が、四つの候補の文字をさわり、最後に一つの上で止まる。

鈴が、ちりと鳴った。


□ すず


「音が好き、だもんね」

リネが微笑む。

三つの精霊が「わぁ」「いい名前!」「……似合う」と声を重ねる。

メルロは感極まって鐘を――リネに視線で止められた。


アリアは紙に小さく追記した。

《名付けの証》

今夜、庭の祭りにおいて、白い窓辺の子に「すず」と名を贈る。

――読み上げ人 リネ

――立会い 町の人々

――受け皿 アリア(旅人)


読み上げる声は、強くない。けれど、遠くまで届く声だった。

「すず」

その二音が夜風を渡り、紙の提灯の灯りがふっと揺れる。

白い空気が――すずが、庭の真ん中まで、歩いた。


男が言葉を失って立ち尽くす間に、アリアは静かに言った。

「名前は、過去をひっくり返さない。けれど、今の位置を変える。

君の紙は、外で読もう。――明日、町の真ん中で。君が間違いだと分かったら、仕事を変えなさい」


男は唇を噛み、視線を落とす。

鈴がそっと鳴る。

「……俺にも、祭りの匂いの記憶がある」

ぼそり、と男は言った。「小さい頃、母親に手を引かれて、灯りの下を歩いた。壊す仕事をしてから、あの匂いを忘れてた」


丸い精霊が皿を押し付ける。「焼きリンゴ、食べる?」

男は思わず受け取り、噛んだ。

甘い。

薄い笑いが、口元に滲む。

「……明日、来る。紙を読む。もし、俺の紙が遠い署名だと言われたら、近い仕事を探す」


「それでいい」

アリアは頷き、卓上の帳面に布を掛けた。「今夜は、ここまで。祭りの続きだ」



踊りは、控えめに始まり、控えめに盛り上がった。

リネが手を打つ拍に合わせて、細長い精霊は銀の光を天井に跳ね返し、丸い精霊は香りをほどほどに保ち、眉さがりはすずの横で、鈴の結びを何度も確かめる。鳴りすぎない高さ、驚かせない拍。

すずは、紙の提灯の下で立ち、世界を吸うように見ていた。

屋台。矢印札。踊りの輪。笑い。

小さな紙きれを一枚、胸の前でくるっと回してから、アリアのほうへ風で渡す。

そこには震えた丸い字で、短い言葉。


《ありがとう》


「どういたしまして」

アリアは返事を紙の裏に書かない。言葉は、空気に乗せて渡したい夜だから。

代わりに、提灯の灯を少し弱める。眩しすぎないように。


メルロはとうとう堪えきれず、鐘をこつんと一度だけ鳴らした。

リネが眉を上げる。

メルロは真顔で言う。「撤収の合図だ。……騒がしくしてごめんね、すず」

すずは、鈴でこつんと返事した。



夜が薄くなる。

祭りの輪は自然にほどけ、矢印札は「屋台」から「家」へと裏返され、提灯の灯はひとつ、またひとつと沈む。

卓上の帳面は布で包まれ、明日の公開を待つ。

男は皿を返し、短く頭を下げて去った。背中はまだ硬いが、壊すための角度ではなかった。


二階の窓辺。

すずは、窓枠にそっと触れ、鈴を鳴らす。

ちりん。

リネが横に立つ。「ねぇ――すず」

呼ぶ声は、涙を含んでいたが、泣き声ではなかった。


アリアは少し離れたところで、見守る。

第三者の位置。

すずの輪郭が、少しずつ淡くなっていく。

名は、“今”を渡す船だ。

船は、岸から岸へ渡るためにある。

渡れば、岸は二つになる。

すずは、ここにいた“前”と“後”を、二つに持てる。


「また――」

リネが言いかけ、言葉を飲んだ。

すずは、鈴で答える。

ちりん。

“帰り道の合図”の高さ。

三つの精霊が、涙の気配で笑い、口々に言う。

「またね!」「祭り、いつでもする!」「……すぐ呼んでね」


アリアは窓に近づき、溶けてゆく光に外套の端をそっと触れさせた。

「さよならは、長くしない。――でも、拍は揃える」


すずは、提灯の灯の上をひとつ渡り、矢印札の端をひとつ撫で、紙の上に一行置いていった。


《すずは、ここにいる ― 窓と鈴のところ》


文字は風に薄れ、鈴だけが、窓辺に残った。

結びは、眉さがりが直したやわらかい結び。

鳴らしすぎない高さ。驚かせない拍。



朝。

庭に公開板が立ち、帳面が町の真ん中で読まれた。

遠い署名は遠い責任――と、町の誰かが言い、町長は額の汗を拭う。

男は、前に出た。

「……俺は、壊す仕事をひと休みする。壁を起こす側に回る。直すほうへ」

拍手は大きくはないが、厚かった。


メルロは鐘を磨き、「研究と商売の境目」をちょっとだけ研究寄りに戻すと宣言し、リネは「粉は砂糖粉だけ」と念を押した。

三つの精霊は、館の天井の影から顔を出し、「豆はほどほど」を朝一番に復唱する。


アリアは、白い窓辺の鈴を指で一度弾いた。

ちりん。

返事の気配は、確かにあった。

名前は消えない。

すずは、窓と鈴のところにいる――その紙は、もう誰の手にも渡っている。


旅支度を整えると、リネが駆けてきた。

「これ、持っていって。すずが好きだった丸い字で、『またね』って」

差し出されたのは、小さな紙片。

丸い字。

端に、粉砂糖がほんの少し付いている。

(父上の“儀式の粉”が混ざったな)

アリアは笑い、紙片を鞄の底にしまった。鞄は、また少しだけ重くなる。

重みは、さよならの拍を、次の町まで運ぶ。


「じゃあ、行く」

「また来てね」

「豆は控えめで」

笑いが重なり、矢印が外へ向く。

風が窓を撫で、すずの鈴が――ちりんと、ひとつ、旅人の背に合図した。


アリアは振り返らない。

名前のある場所はもう“道”になっている。

その道は、いつでも誰かが渡れる。

彼女は、次の橋を探しに歩き出した。


(了)

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