五芒星事件 前編 — 町に星が落ちた夜
夜の匂いは、焚きしめたハーブと、雨上がりの土だった。
丘に抱かれた小町〈トルカ〉は、月の形に沿って湾曲した通りを持ち、家々の屋根は猫の背中みたいに丸い。アリアは石畳の縁を歩き、広場の屋台で温いスープを受け取った。香草の影が浮かび、湯気は白い線で空にほどける。
「出たぞ! また星だ!」
ひっくり返った桶みたいな声が、通りの先から転げてきた。
次いで、鍋をたたく音、犬の吠え声、誰かの祈り。
アリアはスープをひと口、受け皿のように胸で受け、音の流れと逆方向へ歩いた。
「下がってくださーい、踏むと証拠が――あ、踏んだ! 踏まないで!」
群衆の向こうで右往左往している男がいる。黒い短外套、泥を気にしない膝、片手に記録簿。顔は精悍で、しかし今は少し情けない。
「レオネルです! 地方治安官補のレオネル・サヴェリオ! はいそこ、チョークに触らない!」
足元の石畳には、白い線で大きな星――五芒星が描かれていた。角は丸く、線はところどころ二重、終端はなぜかハート形で飾られている。
アリアは星の端にしゃがむ。指でなぞらない。目で追う。
(線の太さが途中で変わる。チョークを二度継いだ……角の数を、最後に間違えた?)
「女騎士さま! 悪魔の印じゃ!」
町長が腹を揺らして現れ、首からぶら下げた護符を逆さに握りしめた。
「若い娘を差し出せと言う兆しだと、わしは聞いとる!」
「それ、逆さです」
アリアが指先で護符をくるり。町長は面目を取り戻したつもりで胸を張る。
「これは悪ふざけです」
レオネルが声を張る。「石粉の付き方、線の重なり、足跡――子どもか酔っ払い。悪魔じゃない。第一、これは五芒星じゃない、四芒星になってる」
「えっ」
アリアも町長も足元を見る。
確かに、線が一つ足りない。星は何だかやる気のない四角形に堕していた。
「しかも最後のハートは誰の趣味だ……」
レオネルは額を押さえ、記録簿に書く。「“偽星形(ハート付き)”。撤去予定」
「撤去って、どうするんです?」
アリアが問うと、レオネルは胸を張った。
「論理です。雨で消えます」
「天気は?」
「晴れです」
「論理負けしてますね」
レオネルはむっとし、それでも真面目に星の周囲を紐で囲い、人の足を遠ざけようと走り回る。
人々は「悪魔だ」「いや子どもだ」「いや悪魔の子どもだ」と好き勝手に囁き、犬は星の上でぐるぐる回って尻尾を追った。
やがて鐘が鳴り、町の夜警が交代の拍を打つ。レオネルはアリアに気づき、慌てて姿勢を正した。
「通りすがりの方、夜道はお気をつけて。僕はこう見えて忙――」
「その線、途中から石鹸の匂いがします。子どもか、洗濯場でこっそり石粉を混ぜた誰か」
「……嗅覚まで論理的だ」
アリアは肩をすくめ、スープを飲み干した。「良い夜を」
*
翌朝。
市場の端で、今度は羊小屋の扉に大きな五芒星。
ただし、六芒星になっている。
「昨夜から一晩で進化したな」と、レオネルは本気で感心していた。
「悪魔も数学を勉強するのだろう」
アリアが真顔で言うと、レオネルは真顔で頷きかけて、慌てて首を振った。
「違います。誰かが慌てて二重に――こら羊、舐めるな、それチョーク!」
羊はうっとりした顔で星を舐めている。
「塩味ですな」羊飼いの老女が誇らしげに言う。「わしの孫が秘密の配合でな」
「秘密を公言してはいけない」
アリアは星の角度を測った。線の始点に、小さな靴のつま先跡。
踵の潰れた子どもの靴。
(昨夜の四芒星と同じ“癖”。つまり、同一犯のいたずら)
「レオネル殿、夜警は何人で?」
「二人。交代で見回り、鐘で合図。……合図の鐘がやたら多かったのは、恐怖が増えると人は鐘を鳴らしたくなるからで、つまり鐘楼番の心理が――」
「論理やめて現場見ろって顔してますね?」
「少し」
二人で羊小屋の裏へ回る。
壁の低いところに、手の届く高さの白い粉跡。
足元には丸石。チョーク代わりに使われたようだ。
アリアは丸石を軽く転がして匂いを嗅ぎ、「洗濯場の石灰。昨夜の“星”と一致」と短く言った。
「なら、子どもに聞けば――」
「大人が大騒ぎの最中、子どもは黙っている。秘密を共有する遊びになるから。……ただ、昨夜の終わり頃、星の線が急に整った。そこだけ別の手」
レオネルが眉を寄せる。「別の手?」
「四芒星→六芒星へ“修正”した手。角の角度が均一。大人の手だ」
「悪ふざけが、大人に拾われた、か」
レオネルは記録簿に走り書きし、顔を上げた。
「町長が夕刻に“悪魔避け祈祷会”を開くらしい。……笑っちゃいけないが、笑う余裕はあったほうがいい。来ますか?」
「見るだけ」
*
夕刻の祈祷会は、祭りの準備と大差なかった。
広場の中央に立てた木柱に護符を結び付け、町長が胸を張って朗々と唱える。
「五芒星よ、退け! 六芒星よ、消え失せろ!」
(どっち)とアリアは内心で突っ込む。
レオネルは隣で肩を震わせ、しかし職務上笑いは飲み込む。
「論理的に言えば、星は描けば現れ、描かなければ現れない。以上」
ぼそぼそと言ったあと、彼は真顔に戻った。「……が、恐怖は論理で消えない。だから、可視化できる安心が要る」
「可視化できる安心?」
「ええ。例えば――夜の道の印。星じゃなく、矢印。『家はこちら』『井戸はこちら』。星を矢印に置き換える」
町長が聞きつけ、「いいじゃないかそれ! 矢印なら悪魔も迷う!」と得意満面。
(悪魔、方向音痴説)
アリアは苦笑しつつ、レオネルに視線だけで賛意を送った。
恐怖の図形を、生活の図形に置き換える――それは、昨夜から彼女が考えていた“橋渡し”と同じだ。
矢印の板が十枚ほど作られ、夜警と子どもたち――たぶん昨夜の犯人も混ざっている――がうれしそうに掲げて走った。
人々の顔色が、少し柔らぐ。
「いい流れです」
レオネルが小さく息を吐く。「このまま“矢印の夜”にして、星を消してしまえば――」
鐘が二度、間を置いて一度。
夜警の緊急合図。
広場の空気が一瞬で凍り、ざわざわが波になった。
「裏道に、本物が出た!」
叫び声。
矢印を持った子どもが二人、顔面蒼白で駆けてくる。
アリアはスープ碗を屋台に返し、レオネルと目が合った。
彼は頷き、走る。
*
裏道は家と家の背中の隙間で、漂う水の匂いが冷たい。
矢印は、確かに丁寧に角に結わえてある。
その先、袋小路の突き当たりに――五芒星。
今度は、線が細く鋭い。粉ではなく、血の色。
「動物だ。小さい」
アリアが言う。星の中心に、白い羽毛。
「鶏……」
「誰かが、儀式を演出した」
レオネルの声は低い。「昨夜までは悪ふざけ。今夜、切り替わった」
星の周囲には、足跡がない。雨は降っていない。
代わりに、壁の上方に擦過痕。
(高い位置から、吊った)
レオネルも同じ結論に達したようで、壁の上端を指さす。「屋根から紐で降ろして描いた。足跡を残さないため」
彼は記録簿の端に素早くスケッチを走らせ、ふと顔を上げる。
「誰かが、子どもの悪ふざけを“本物”に乗っ取った。恐怖の演出家だ」
アリアは星の角を数え、線の始点と終点を目で追い、最後の“跳ね”の癖に舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。
(昨夜、六芒星に“修正”した手と同じ。角の角度の癖が一致)
「レオネル。大人の手、間違いない」
「町の誰かだ」
レオネルは群衆を振り返る。町長、祈祷の神官、羊飼い、魚屋、夜警、チョークを舐めていた羊(なぜ来た)。
誰かの呼吸が一瞬だけ乱れ、すぐに整う。
(いま、心当たりを隠した息)
「ここからは、笑いは、少し置いていこう」
アリアの言葉に、レオネルは真顔で頷いた。
「はい。論理で追う。……でも、人の恐怖に耳も貸す」
人々はざわめき、祈祷の言葉が小さく流れる。
そのとき――袋小路の奥、屋根際で、小さなきらめきが跳ねた。
月光を受けた、金属の薄い輪。鈴。
アリアは視線だけで合図し、レオネルが梯子を持ってこさせる。
屋根に上ると、そこには細い紐と、血のついた小さな鈴。
紐は、夜警の持ち物と同じ編み。
レオネルの目が暗くなる。「……内部の紐」
「夜警の誰か、あるいは、その家族」
アリアは鈴を布に包み、レオネルの記録簿に乗せた。
彼は小さく頷き、群衆に向き直る。
声は落ち着いていたが、低く響いた。
「皆さん。さっきまでの“星騒ぎ”は、笑い話にできました。今は違います。――誰かが、恐怖で町を動かそうとしている」
町長がうろたえる。「悪魔ではないのか」
「悪魔は、人の手を使うと記録にはあります」
レオネルは静かに続ける。「僕は騎士ではない。剣も振らない。でも、紙と観察で必ず追い詰める。
そして、矢印は続けてください。今夜、子どもは外に出さない。鐘は必要なときだけ。祈りたい人は祈っていい。ただし星は描かない」
アリアは一歩下がり、群衆の後ろに立った。
第三者の位置。
そこから見えるものがある。
町の拍、呼吸の乱れ、目の動き、肩の上がり。
(いる。ここにいる。演出家)
広場の向こうで、風向きが変わった。
薄い雲が月を隠し、鈴が一つ、どこかで鳴った。
ちりん。
昨夜の子どもたちの遊びに混ざっていた“本物”の音が、今夜は最初から、“本物”の側にいる。
「前編は――ここまでだな」
レオネルが小さく言い、記録簿を閉じた。
「アリアさん。あなたが“見る人”でいてくれて助かる。次は、見たものを紙に残す番です」
「紙は、恐怖の受け皿になる」
二人は短く頷き合い、鐘楼へ向かった。
鐘の下に、夜警が集まる。そこから紐の端が伸びている。
紐の結び目は、慣れた手のものだった。
――星は、笑いで消える。
だが、恐怖で描かれた星は、笑いでは消えない。
消すのは、人の手と、紙と、見ている目だ。
月は雲から再び顔を出し、袋小路の星を薄く照らした。
線は乾き、血は暗く、鈴は小さく揺れる。
次の夜は、もっと静かに。
そして、もっと深く――。
(後編「静かな鈴の音」へ続く)




