五芒星事件 後編 — 静かな鈴の音
夜半の鐘楼は、板を冷たく鳴らした。
鐘は打たれていないのに、風でわずかに鳴る――そのくらい静かな夜だった。
広場の矢印札はすべて灯りの届く高さに付け直され、「家はこちら」「井戸はこちら」「詰所はこちら」が、夜の不安を細く案内する。
アリアは鐘楼の土台に背を預け、通りの呼吸を聴いていた。
左の路地は猫。右の路地は犬。屋根の上は、乾いた瓦を渡る誰かの足……ではない。今は風だけ。
階段を上がる足音は律動。レオネルだ。
彼は記録簿の頁を開いたまま、静かに合図した。
「夜警、二人一組で巡回。矢印の結び方は昨日のまま。鐘の綱は三本、うち一本は補助。――問題は、きのう屋根から星を描くのに使われた細紐だ。夜警の備品と同じ編み」
「悪ふざけは子ども。儀式の演出は大人」
アリアは短く返す。「昨夜の星の“角の癖”は、広場の六芒星を“修正”した手と同じ」
「つまり、“笑い”を“恐怖”へ乗っ取ったのは同一人物」
レオネルは頷き、鐘の綱を見上げた。結び目は端正だ。
「今夜は、紙で罠を仕掛ける。――いや、“罠”という表現は良くないな。“記録”だ」
鐘楼の四隅に白紙の札を細い針で留め、綱に触れた指先が残す煤や油を吸わせる。段差には細粉を薄く散らし、靴裏の特徴を拾う。鐘楼下には鈴。昨夜拾った血の鈴は別に保存し、今日は同型の鈴に煤をふわりと擦り付けておく。触れば煤が薄く付く。
アリアは紙の端に目を落とし、微笑の代わりに、うなずき一つ。
「見たものを紙に残す、の実演だな」
「ええ。論理は目に見えたほうが、町は安心する」
レオネルは息を整え、表の矢印札をもう一度見渡した。
「……昨夜、羊小屋の子に聞いた。四芒星を描いた二人は白状した。だが、“修正役”は知らないという。子どもは秘密を共有するが、恐怖は共有しない。だから、別の輪だ」
「夜警の輪、祭祀の輪、護符の輪……輪は、境目で重なる」
アリアの視線は広場の端――祈祷を司る神官の家へ滑り、そこから鐘楼下の詰所、さらに夜警頭の宿直部屋へ、静かに往復した。
「鈴は祈祷にも見回りにも使う。重なる道具を選んだのは、演出家だ」
「今夜、鈴の音を記録する」
レオネルは記録簿の欄外に、時刻を刻む細い目盛りを引いた。
「鐘は二打まで。合図以外は禁じる。――禁じられて、なお鳴る鈴があれば、それは“こちら”の鈴じゃない」
*
一刻ほど、町は静かだった。
矢印の下で母親が子を抱き直し、井戸の脇で老人が背を伸ばし、夜警は角で短く会釈してすれ違う。
アリアは鐘楼の陰に立ち、耳を閉じ、鼻を開く。
油。鉄。古い羊毛。紙の糊。――そして、香。
祈祷の香だ。いつもなら神官の家の中に籠もるが、今夜は外気に薄く流れ出している。
(祈祷の時間を延ばしている? ――違う。煙が出ていない。香の匂いだけがある)
アリアは鼻先で風を切り、レオネルに低く囁いた。
「香は、今夜は焚かれていない。匂いだけ、衣に残っている。――誰かが外を歩いた」
「神官本人なら、昨夜の騒ぎの後で出歩かない。出るのは補助か使いだ」
レオネルは記録簿の端に“補助/使い”の欄を作り、名前を書き入れた。
町長の口癖のおかげで、名前はいくつも覚えている。“サエル”“ブレガ”“ミル”。
(このうち、馬の足音を嫌うのは誰か。鐘の綱を握るのは誰か。紐の結びが上手いのは――)
ちりん。
鈴が一つ、薄く鳴った。
合図ではない高さ。鐘楼から五十歩。
レオネルは手で三つ数えて、記録簿に“×”。
「合図外。――位置、井戸の小路」
アリアは矢印札の影に滑り、井戸までの小路を紙芝居のように追った。
鈴の音は一度きり。
だが路地の砂に、指先でなぞったような細い線。紐を引きずった跡。
(屋根から、ではない。地面だ。――昨夜と手口を変えた)
「こちらだ」
アリアの靴先が止まったところに、白い粉の点。
星の予告。
点を中心に、細い線が五つの方向へ伸び――途中でやめた跡がある。
引き返した。誰かが。
(見られた? 風向きが変わった? ――あるいは、紙を気にした?)
レオネルは路地の角に貼った白紙を一枚剥がす。
そこには細い指跡が五本、黒く走っていた。
煤。鐘の綱の煤と一致。
「始点を作り、逃げた。紙を見ていたのかもしれない」
「紙に記録されるのを、嫌がった」
「なら、鐘楼へ戻る」
レオネルの声は静かだが、芯があった。
恐怖は、泳がせると増える。
今夜は、紙で“すくう”。
*
鐘楼の階段。
留めておいた紙の一枚に、指の腹の跡。
触れた指は、綱の下から上へ撫でている。素人は上から下へ握る。
(綱の扱いに慣れている)
二枚目の紙には、かすかな香。
三枚目の紙には、油。
四枚目の紙には、――文字。
走り書きが薄く移っていた。“十刻”“祈、二”“合図:二短”。
(鐘の合図を、事前に紙で段取りしている)
アリアは紙をレオネルに渡した。
レオネルは眼鏡を額に上げ、目を細くしたあと、目を見開いた。
「この“祈、二”の書き癖……。夜警副頭のサエルが詰所の伝達板に書く“祈祷二刻延長”の略だ。本人の筆跡と一致する」
「サエルは、祈祷にも顔が利く。輪が重なる場所にいる」
「だが、決めつけはしない。――紙で聞こう」
鐘楼の上。
サエルは、そこにいた。
灯りも持たず、背を風に向け、綱から半歩離れて立っていた。
月が出たり入ったりするたびに、その横顔の影が深くなる。
アリアは立ち位置を鐘の背に取った。レオネルは正面。
サエルは二人を見比べ、微かに笑った。
「騎士殿。治安官補殿。――今夜も、星は出ないほうが、町にはいい」
「では、鈴は鳴らないほうがいい」
レオネルの声は静かだ。「さっき、井戸の小路で鳴った。合図ではない。あなたの合図だ、サエル」
「合図?」
サエルは肩をすくめる。「犬が鳴いたのだろう」
アリアは鐘の台座に指を置き、木の震えを聴いた。
最近、誰かが綱の“結び替え”をした。音の伝わりが違う。
「夜警の綱の結びは、きのう変わった。あなたの“手”。――屋根から紐を垂らし、星を描いた手でもある」
「証拠がいるだろう」
サエルは理性的な口調で言い、指先で鐘の縁を二度叩いた。「ここで“悪魔”を見た者はいない。見たのは星と、鈴だけだ」
レオネルは白紙を差し出した。鐘の柱に貼っておいた一枚。
そこにはサエルの指の腹が、二度、同じ角度で移っていた。
「あなたは、綱を下から上へ撫で上げる癖がある。夜警の訓練で身に付いた**“揺れを殺す手”**だ。――屋根で紐を扱う“演出家”の手と一致する」
「癖で罪は問えない」
「紙は、癖を集める」
レオネルは二枚目、三枚目の紙を重ねた。香。油。
「香は、神官の補助の衣。油は、鐘楼の滑車油。――そして、これはあなたの走り書きだ」
彼は四枚目を掲げた。“祈、二”“合図:二短”。
「筆圧、払い、止め。詰所の伝達板で書いた文字と一致。あなたは、恐怖の“段取り”を紙に書く」
サエルの息が、半拍だけ乱れた。
静かな乱れ。
すぐに整う。
彼は首を傾げ、淡々と言った。
「たとえそうだとして、動機は?」
「動機は紙に出る」
今度はアリアが口を開いた。
「寄進の帳面。昨夜から今日にかけて、祈祷の寄進は三倍。夜警の加給の嘆願書も、今日付けで町長に上がっている。――恐怖に、役目を縛り付けた」
サエルは笑わなかった。笑ってはいけない時刻だった。
「町に予算がない。鐘を張り替える金も、靴を新調する金も。――恐怖は金になる。そして、秩序にもなる」
「秩序は、恐怖で作ると、壊れる時に大きい」
レオネルは一歩、前へ出た。「僕は論理でこの町を守りたい。だから紙に起こす。あなたの紙と、僕の紙で、町に見せる」
「公開の場で?」
サエルは皮肉に口角を上げた。「恐怖の演出家の顔を、みんなで見物か」
「顔じゃない。手を見る」
アリアはサエルの手首に視線を落とし、そっと言った。「あなたは綱を握る手を持っている。人を殴る手じゃない。――殴らないでほしい」
沈黙。
サエルは綱を見た。
一度だけ、指が動いた。
レオネルが紙を持った手を下げる。
「降りてください。紙で話しましょう」
「……悪魔はいない」
サエルはぽつりと言い、綱から手を外した。「いるのは都合だけだ。都合は、祈祷でも鐘でもなく、帳面にいる」
「帳面ごと、外に出す」
レオネルは頷いた。「町の真ん中へ」
*
広場。
夜の人だかりは、白い矢印の下で輪になった。
レオネルは鐘楼から持ち帰った紙束を卓に置き、公開の読み上げを宣言する。
「これは、夜警の合図の段取り。これは、祈祷延長の伝達。これは、寄進の帳面。そして、これは――恐怖で町を動かす提案書」
ざわめき。
提案書と呼ばれた紙には、丁寧な文字で“夜間の大祈祷”“防犯札の販売”“鐘の巡回強化”とあり、その横に小さな数字が並ぶ。
数字は、恐怖の影だ。
レオネルは声を落ち着けたまま、しかし一つずつ、読み上げる。
アリアは輪の外で、人々の肩の上下、息の深さ、視線の流れる向きを見ていた。
(怒りが出る前に、理解を出す。――紙は、受け皿)
「サエルは、町を守るために“段取り”を紙にした。方法を間違えた。恐怖を使った」
レオネルは言った。
「僕は、紙で返す。矢印を増やす。夜警は鐘に頼らず、歩く。寄進は祈りの箱へ集め、公開で数える。護符は無料で配り、裏に矢印を書く。――“恐怖の図形”を、“生活の図形”に置き換える」
静けさ。
町長が護符を正しい向きに持ち、神官がうなずき、羊飼いは羊を抑え(星を舐めに行こうとするからだ)、魚屋は腕を組んだ。
サエルは輪の中に一歩進み、鈴を卓に置いた。
「僕がやった。動物を殺した。――あれは、間違いだ」
言葉は短かった。
短いが、公開の場に落ちた。
アリアは輪の後ろで、息をひとつ吐いた。
怒りは、燃える。
だが今夜は、矢印がある。
怒りは、矢印に導かれて、祈り箱と寄進箱へ流れていった。
(怒鳴るよりも、入れるほうが、人は落ち着く)
レオネルは最後の紙を掲げた。
《覚書:夜間安全の段取り》
一、鐘は非常時のみ
二、合図は紙で回し、公開で掲示
三、護符は裏に地図を印刷(家→井戸→詰所→鐘楼)
四、夜警の綱の結びは記録し、勝手な変更を禁ず
五、星形の落書きは矢印に修正してから消す(子どもも協力)
六、鈴は帰り道の印に使う。紐は短く、視界の高さに
七、寄進は公開で数え、神官と夜警と町長と子ども代表で封をする
最後の行に、レオネルは自分の名を書き、町長、神官、夜警頭が続き、ためらいの末、サエルも小さく名前を書いた。
子どもの代表は、昨夜四芒星を描いた本人で、照れ笑いしながら震える字で自分の名を加えた。
アリアは、その震える字をしばらく見て、うんと小さく頷いた。
「鈴は、帰る合図に」
「星は、道しるべに」
言葉は短く、紙は白い。
白い紙は、夜に強い。
恐怖で黒く塗るより、白いほうが、人は歩きやすい。
*
夜がほどけ始めた。
矢印札が、朝の光を受け入れる。
レオネルは記録簿を閉じ、背伸びした。
「……眠い」
「紙は、人を眠くする」
アリアは微笑んだ。「夜を受け止めたからだ」
サエルは詰所に向かう前に、一度だけ振り返り、アリアに頭を下げた。
その手は、殴らなかった手だ。
レオネルは彼に短く言った。「処分はある。だが、仕事もある。――紙の掲示、手伝ってくれ」
サエルは頷いた。
鐘楼の綱に触れ、下から上へ撫で上げ――途中で、手を止めた。
「癖は、直す」
「記録すると、直る」
レオネルが笑った。
市場が動き出す。
串屋の親父が矢印札に油煙が付かないよう、鉄板を反対側へ向け、魚屋は「星は舐めない」と羊に説教し(無駄だ)、子どもたちは護符の裏に地図を描く係を奪い合った。
アリアは矢印の一枚を指で弾き、小さく鳴った鈴に、同じ高さで返事をする。
ちりん。
昨日の“恐怖の鈴”と違う。
今日は、“帰る鈴”。
「レオネル」
「はい」
「あなたの紙は、橋になる」
「アリアさんの目が、橋の支えだ」
二人は笑い、言葉をそれ以上重ねなかった。
第三者の距離は、言葉を少なくする。
少ない言葉は、朝の光のほうへ、よく伸びた。
アリアは外套を肩に、旅の拍に足を重ねる。
矢印が背中を見送り、鈴がひとつ、遠ざかる靴に合わせて鳴った。
彼女は振り返らない。
恐怖が図形から道に変わった時、旅人の仕事は終わる。
――紙は、風にひらひらと鳴り、町の真ん中で、夜明けを受け止めた。




