“白い窓辺”前編 ― 粉と笑いと、名前のない子
町のはずれに、風が止まる館があった。
止まるといっても完全にではなく、いったん肩で息をして、それから躊躇いがちに庭木を撫でていく感じだ。枝は音を立てず、葉はわずかに裏を見せ、ガラスは薄く曇る。
「おばけ館」と人は言った。昼なお暗い二階の一番奥の窓に、夜ごと白い影が立つのだと。
アリアは昼下がりの露店で甘い揚げパンを受け取り、ひと口かじってから、案内板の「←幽霊対策会議」を二度見した。
矢印の先、寄り合い所には見物人がぎゅうぎゅう。奥から鼻息の荒い声が響く。
「任せたまえ! この〈浄霊祈祷士〉メルロ・バルドが、たちどころに成仏へ誘う!」
男は胸を張った。黄色い外套、過剰な数のお守り、そして腰には――なぜか鐘。
隣で腕を組む少女は、黒髪を高い位置で結んでいる。年は十四、目はよく笑うが、今は半信半疑の細さだ。
「父さん、その鐘、昼間に鳴らすと近所迷惑だって言ったでしょ」
少女はため息をつき、アリアに気づくと小さく会釈した。
「ご旅行の方? すみません、うるさくて。私はリネ。あっちは父のメルロ。研究と商売の境目が曖昧な人です」
「……研究、寄りの商売だな」
アリアは微笑みを返す。「館は?」
「夕刻から、調査兼お祓い。父は“すぐ終わる”って言ってます。いつもそう言うんですけど」
「すぐ終わらない顔をしている」
メルロは腰の鐘を一度だけ誇らしげに鳴らした。
こつん。響きは軽い。
「音で霊は散るのだ! 霊は空気のゆらぎに弱い! 論より鐘!」
(論より鐘……初めて聞いた)
アリアは揚げパンを包んだ紙をたたみ、寄り合い所の壁に貼られた“館の見取り図”に目をやった。
大きな階段、踊り場、二階の長い廊下。突き当たりが“白い窓”。
図の隅に小さく書き加えられた注意が目に入る――
〈戸は重い。引くときはゆっくり。音で驚かせないこと〉
(音に敏い相手、か)
*
夕暮れ。館の庭は枯れ芝の匂い。門扉は少し傾き、石の犬の像には苔。
アリア、メルロ、リネ、そして見物半分の町人が十数名。
メルロは外套の襟を立て、杖で石段をとん、と鳴らした。
「まずは境界の結界を――」
「父さん、結界の粉、袋が破れてる」
リネが指さす。
メルロが慌てて袋を掴むと、粉が“ぱふっ”と顔に。
あっという間に白い賢者の誕生だ。
広がる笑い。
アリアはそっとリネの耳に囁いた。
「粉は外套の外で扱うと、主役の顔が台無しになる」
「覚えておきます」
玄関は重く、把手は冷たく、板は足の下で古い息を吐いた。
アリアが前に出る。「開ける。静かに」
彼女は手のひらで板の“重み”を受け、腕で引いた。金具が低く摩れ、音は布で包んだように小さい。
(この“音”なら、驚かさない)
入るとすぐに広いホール。天秤のような大きな燭台に、うっすらと灰。
メルロが得意げに火打ち石を鳴らす。「闇を払う――」
――ぶわっ。
天井から、なぜか鳥の羽根。
燭台に絡ませてあった布袋が割れ、半室内にふわふわと雪のように舞った。
続けざまに、壁の向こうからくすくす笑い。
三つ。三方向から。
「出たな、悪戯霊!」
メルロが杖を振り上げる。が、羽根が口に入ってむせた。
リネは肩で笑いを堪え、アリアは目を細める。
(音を嫌う相手が、音の出る仕掛けで迎え撃つはずがない。これは――)
――歓迎の、いたずら。
「前に進みましょう」
アリアが羽根を払い、階段に足をかけると、上からぽとり。
小さな袋が落ち、アリアの頭上で割れた。
中身は薄い小麦粉。
昨日の“粉ドーナツ事件”を思い出す一瞬。(やめてほしい)
「だから粉は顔に当たると笑いが起きるんだってば!」
リネが叫ぶが、遅い。
粉に続いて二袋目――今度は乾燥ハーブ。
薄荷とタイムが混ざった香りが一気に立ち、くしゃみが怒涛のように続いた。
「へ……へくしっ」「へっくしょい!」
メルロはすでに涙目。町人もつられて笑い涙。
階段の踊り場で、透明なものがちらりと動いた。
人影――というより、空気の濃さのような塊。
アリアはそちらを見て、拳をほどき、ただ開いた手のひらを上に向ける。
「……驚いていない。手は空だ。あなたの気配を、壊さない」
透明は揺れ、廊下の奥へすっと退いた。
*
二階の廊下は長く、壁には古い家族の肖像画。
一枚だけ、誰もいない椅子の絵があった。
メルロがそれを見て、過剰にうなずく。「椅子の怪――」
「父さん、言葉を作らないで」
進むごとに、音のいたずらが続く。
戸の隙間から笛の音。
床下からこつこつ。
天井裏からころころ(ビー玉?)。
アリアは立ち止まる。音に悪意がない。拍が軽い。
(遊んでいる)
「三つ、いる」
アリアは廊下の空気に話す。「笑いの拍が三種。高い笑い。低い笑い。真似をする笑い」
その瞬間、廊下の壁の額縁ががたがた……っと震え、**ばあ!**と飛び出す白い布。
町人の悲鳴。メルロの情けない声。リネの笑い。
布の下から、空気の塊が三つ、ふわりと顔を出した。
一つ目は細長く、口数が多そう。
二つ目は丸く、お腹から笑う。
三つ目はちょっと小さく、眉が下がって見える。
「ようこそ、ようこそ――」
声が、耳ではなく胸の奥で鳴った。
「びっくりした? したよね! したでしょ!」(細長いの)
「ははは! 粉は効く!」(丸いの)
「……ごめんね?」(眉さがり)
メルロは杖を構え、しかしアリアが手を上げて止めた。
「いたずらなら、受ける。ただし非致死・ほどほどで」
空気の三つは顔を見合わせ、声で笑った。
「“ほどほど”って言われた!」「ねぇほどほどってどれくらい」「……粉はやりすぎ?」
「粉は多いとくしゃみで涙が出るから、ほどほどに」
「気をつけまーす!」
リネが一歩前へ。
「ねぇ、白い窓のあの子は、あなたたちの仲間?」
三つはぴたりと笑いを止めた。
そして、声が少しだけ低くなる。
「仲間よ」「家族みたいなもの」「……とくに“わたし”は」
(眉さがりの声が、いちばんそばにいる)
「名前は?」
アリアが訊く。
三つは同時に首をかしげ――そっと、後ろを指した。廊下の突き当たり、白い窓。
*
白い窓の部屋は、空気が柔らかかった。
埃は少なく、床の上に絵の具のしみ。小さな机。小さな椅子。
窓の縁には、鈴がひとつ。紐は短く、触れば小さく鳴る。
アリアは部屋の真ん中で足を止め、音を吸った。
外の風の音。庭の梢のささやき。遠くの町のざわめき。――そして、窓辺にためらい。
ためらいは、足の形をしていない。形のない足が、窓枠にそっと乗る気配。
アリアは、窓辺を“見る”のではなく、その周りを見る。
部屋の隅の箱に、紙。
絵の具の色は薄い青。
描かれたのは、町の広場の屋台、井戸、笑う子ども。
線は震え気味だが、やさしい。
「こんにちは」
アリアは空気に向かって言った。「わたしはアリア。通りすがりで、粉まみれの経験者」
窓辺が、ふるっと震えた。
リネが微笑む。「私はリネ。ね、君――お名前、ある?」
沈黙。
鈴が、ほんの少しちりと鳴る。
声は、ひどく小さかった。
「……ないの」
三つのいたずら声が、同時に息を呑む気配をつくった。
「その話は……」「いまは……」「うん」
メルロは場の空気を読まずに張り切る。「そこでだ! 名を与えれば幽霊は――」
「父さんは見守る」
リネの一声で、メルロは鐘を押さえてうなだれた。
アリアは窓辺の机に歩み寄り、小さな紙を一枚取り上げた。
紙の端には、薄い鉛筆の跡――何度も練習したらしい丸い線。
「君は、何を見たい?」
問いは、“名付け”の前に置いた。名は願いの入れ物だから。
空気がすうっと窓を離れ、机の上で小さな渦になった。
渦は紙に触れ、鉛筆の先をわずかに動かす。
線が一つ、二つ。
やがて、かすかな文字が浮かんだ。
《まつり》
リネの目がきらっと光る。
「祭り! 町の祭りね? 屋台とか、踊りとか、光るやつ!」
「……みたい」
声は、窓辺で震えていた。「窓から、ずっと、見てた。こないだは、雨で……」
三つのいたずら声が、俄然張り切る。
「よーし! 出張祭り!」「屋台をここに!」「……ここで踊る?」
メルロが鼻を膨らませ、巻物を広げて儀式の段取りを披露しようとするが、リネが巻物を巻き戻す。
「父さんは、粉係」
「粉はやめよう!」
「砂糖粉なら良し」
アリアは机の上の鈴に目を落とし、小さく頷いた。
「祭りは音と匂いと光。その三つがあれば、ここは町になる。――ただし、驚かせない音で」
三つの空気が、それぞれ得意分野を宣言する。
細長いのは「光担当!」
丸いのは「匂い担当!(食べ物)」
眉さがりは「音、がんばる」
その拍で、廊下の向こうからどたばたと町人が駆け上がってきた。好奇心は速い。
「何か手伝うことは!」
「屋台、持ってくる!」
「踊り子の練習なら任せろ!」(誰だ)
アリアは両手を軽く上げ、受け皿の姿勢を作る。
「驚かせない、壊さない、ほどほどで。――そして、名前のない子に、名前以外のものを先に渡そう」
*
準備は、滑稽で、忙しくて、賑やかだった。
庭ではリネが近所のパン屋から借りた砂糖粉をひとふりし、メルロは「これは儀式の粉であって菓子では……」とぶつぶつ言いながらも嬉しそうに振る。
細長い空気は天井に反射板の役をする銀紙をふわふわ貼り、丸い空気は台所からシナモンと焼きリンゴの香りを盗む(ちゃんと返しなさい)。
眉さがりは窓の鈴をやわらかく結び直し、鳴りすぎない位置を探す。
町人たちは廊下の壁に矢印札を結い付け――「広場」「井戸」「詰所」と書かれた矢印は、いつの間にか「屋台」「踊り場」「拍手の位置」に書き換えられた。
アリアはその札を見て、ふっと笑う。
(星を矢印に。恐怖を生活に。――今回は、寂しさを祭りに)
日が落ち、庭の虫の声が濃くなる。
アリアは窓辺の机に小さな紙の提灯を置いた。
中に蛍石の欠片。手で包むと淡い光が生まれ、離すとおさまる。
「光は、目を痛くしないくらい。――君が眩しくないように」
空気がそっと提灯に触れる。
光が少し揺れ、窓辺が笑ったように見えた。
準備完了の合図は、鈴。
眉さがりが、ちりと、最小限で鳴らす。
庭から、かたことと木の板を叩く音。
矢印札の下で、町の人が踊りの輪をつくる。
焼いた果実の匂い。甘い砂糖粉の匂い。軽い笛の音。
館の二階の一室が、ほんの少しだけ外になった。
窓辺の空気が、ゆっくりと、机から離れた。
床に足音はない。
けれど、歩いているのがわかる。
窓まで、二歩。
三歩。
四歩で、立ち止まる。
吹き込む夜風が、ほんの少しだけ強くなる。
ちりん。
鈴が、嬉しさを控えめに鳴らした。
アリアは後ろからそっと外套を肩に掛けるように、空気の背中に言葉を置いた。
「ようこそ、祭りへ」
透明は、振り返らない。
かわりに、机の上の紙を一枚掴んで――といっても、掴むというより、風で持ち上げて――窓の外へひらり。
紙には、震えた丸い文字で一言。
《うれしい》
三つの空気が、廊下の角で涙ぐんだ気配を出す。
メルロは鼻をすすり、リネは笑いながら目元を拭く。
アリアは胸の前で手を重ね、拍を整えた。
たぶん、いちばん大事な拍だ。
――そのとき、館の奥できいと細い音。
静かにしていたはずの、閉めた戸の金具が、知らない拍で動いた。
庭の踊りの輪が一瞬だけ乱れ、空気が身じろぎする。
鈴が、今度は、合図の高さで鳴った。
「……誰か、入ってきた」
リネが顔色を変える。
三つの空気の笑いがぴたりと止み、眉さがりが窓辺に寄り添った。
アリアは外套の裾を整え、言った。
「後編は、静かに行こう。――驚かせないで、守る」
白い窓の向こう、庭の光が少し揺れた。
鈴が、返事をするように、もう一度だけ鳴った。
(後編「白い窓辺」― 名前の種と、さよならの拍 へ続く)




