魔境国アリアンロッド・秘匿扉探索編 その8 魔王の血脈
――この大地の熱は、歓声で震える。
石畳が低く鳴動し、旗が狂ったようにはためき、円形闘技場の空は無数の吐息で白く曇っていた。
ルーンブルク大広場、魔王たちとアリアンロッドの公開試合――。
⸻
「前へ」
ルナが一歩、進んだ。
黒の上衣の袖口が微かに揺れ、足裏が石に吸い付く。風が止む。視線が集まる。
対面、竜騎士を従えた北の魔王――銀灰の巨影が、観客席の陰から歩み出た。
「……遅かったな」
声は岩肌のように低く、冷たい。
銀の瞳。鉄の面差し。
ヒルデリッヒ――北方を束ねる老魔王。さきの会議では一言も発さず静観していたその男が、今は正面からルナを射抜いている。
その眼差しに、血が騒いだ。懐かしさと、痛みと、誇りと、悔恨が絡まって胸の奥を灼く。
「父上」
言葉は短く、しかし確かだった。
「……その呼び方が、まだ口に残っているか」
ヒルデリッヒは鼻を鳴らす。「魔王とは、群れの先端に立つ牙だ。牙は鈍れば折れる。折れた牙は捨てられる」
「お前は牙を研いだか。あるいは――飾りをつけて、人に見せびらかすための玩具に堕したか」
羅刹丸が前のめりになりかけ、朱鬼丸がその袖をひっぱった。
俊傑は奥歯を噛み、言葉を飲み込む。
ルナはただ一礼した。
「研ぎは、戦場だけではありません。……生かすための刃も、あります」
ヒルデリッヒの口角が、わずかに歪む。
「ならば示せ。言葉ではなく、動きで」
鐘が鳴った。
観客が、叫んだ。
⸻
先鋒は、ガレンだった。
「よっしゃ、行くぜ!」
大地を蹴った瞬間、猛獣じみた躍動が床を走る。対面に出たのは、ゾロアルダ軍の将――全身を漆塗りの甲冑で包んだ巨漢の魔族。握る戦棍は人の胴ほどもある。
「砕け!」
棍が風を裂き、唸り、落雷のようにガレンの頭上に振り下ろされ――
空を打った。
踏み込み、半身、腰の回転。ガレンは一拍早く相手の懐へ潜り込み、左ローを膝の外に突き刺した。
バチン――!
乾いた音に、観客席の魔族が一斉にのけぞる。
巨漢の足が、わずかに流れた。もう一発、インロー。
バチィン! 膝が笑い、体重が逃げる。
「ッ……!? なんだ、その……曲がる痛みは……っ!」
「足が止まったら終わりだぜ」
間合いを嫌がって振り回された棍棒を肩でいなし、体を密着。
内股――からの、腰の回転を軸にした刈り倒し。甲冑ごと地に叩きつける。
「極める」
ガレンの右が相手の上腕を取り、骨と関節の無言を聞く。
肘の角度が悲鳴に変わる前に、将は戦棍を取り落とした。
降参の手が宙で踊り、審判が慌てて割って入る。
観客――静寂。遅れて爆ぜるどよめき。
「い、一撃で……脚を……!」
「いや、斬っても焼いてもいない――蹴っただけだぞ!?」
魔族兵のざわめきの中、愛菜が両手を口に当てて弾けた。
「出たー! ローキック講座!!」
⸻
次鋒――東堂。
「オレも一本ね」
東堂の前に立ちはだかったのは、竜鱗を刻む槍騎士。槍先が蛇のように唸る。
「貫く!」
素直だ、と東堂は思う。
最短、最速、一直線。良い槍だ。だが――
「直線は、ズレる」
わずかに外へ身をずらし、手首で槍柄を払う。
空いた胴へカウンターの右、相手がたわんだ腰ごと抱え上げて――
ズドン、豪快なダブルレッグからのテイクダウン。
「ひ――」
背中が石に叩きつけられ、肺の空気が悲鳴になる。
東堂は流れるように上体を跨ぎ、相手の首の後ろに腕を回した。
リアネイキッド・チョーク。
竜鱗と称された首筋が、みるみるうちに色を失っていく。
「……っは、息が、吸え……」
「タップ」
虚空で爪がカン、と床石を掻いた。審判が割って入る。
東堂はすっと離れ、相手を起こし、軽く頭を下げた。
「いい槍でした」
「ど、どうなっているんだ……槍も鱗も意味をなしていない……!」
「魔法でも術でもない。……技だ」
観客席の陰で、以蔵が口の端を上げる。
「土佐の剣でも、よう似たもんがあるき。勢いいうんは、いなされると反って己を損なうがじゃ」
⸻
剣の風が流れる。
アリアの番だ。
対面に出てきたのは、ラグネルの側近――四肢に刃を宿した魔族剣士。
「速さなら誰にも劣らぬ」
静かな声。次の瞬間、その声は残像になっていた。
――速い。
視界の縁に残光が弾け、刃が斜めから、下から、背から、連続して飛び込んでくる。
人の目で追える速さではない。
だが、アリアは見えている。
《空間把握》が描く立体の線に、敵の刃が触れる瞬間が音になる。
右足半歩、肩の回転、軸の移動――
刃はそこに来る。
剣は、そこに在る。
打ち払うのではない。触れ、流し、落とす。
相手の運動量が、アリアの小さな円で解体されていく。
「なっ……!」
刃が滑る。手首の角度が崩れる。
そこへ――
コツ。柄頭で相手の手甲を叩く。
「――ッ」
わずかな痺れが握りをほどき、刃が石に転げた。
アリアの剣先が、相手の喉元にふわりと触れる。
「これで、終いだ」
静かに納刀。
歓声が一拍遅れて爆ぜた。
「み、見えなかった……」「いや、見えていた……あの女の剣は見ていた……!」
「なぜだ。斬り結びではない。流れて、止まって、触れて……勝った……!」
セレスが小さく微笑む。
「アリアは剣に“理”を宿したのよ。斬ることが目的じゃない。斬らなくて済むための剣」
ティアが頬をふくらませた。「わたしの出番が……!」
⸻
戦列の後方、ルナは静かに呼吸を整えていた。
前へ出る準備は、いつでもできている――そう告げる身体の底で、心だけが波立っている。
父の視線が、ずっと背中に刺さっているのを知っているからだ。
「ルナ様」
羅刹丸が囁く。「あいつらは“強さ”しか知らねえ。強さで黙らせる手もある。だが、おまえさんが見せたいのは“別の強さ”だろ」
「……うん」
「俊傑」
呼べば、青年は「ここに」と短く応えた。
黒目がちの瞳が、明るい。
「大丈夫。俺は、ルナの背中のまま行く。何言われても」
「ありがとう」
胸の震えが、笑いに変わった。
ルナは一歩、前へ出る。
⸻
「次は――わたしだ」
ルナがそう告げると、魔王側からざわめきが走る。
「娘が出るのか」「笑わせる」
「では、お相手は私が」
ゆったりと歩み出たのは、豊穣の魔王エリュシア。
翠髪が光を受けて波打つ。
「争いは好まないけれど、言葉だけでは届かないこともあるわね」
「感謝する」
二人は礼を取り、間合いに入る。
合図はない。風が合図だ。
エリュシアの指が描く緑の陣が、ルナの足元で芽吹いた――蔦が絡み、地を掴もうとする。
その瞬間、ルナの重心がふっと消えた。
足裏で円が回る。
蔦が絡んだ「はず」の足首が、そこから半寸ずれている。
次の一歩が、蔦の束をまるごと空へ運び、絡みは風にほどけた。
「……面白い」
エリュシアが笑って、魔弾を二連。
ルナは受けない。払わない。
指先で触れ、明後日の方角へ“行かせる”。
弾は空を往く。観客がどよめく。
「何をした」「力の線が……逸れた……?」
ルナの掌が、エリュシアの肩口へふわりと添えられた。
重い力はない。ただ、流れが止まる。
膝が折れ、エリュシアの視界がわずかに沈む。
そこへ、ルナの身体がひと呼吸で回り込み――
四方投げ。
大地が優しく、しかし確かに魔王の身体を受け止める。
「……参ったわ」
笑って、エリュシアは手を挙げた。
「あなたの“道”は、見えた気がする」
歓声。驚嘆。否定の唸りは、もう少しばかり少ない。
観客席の奥、ヒルデリッヒの瞳が微かに細められた。
⸻
魔王側も黙っていない。
「軍で叩くまで」
ゾロアルダの号令一下、召喚門が開く。
黒鉄のゴーレムが数十、闘技場へ躍り出た。胸部に刻まれた術式が赤く脈動し、腕部が剣に変形する。
「――後衛、上げ!」
アリアが振り返るより早く、澄んだ合成音が闘技場全域へ響いた。
『全機、オールレンジ展開。支援人格、待機』
オートマタの背から光子ユニットが咲き、空中に白い花が散った。
花弁のひとつひとつが、極小の飛翔砲台だ。
軌道が描くのは螺旋、軌跡が組むのは綾。
「封じなさい」
ルナの低い指示に、砲弾は殺さずの網を編む。
ゴーレムの関節を打ち、術式の回路をわずかに乱し、膝を落とさせ、剣を投げさせる。
破壊はしない。無力化だけを、美しく完遂する。
「馬鹿な……我が軍の鉄陣が――」
ゾロアルダのこめかみが引き攣る。
「破却していない……殺していない……! 術を断ち、動きを封じ……!」
「――負かすことと、殺すことを、私は混同しない」
ルナの声が静かに響き、観客席に波紋を走らせた。
⸻
「面白い。では、これならどうだ」
砂漠の魔王ヴァルクが、手をひらりと振る。
巨体の魔獣が吼え、背から黒い矢の雨が降った――無数のドローンの群れだ。
魔術と工巧の合体。
観客が悲鳴を上げるより早く、闘技場の四辺に立てた黒塔が一斉に唸った。
ネオン、クルネオ、アルネオラ――三体のオートマタが接続し、空間に不可視の格子を展開。
矢は格子面に当たり、角度そのまま**“持ち主へ返る”**。
「自分の矢が――!」
「戻ってくる――!?」
蜂の巣になりかけた魔獣の上を、愛菜の声がぶち抜いた。
「はいはい! 実況の時間です! 今のは“反射壁”という名の嫌がらせです!!」
「やめろ」アリアが額を押さえる。「言い方」
⸻
戦は熱し、しかし誰も倒れない。
折る、砕く、ではなく――止める、流す、置く。
闘技場に「殺意」だけが見当たらない光景に、魔王側の老臣たちが呆然とする。
「……茶番だ」
ただ一人、ゾロアルダが吐き捨てた。「戦は殺し合いだ。生かすなど偽善に過ぎん。殺せ」
「なら、お前が来い」
ガレンが顎で示す。
「ここまで来て“殺すしか知らない”を披露するのか。……面白れえじゃねえか」
ミシ、と石が鳴った。ゾロアルダの後背、黒甲冑の側近が一歩前に出る。
「陛下に代わり、この身が」
背中から伸びるのは刃の束――魔王鍛造の六刀流。
「整えます」
低い声。
空気が刃になった。
踏み込み――六閃。
「腕はいい」
刃が東堂の鼻先を掠めた瞬間、ルナの掌が男の肩甲に音もなく置かれる。
“流れ”が止まり、後ろ足が死ぬ。
そこへ、東堂のロー。
バチン――!
「――ッ!」
次の一歩が出ない。膝が笑う。
二撃目がふくらはぎを裂き、三撃目で踵が床から離れない。
東堂は肩で息をする側近の懐に入り、タックル。
ズドン。
サイド、そしてマウント。
「苦しい、は、ずだ」
リアネイキッド・チョーク。
男の刃束が床に散り、審判が叫ぶより早く――
「タップ」
床石を叩く音が、観客の胸骨を叩いた。
沈黙。
やがて四方から、怒号とも歓声ともつかない咆哮が立ち上がる。
それは敗北の怒りではなかった。
知らぬ論理に叩かれて、目が覚める痛み――文化衝撃の叫びだ。
⸻
「……まだ“見せて”はいないようだな」
ヒルデリッヒが初めて立った。巨躯が影を落とし、闘技場の風が低く唸る。
ルナは、静かに向き直る。
「父上」
「娘よ。お前は刃を抑え、血を収める。……立派だ。だが、それで群れは守れるか」
銀の瞳が、初めて熱を帯びた。
「老いた私が去ったあと、この北を、魔族を、人も……お前は守り切れるのか」
返す言葉は、ずっと前から胸の中で温めてきた。
しかし、それを言葉にするより先に――
ルナは動きで答えた。
一歩。
二歩。
足裏で円を描く。
掌が石に、背に、空に置かれる。
ヒルデリッヒの気配が、“行きたがっている方角”を読む。
そこへ誘う。
掌が衣へ、肩口へ、背へ――ふっと触れるたびに、巨躯の流れが変わる。
力の矢印を無理に折らない。
そのまま、ゆるやかに円へ乗せる。
円は落ちる。
巨躯が、石へ優しく横たわる。
「――っ」
観客が息を呑む。
ヒルデリッヒの両肩が石に触れ、銀の瞳が真上の空を映す。
次いで彼は、低く笑った。
「……そうか。守るとは、こういうことか」
「守るために、折らせる。壊さず、止める。立てる者は、立たせる」
ルナは膝を折り、父の目を見た。
「でも、もし折れない刃が来たら――わたしは折る。迷いなく」
沈黙が落ちた。
やがて老魔王はゆっくりと立ち上がり、娘の肩に大きな手を置いた。
その掌は固く、温かかった。
「……お前が、私の娘であることを、誇りに思う」
歓声が、轟いた。
ラグネルが舌打ちをし、ヴァルクが瞑目して肩をすくめる。
エリュシアは微笑み、ゾロアルダは拳を握って黙った。
⸻
「――ここまで」
アリアが剣を収め、闘技場の中央に歩み出る。
「示すべきものは示した。殺すためではなく、生かすための強さ。
それが、わたしたち――アリアンロッドの道だ」
魔王たちは互いに顔を見合わせ、わずかな時間ののち、それぞれ頷いた。
「認めよう」「視座が変わった」「続きは酒席でも良いだろう」
「……ふん」ゾロアルダだけが踵を返した。「戦はまだ終わらぬ。覚えておけ」
その背を、ルナは追わなかった。追うべき時は、また来る。今は――結んだ手を確かめる時だ。
「終宴を告げる前に」
ヒルデリッヒが声を張った。「この場に集った者すべてに告ぐ。
今日、我らは“もう一つの強さ”を見た。
この地にしばし逗留し、学ぶことを許されたい」
「アリア殿――」
別の魔王が、堪えきれぬ笑顔で手を挙げる。
「滞在の許可を……! ワシはこの味に惚れた!! まだ口にも入れておらぬのに、香りだけでわかるのだ! 旨いに決まっておる!!」
「おい、まだ宴は始まってないぞ」アリアが額に手を当てる。
観客席のボリスが酒樽を抱え、嬉々として手を振った。
「なら開けりゃええがよ! 今だ!」
愛菜が両手を広げて叫ぶ。
「はい!! 試合はここまで――ここからは“文化戦”です!!」
笑いが、涙とともに溢れた。
闘技場に、殺意の匂いはない。
あるのは、揺らいで、ほどけて、繋がり直す気配だけだ。
⸻
夜が落ちる。
屋台の灯りが並び、香りが通りを満たす。
明石焼きがふるふると出汁に泳ぎ、ラーメンの湯気が立ちのぼる。焼き鳥は塩もタレも山のように。
魔王の側近が恐る恐るひと口――次の瞬間、目を見開いて両手で椀を抱きしめる。
「……このふわふわは反則だろう」「麺の魔術だ……」「焼いた鳥が……なぜ、こんなにも……」
「……帰りたくない」
不意に、誰かが言って、皆が笑った。
「帰りたくない!!」今度は大声で。
ヒルデリッヒが苦笑し、ルナが肩をすくめる。
「滞在は歓迎します。……ただし、働いてくださいね?」
「働く!? 魔王が!?」
「屋台の手伝いでも、皿洗いでも。文化は、みんなで回すものですから」
エリュシアがくすりと笑い、ヴァルクが肩を震わせる。
ゾロアルダの背だけが、遠く闇に消えていった。
俊傑が、ルナの隣に腰を下ろした。
「……すげぇ夜だな」
「うん」
「さっきの、父上の顔。見た?」
「見た」
「誇ってた」
「――うん」
言葉の最後は、ほとんど息だった。
肩が、少しだけ震えて、すぐに静かになった。
遠く、以蔵が杯を掲げ、土佐弁で上機嫌に何かをがなっている。
アリアはボリスと厨房に入り、明石焼きの返しに挑んでセレスに手ほどきされている。
オートマタは屋台の列の端で、子どもたちに串の受け渡し手順を教わっている。
「……俊傑」
「ん」
「ありがとう」
「なんで」
「ここまで一緒に来てくれて」
俊傑は答えず、代わりに屋台から二つ、湯気の立つ椀を受け取った。
「……まずは、腹ごしらえ」
「うん」
スープをすする音が、夜の星に届くほど清らかに響いた。
⸻
夜半。
広場の片隅に、まだ火の残る鍋が一つ。
ルナはその火を見つめていた。
不意に背の気配――
振り向けば、ヒルデリッヒが立っている。
さっきより、ずっと柔らかい顔で。
「……良い夜だ」
「はい」
「私は、戦うことしか教えられなかった。……すまなかったな」
「いいえ。父上が戦い方を教えてくれたから、私は戦わない方法を学べました」
沈黙。
やがて、二人は並んで座り、火を見た。
「明日からは、学ぶ。私もだ」
「教えますよ。合気でも、太極でも。皿洗いでも」
「ふ……魔王の手が皿にふれる日が来るとはな」
ふたりの笑いが静かに混ざる。
火は小さくなり、夜は深くなる。
遠く、音楽の練習をする誰かの鼻歌が聞こえた。
幸福の花は、広場の端で淡く光り、プラチナフロッグの池からはかすかな水音。
この国の明日は、今日よりも少し、柔らかい。
――そして、その明日の向こうに。
闇の中で拳を握りしめる影が、まだ確かに息をしている。
ゾロアルダ。
力だけを信じ、殺しこそ正義だと叫ぶ男。
彼が去り際に吐いた一言――「戦は終わらぬ」――は、夜風の中で何度も反芻され、やがて遠くの空へ消えていった。
だが、ルナは知っている。
戦は、終わらせるためにある。
終わらせるために、始めたのだ。
アリアと、仲間と、父と――そして、この国と共に。
火が、最後の火花を打った。
ルナは立ち上がり、父に小さく会釈して、広場の灯の方へ戻っていった。
笑い声が、彼女を迎える。
(つづく)




