魔境国アリアンロッド・秘匿扉探索編 その8 迫る戦火
夜は、はじめから燃えていた。
黒い丘陵の向こうから、無数の松明と火鉢の線が蛇のようにうねり、地平を染める。鎧の擦れる音、槍の石突きが土を打つ音、角笛。四十万の鬨の声は、風や木々のざわめきよりも大きく、夜気を押し潰して押し寄せてくる。
ヨロネノーツの前衛陣、土塁と半石壁で継ぎはぎに固めた線の中で、若い兵が矢羽根を震わせた。
名はロイ。生まれはサンマリノと国境を接する小村。母は病弱で、弟はまだ小さい。
「……来るぞ」
隊長の低い声が、縄で巻いた胸甲の上から骨に染みた。
最初に夜空を切ったのは風だった。
ひゅう、と高く細い笛のような音。そのすぐ上で、影が折り重なる。
「——竜だ」
誰かが呟いた声は、風にさらわれた。
翼竜の編隊が月光をかすめ、腹下に吊られた鋼球が鈍く光る。次の瞬間、落ちる。
火が咲いた。
赤い花弁が地面から逆さに開き、土塁を舐める。乾いた草、弓の弦、旗、声、目——何もかもが火の舌で撫でられて、湿った悲鳴を上げて崩れる。
「伏せろ! 水を——水だ!」
叫んだ隊長の背にも火球の欠片が当たり、革鎧が弾けた。水甕を傾けた兵の手が震え、滴った水が土の上で白い蒸気に変わる。
それでも兵たちは矢を番え、狙う。
せめて一騎でも、と祈りに近い焦点で。
しかし、月を背にした翼は遠すぎ、速すぎた。矢は夜の幕に吸われ、木立の向こうで乾いた音を立てるだけ。
「当たれ……頼む……」
ロイの矢羽根に、火が映った。弓を引く腕が重い。息が詰まり、心臓が喉に詰まる。
隣の古参がぼそりと言った。
「目の前だけ見ろ。空を見るな。空を見ると、心が落ちる」
空が恐怖を撒いている間に、地が怒った。
地面が歩いて来る。
土砂を押し出したような塊が、肩を揺らしながら行軍する。
「……ゴーレム……!」
誰かが言葉を押し出した。
丸太のような腕。岩盤が砕ける音を足元に響かせながら、巨躯は整った列を崩さず進む。三十。ひとつひとつが門に見えた。
矢が刺さらない。槍が滑る。
「投石器準備——投石器!」
後列の兵器班が石弩を引き絞り、石塊を放つ。
当たる。
岩に岩がぶつかる音。
だが倒れない。欠けた角を噛みしめるように、ゴーレムはさらに距離を詰める。
「退くな! 退いたら——」
隊長の声が、火の音に吸われていく。
ロイの足は土に縫い付けられ、腰が抜けそうになっているのを意志だけで立て直す。
「ここを抜かれたら、町が、家が、弟が……」
言葉にすると涙になる。だから彼は言わない。矢をもう一本掴み、指の腹の皮が剝けているのにも気づかない。
竜の息が、今度は横殴りに来た。
火が走る。
人の悲鳴で夜が歪む。
盾を構えた兵が、盾ごと焼け落ちる。
祈祷師が詠唱を重ね、火除けの膜を張ろうと声を張り上げるが、熱風で喉が破れたように声が途切れる。
「聴け! 聖歌を——」
歌は、火に飲まれた。
ゴーレムの最前列が土塁に触れる。
拳が下がる。
土が悲鳴を上げた。
石を積み上げ、木杭で補強した壁が、紙のように歪む。
「楔を——楔を打て! 崩落を止めろ!」
命令に動こうとした若い兵の肩が、誰かの腕で引かれた。
「行くな!」
叫んだその声は、殆ど泣き声だった。
行けば死ぬ。わかっている。わかっているのに、足は前へ出ようとする。
(母さん……)
心の中でしか呼べない名を呼ぶ。小さな手で握った弟の指の感触を思い出す。
「守る」
ロイは、声の出ない声で言った。
高台の指揮所で、旗手が旗を握りしめる手を血でにじませていた。
「持ち堪えろ! 今はまだ退くな!」
指揮官の声は枯れている。目は赤い。
彼は見ている。四十万の波の中に飲み込まれていく自軍の細い線を。
矢の雨は竜を落とせない。
槍の壁はゴーレムを止められない。
魔導士の護りは、火の量に追いつかない。
「……せめて日が昇るまで。夜明けまで持ち堪えれば」
彼の言葉は、願いだった。命令ではない。兵たちもそれを知っていた。
ロイの耳元で、誰かが祈る声がした。
「聖女よ、どうか——」
祈りの名が、火の音に押し流される。
ロイは歯を食いしばり、弓を引く。肩が軋む。
ゴーレムの肩に矢が当たる。はじける。
次の瞬間、土塁が——落ちた。
大地がずれ、視界が傾く。
ロイは転げ落ち、土と血の味で口がいっぱいになる。
目の高さに、土の足があった。
首だけで見上げると、ゴーレムの腹は、夜の壁よりも高かった。
「——母さん」
言葉が自然に出た。
刹那、空気が震えた。
遠くから来る音があった。
角笛でも、竜の翼でも、石の悲鳴でもない。
切り裂く音。
空を掴んで裂くような、刃物のような音。
それが夜と闇をまとめて引っ掻き、光が一筋、落ちた。
ロイの視界に、青白い刃がきらめいた。
次の瞬間、ゴーレムの肩が消えた。
消えた肩から胸へ、胸から腰へ、光が走る。
岩が裂ける音。
巨体が、一拍遅れて崩れた。
ロイの頬に、細かい砂が当たる。
「……え」
声が出なかった。
ただ、目の前の現実が形を変えたことは、理解できた。
空に、四つの影がいた。
蒼、紅、銀、黒紫。
それは竜ではなかった。翼も、鱗も、牙もない。
——人が、入っている。
ロイの脳裏は、言葉を選べずにいた。
鎧? 甲冑? いや、動きが違う。
神話にしかいないものが、そこにいた。
蒼が、刃を返す。
紅が、光を束ねる。
銀が、風を切り、
黒紫が、夜の縁を滑る。
「な、何だ……何だあれは!」
高台の指揮所で、参謀の一人が思わず叫ぶ。
誰も答えられない。名前がない。
見たことがない。
ただ、味方に向けられていないことだけが、初撃でわかった。
空の高みで、翼竜が身をよじった。
竜騎士団長は、自分の胸甲の紋章を軽く叩き、部下に合図を送ろうとして——目を見開いた。
蒼の機体が、消えた。
いや、消えたのではない。速度が視界の限界を越えた。
次の瞬間、竜騎士の前に、蒼が現れた。
細い線が、空にひとつ。
遅れて、竜の翼の付け根から、切断面が開いた。
「——っ!」
叫ぶ間もなく、竜は傾き、火球は地を焼かず空に散った。
騎士が落ちる。手綱が空を掴む。落ちた影に、黒紫が滑り込み、見えない壁のようなものがふっと立ちあがる。
「減衝……?」
誰かの口が、理解の外で動く。
落下した騎士は、骨を砕かれずに地に転がった。
敵に救われた。
その事実だけが、風に溶けた。
紅が、地上に向いた。
ゴーレムの列が、紅の目に映る。
紅は狙いをつけた。
光が細く絞られ、音が遅れて届く。
石が熱で割れる音。
胸の中心、関節部、核があるであろう部分に、点の連なりが正確に並ぶ。
一本の糸で縫い目をほどくように、紅は光を渡す。
ぱきん、と短い音。
三体が同時に膝を落とした。
「……嘘だろ」
ロイの口から、自然とこぼれた。
嘘であってほしい、と願っているのではない。
世界が新しい嘘で書き換わっているのを、目で見ているだけだ。
銀が、風を切る音を置いていく。
竜の編隊の背後をとり、翼と翼の間へ、切っ先ではなく手を差し入れた。
手?
いや、手に見えた。
指のような五本の線の先から、糸のような光が伸び、竜の鞍の固定具だけを――切った。
騎士が落ちる。
竜は上昇する。
銀が落下物に触れ、ふわり、と空気の塊を生む。
落ちた騎士は、地に置かれた。
目を見開いている。命がある。
ロイはその男がこちらを見たのを見た。
敵と味方が、同時に混乱していた。
黒紫は、夜の縁に沿って滑った。
炎の明滅に溶け、陰に入り、現れる。
ゴーレムの真横、魔導士団の列の前に現れた時、初めてそれが「剣」を持っているとロイは分かった。
剣——という言葉にしては細すぎる。光そのものの輪郭。
黒紫の機体が柄に触れると、光は短くなった。
次の瞬間、彼は——柄で魔導士の杖を弾いた。
杖が飛ぶ。唱えかけた詠唱が途切れる。
黒紫は、殺さない。
それは戦場で、いちばん信じがたい選択だった。
「な、何者だ、貴様らは!」
魔導士のひとりが叫ぶ。
黒紫は答えない。
代わりに、腰のあたりから光の輪が四つ、砂粒のように跳び出した。
輪は、舞った。
魔導士の足元に浮かび、足首を縛る。
倒れた。
起き上がろうとして、輪が床になっていることに気づく。
床は滑らない。
滑らない床の上では、人は走れない。
黒紫は、そのまま踵を返した。
蒼と紅が、互いの背中を預けたように位置を変える。
銀が射線を開け、黒紫が見えない糸で穴を塞ぐ。
四つの影は、ひとつの意志で動いていた。
ヨロネノーツの兵士たちには、彼らが何者か分からない。
ただ、夜が味方になったと、全員が同時に感じた。
「——立て!」
高台の指揮官の声が、風を切って兵士の骨に届く。
彼は見ている。
火の雨の中に、雨宿りの庇が割り込んだ瞬間を。
「今だ。今だけは持ち堪えられる!」
声に、涙が混じる。
悲鳴ではない。望みの涙だ。
ロイは、砂を吐き捨て、弓を拾った。
視界の端で、蒼が竜を切り抜け、紅が石を解体し、銀が受け止め、黒紫が奪わない。
「……神様」
誰かが言った。
いや、違う。
神ではない。
味方だ。
敵の指揮所。
豪奢なマントを肩に掛けた将は、酒杯を落としたまま動けずにいた。
「今のは……何だ……?」
参謀は答えられない。
「魔導か?」
「いいえ——魔力の揺らぎが、ない」
魔術顧問の女性の声は震えていた。
「動いているのに、魔力の流れを感じません。古代の禁忌兵装? ……いいえ、それとも……」
言葉が続かない。
彼女は初めて、名前のないものに出会った。
竜騎士団長は、空で歯を食いしばった。
「全騎、上昇! ——上昇だ!」
彼は部下を逃がす。
それは勇気ではなく、戦場の掟だった。
「相手を知らない時は、まず生き残れ」
彼の師が、昔、焚き火の前で言った言葉。
初めて、その言葉が重みを持って胸に落ちた。
地上では、ゴーレムの列が乱れ始める。
維持の詠唱が乱れ、肩が崩れ、足がもつれる。
紅の射線は、核を避けて肩と膝を奪っている。動けなくなった巨体は、進路を塞ぐ壁になった。
蒼は、その壁の上を走る。
空中に足場があるのか、とロイは目を疑った。
蒼は足の裏で、光を踏んでいた。
光は剣にも床にもなった。
誰かの倫理が、誰かの術理が、誰かの未来が、夜の上に線を描いていた。
「ヴァルフレア、前に出る」
耳の奥で、声がした。
誰の耳にも届かない言葉。
蒼の内部で、少年の声が落ち着いていた。
——健太。
「了解、インフェリオン、投射制御、合わせる」
紅の中で、若者の声が短く応じる。
——雅彦。
「シルバレイン、背面カバー。落下物拾う」
銀の内で、青年の声が淡々とタッチパネルを叩く。
——カイル。
「ナイトシェイド、攪乱優先。殺さないで止める」
黒紫の中で、女性の声が冷静に配分を変える。
——リィナ。
四つの声は、戦場の誰にも聞こえない。
けれども、結果は誰の目にも見える。
ロイは、膝の震えが止まっていることに気づいた。
火はまだある。叫びもある。
けれど、夜の形が変わった。
彼は弓を構えた。
狙うのは、まだ低く飛ぶ竜の鞍。
銀が投げた光の糸が解いているその瞬間を、彼は狙った。
矢は、そこなら通る。
飛んだ。
当たった。
騎士が、落ちる瞬間、銀が拾った。
ロイは、笑った。
涙が、笑いと一緒に頬を走った。
高台の指揮官が、胸甲を叩く。
「——立て! 今は立て! 我らはまだ終わっていない!」
その声に、兵たちが応じる。
火に焼かれ、煙に咳き込み、土に膝を取られながら。
「押し返せる!」
誰かが叫んだ。
「押し返せるぞ!」
それは誇張でも虚勢でもなかった。
戦場の最初の嘘が剥がれ、最初の真が顔を出しただけだった。
敵の陣幕の奥、金糸で縁取られた地図の前で、参謀長が冷や汗を背に流していた。
「……数では潰せるはずだ」
唇はそう言う。
目は数が意味をなくしていく現場を見ている。
「竜騎士を再編——いや、待て、ゴーレムを下げろ。魔導士は護りに回れ。まず相手を見極める」
彼の声に、周囲の将がざわめく。
「引くのか!?」
「ここまで出した牙を引っ込めるのか!」
「愚か者、死ぬよりは引け」
魔術顧問の女が、初めて参謀長に賛同した。
「相手の名前が分かるまでは、負けないことを選ぶべきです」
夜風が、ほんの少し涼しくなった。
ロイは頭上を見上げる。
蒼が、彼の真上で止まった。
風が止まり、火が揺らぎ、音が瞬きする。
蒼は、ほんの一瞬だけ、ロイに顔を向けた——ようにロイは感じた。
顔など無い。
が、見られた気がした。
生きろ、と言われた気がした。
「……ああ」
ロイは頷いた。
知らない誰かに、頷いた。
知らない誰かが、頷き返した気がした。
蒼は、また消えた。
戦場の形が変わり続ける。
紅が、熱の道を引き、銀が、落下線を縫い、黒紫が、奪わずに止める。
ヨロネノーツの兵は、守る戦から、押し返す戦へと、足の形を変え始めた。
矢は、竜の鞍を狙い、槍は、ゴーレムの足を絡め、祈祷師は、人の傷に手を当てる。
「まだだ、まだいける」
誰かが呟き、誰かが繰り返す。
戦場の言葉が、変わる。
——旗を上げない影が、夜に線を引いた。
名乗らない四つの光が、嘲りと慢心の上に、現実という重みを落とした。
この日の夜、四十万の軍勢は初めて立ち止まる。
数の圧で押し潰すだけの戦ではないと、思い知らされる。
魔境など地図の染みだと笑った将も、竜騎士の勝利を疑わなかった者も、名前のない敵を口にする。
「——何者だ」
答えは、まだ要らない。
必要なのは今だ。
ロイは、弓を再び構える。
火はまだある。叫びもある。
けれど、夜の向こうに、戻る朝の色がほんの少し滲んだ。
***
遠く離れた石の渡り廊下。
ガラス越しに夜空を見下ろしながら、アリアは手すりを握らない。開いた掌で、胸の中の鼓動を受け止める。
「……やってくれている」
ため息とも、感嘆ともつかない声。
隣でセレスティアが、真紅の瞳を細める。
「綺麗ね。折れない線は、見ていて気持ちがいいわ」
アリアは頷いた。
「彼らが道をつくる。私たちは——」
「守るべき人に、間に合うよう走るだけ」
ふたりの視線の先で、四つの影が夜を裁つ。
旗は上げない。名乗りもしない。
けれど、誰かの胸の中に名にならない名が刻まれていく。
(つづく)




