魔境国アリアンロッド・秘匿扉探索編 その10 影の策動
大連合軍の総幕舎。
金糸で縁取られた地図の上に、駒が散っていた。竜、槍、投石器、そして丸い黒い石——ゴーレム。
さきほどまで余裕の笑みを浮かべていた参謀たちは、今や声を潜めている。
「竜騎士団、再編成中。損耗は軽微だが、指揮の混乱が甚だしい」
「ゴーレム列、六体機能停止。うち三体は膝破損で自重崩落」
「……四つの影は依然未確認。魔力反応はない。名称不詳」
沈黙。
やがて参謀長グラーツ・ヴェルンハルトが眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに言った。
「——策を改める。数で押す前に、“見えないもの”に形を与えろ。名前がつけば、恐怖は半減する」
前線司令官カーステン・ローヴェが拳を握る。
「実戦で形を掴む、ということか」
「うむ。三段構えで行く。
一、城砕き(フォートブレイカー)を前面投入。大型個体だ。魔導士団は魂核の維持に専念。
二、竜騎士団は炎を封印、槍突撃に切り替え、視界を奪う煙幕で近接戦へ。
三、夜陰に紛れた特務隊を出す。影の正体を暴き、指揮所を狙え」
魔術顧問エリシア・ノルドが頷く。
「城砕きは二体。いずれも古式の術式で束ねます。維持には術者四名を専任させます」
「よし。——行け」
角笛が鳴り、幕舎の外で地が低く唸った。
城砕き。
それは歩く石山だった。肩は城門の楼と並び、腕は橋脚のように太い。足が落ちるたび、土の脈が震える。胸郭に埋め込まれた宝珠に、四名の術者が両手を翳して詠唱を繋ぐ。
同時に、竜騎士団が編隊を組み、炎を封じた翼で低空をすべる。騎士の腕には、黒い艶の槍——対甲冑用の貫通槍。
さらに地表では、黒装束の特務隊が煙のように散った。
「数は正義だ」
誰かが震える声で自らを励まし、合言葉のように繰り返した。
「数は正義だ。あれが何であれ、正面から叩き潰せる」
——だが、その夜の正義は、別の形で立っていた。
◇
崩れた土塁の縁。
ヨロネノーツの若い弓兵ロイは、火の粉を払う暇もなく弦を握り直す。
「……また来る」
地が鳴り、空気が重くなる。視界の端に、山のような影。城砕きだ。
その時、風が割れ、蒼が滑り込んだ。
「ヴァルフレア、前に出る」
——誰にも聞こえない声が、鋼の内に落ちる。健太だ。
蒼の機体は足下に光の足場を刻み、崩れた壁を駆け上がる。肩を落とす大兵の拳が振り下ろされる直前、健太は踏む。
光の床が、一瞬だけ空に生まれ、軌道が変わる。
巨拳が土塁を外し、空を薙いだ。
「ナイス。そこ、開ける」
紅が返す。雅彦。
インフェリオンの腰部から伸びた投射器が、細い光条を連ねて城砕きの肩関節を縫う。
熱膨張。
石の筋が軋み、内部の**楔**が音を立てる。
「肩、抜ける」
ぱきん。
巨体が半歩、たたらを踏んだ。
頭上から銀が落ち、すぐさま上がる。カイルだ。
タッチパネルに走る指。
光の糸が弧を描き、落下してきた瓦礫の軌道を横へ逸らす。
その背で黒い影——黒紫が、影から影へと渡る。リィナ。
城砕きの前列、詠唱に集中する魔導士の側頭から柄がしなる。
杖がはじけ、術式が一息だけ途切れる。
巨体の膝が、一寸落ちた。
「健太、右から竜の槍——くる!」
リィナの短い警告に、空が鳴く。
低空。炎の代わりに速度。槍の穂先が蒼のレンズに吸い込まれる角度で突っ込んでくる。
健太は機体を傾けた。
当たる直前、足首が光を踏み、半歩後ろへ落ちる。
槍の穂先がかすめ、肩装甲の端に火花が散る。
蒼が押し込まない。
代わりに、紅が押し返す。
斜めに張られた光帯が、竜の翼膜ギリギリを焼き、揚力を奪う。
騎士が傾き、銀が拾う。
落ちない。
殺さない。
「……何者だ、お前たちは」
ロイは呟き、しかし次の瞬間、弦を引いていた。
銀が作った静かな風の窓越しに、騎士の鞍金具を狙う。
放つ。
中る。
落ちる前に、黒紫の輪が床を作る。
——兵士が生きたまま地に届く未来。
戦場が、少しだけ人の形を取り戻す。
◇
敵の影も、動いていた。
ヨロネノーツの後背へ、黒装束の特務隊が這う。弓の死角、崩落した壁の陰、焦げた帆布の下。
「指揮所を視る。異形の影の来し方を視る。それだけでいい」
隊長が合図し、三人が散る。
その刹那、地面が止まった。
いや、止まったのは彼らの足だった。
黒い砂粒のような輪が、足首の周りで静かに回っている。
「罠?」
「術式は……ない。何だこれは」
返答のかわりに、影が立った。
リィナだ。黒紫の面甲が焔の反射で一瞬だけ紅に染まる。
剣は抜かない。
柄で病巣だけを叩く。
腕の内側、神経が走る線。
特務隊の手から短剣が落ちる。
もう一人が背に回ろうとして、床に滑らされた。
「……殺すな」
ひとこと。
誰に告げるでもなく、リィナは言う。
夜の倫理が、そこだけ違っていた。
◇
「城砕き一号、肩関節損傷。二号、核が熱暴走の兆候」
敵本陣がざわめく。
エリシアが蒼白になって首を振る。
「駄目です、核は——押し込めば暴れます。術者の命が持ちません」
「ならば前に出て押し潰せ!」
苛立つ将軍の怒号に、参謀長は低く返す。
「相手は“殺さない”。——だからといって、こちらが死ななくていいわけではない」
「撤くのか」
「負けないために、撤く。次に勝つためにな」
その時、伝令が駆け込んだ。
「竜騎士団より報。槍突撃は通らず、逆に翼を斬られる。騎士は拾われる」
「拾われる?」
「はい。生きています。……敵は、本当に殺しません」
幕舎が、奇妙に静かになった。
誰も、次の言葉を持っていなかった。
◇
戦場の端。
カイルの銀が、落下物の軌道を撫で、傷ついた兵を抱えて後列へ渡す。
「……生きている限り、まだ次の策が打てる」
彼の面甲の内、モニターに薄青い線が走る。
「ナイトシェイド、右下。三」
カイルが告げ、リィナが影へ溶ける。
リィナの視界に、黒装束の特務隊がこちらを見たまま、武器を捨てた姿が映る。
「投降?」
「……違う。判断しただけ。死んでも拾われるなら、生きて判断したいのよ」
自分の声が、意外に柔らかいことにリィナは気づいた。
夜の底で、価値がひとつ、入れ替わる。
健太の蒼は、城砕きの前へ。
「雅彦、核は避ける。関節で止める」
「了解。三秒、動きを縫う」
紅の細い光が、巨体の膝周りに点線を描く。
そこへ蒼が踏み込み、肘で押す。
巨体の重心がわずかに崩れ、膝が土へ座る。
山が、膝立ちになった。
ロイは、思わず笑ってしまう。
笑いが喉の奥でつかえ、涙の味が少し混ざる。
「いける。いけるぞ」
指揮官の怒号が、檄に変わる。
「押し返せ! 陣形を締めろ! 弓兵、鞍金具を狙え! 祈祷師、負傷者を後送——生かすんだ!」
◇
幕舎の高座。
グラーツ参謀長は、ゆっくりと杯を置いた。
「数で押す戦は、ここまでだ」
「では——」
「敵の名が要る」
周囲がざわめく。
「名?」
「名だ。名のないものは、兵を怯えさせる。名付けろ。あの四つの光に」
「……では、『魔境の亡霊』とでも」
鼻で笑い、首を振る。
「亡霊は拾わない。あれは拾う。ならば亡霊ではない」
沈黙。
やがて、若い文官が恐る恐る口を開いた。
「……“名もなき光”と、兵たちは呼んでいるそうです」
参謀長の片眉がわずかに上がる。
「皮肉だな。名を求めて“名もなき”か。——よし、それでいい。名もなき光。
名付けた以上、次は対処だ。殺さずに止めてくる相手に、こちらはどう立ち回る?」
返答は、まだなかった。
◇
石造りの回廊。
アリアは掌を開いたまま、熱を胸の奥に沈めていた。
セレスティアが横目で彼女を見る。
「——行く顔をしてる」
「うん」
短く。
エリオットが頷く。
「精鋭探索隊、動かすか」
「動かす。いまだ」
アリアは振り返り、仲間の顔を順に見た。
シルの耳がぴくりと立ち、フェルナの指先に小さな風が渦を巻く。ティアがにやりと笑い、セレスティアは真紅の瞳で夜を測る。
廊下の陰で、ネオンが瞳を灯した。
「——解析完了。戦場への最短経路、三案提示。人命救助優先ルート、推奨」
「助かる」
アリアが頷く。
「名もなき光が切り開いた道を、名乗って通る必要はない。ただ、間に合うだけでいい」
その夜、アリアンロッドの精鋭は、音もなく走り出した。
火の海に差す、もう一本の人の線として。
(つづく)




