魔境アリアンロッド・第21階層編第1話:眠りの温室(ねむりのオルシア)――ガラス越しの眼差し
ルーンブルグの名が街に馴染み始めたころ。
境界石は四方に立ち、茶屋の湯気は夜をやさしく温めている。アリアは門標を見上げ、短く頷いた。
「——行こう。21階層。『温室』と呼ばれた区画へ」
見送りに出たシャルルは、地図板をハルトに預けながら言う。
「罠は“踏むより先に読む”。戻る計画を先に決めてから降りるんだ」
ハルトはまっすぐ頷いた。「はい。記録はぼくが」
バロスは工具箱をガチャガチャいわせ、「お土産があったら忘れず持ち帰ってくれよ!」と笑う。
ドッグは短く敬礼。「門は任せろ」
今回の隊は——
アリア、シル、フェルナ(ハイエルフ)、オリビエ、ヨハネス、エリオット(霊体の以蔵を伴う)、ティア、セレスティア、そしてトット。
ルーンは名付けの反動がまだ残るため、門上から手を振る。「気をつけて。……**“最初に戻る道”**を忘れないで」
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1.降下——音と影を読む足取り
階層を重ねるごとに空気は冷え、壁の光苔は白から青へとわずかに色を変える。
第16層で名付けを交わしたリカルゾとダロッゾの足跡がまだ新しく残っており、巡回路の修復痕が頼もしい。
第17層の「音の回廊」では、フェルナが音の反響で通路の分岐を測り、シルが靴裏の砂の感触で安全を選ぶ。
第18層——風の逆流。ティアが甘い香草で仲間の呼吸を整え、セレスティアが影で風のすじを可視化する。
第19層の水路はアリアの指示で板を並べ、渡る前に“一=準備/二=持ち上げ/三=固定”の短い合図。
第20層——影の兵の残滓。エリオットは黒い霧を手のひらで撫で、「今日は眠っていなさい」と短く祈る。以蔵の声が胸もとから低く囁く。
『……あの手には、斬らぬ術が要る。よう見極めちょるの』
そして——21層の扉が姿をあらわす。
石ではない。透明な板が重ね合わさったような扉。内部でわずかに光が循環し、温室のようなぬくもりを閉じ込めている。
「鍵は……脈だ」
エリオットが手袋を外し、掌を円盤へ。微かな鼓動に呼応して扉がすうと開いた。
「生命をもつ者にだけ開く仕組み。まだ生きている“誰か”のための出入口だ」
2.温室——琥珀の眠り
中は静かだった。
薄い霧。蔓のように這う透明管。脇の棚には、古い記録板や形の違うガラスの器。奥に——一本の大きな筒。
琥珀色の液体に、白衣の青年が浮かんでいる。髪はわずかに銀を帯び、皮膚は透けるように白い。目を閉じ、胸はとてもゆっくり上下していた。
「生きてるのか?」シルが小声で。
エリオットが頷く。「眠らせられている。——何百年も」
ヨハネスは無言で周囲を一周し、危険の匂いがないことを確かめると、剣の柄に手を置いたまま静かに退く。
オリビエは装置の脚に視線を落とす。「支えは健在だが、補助の液は減っている。長くはもたんだろう」
「起こせる?」アリア。
「……できる。ただし、こちらも覚悟がいる。目覚めは乱れるかもしれない」
「やろう。——“一、二、三”で」
アリアの短い合図。フェルナが回路に清水を合わせ、ティアが香草で空気を和らげる。セレスティアは光を落として眩しさを抑え、トットは非常用の止め具を確認、シルは逃げ道を開けておく。
エリオットが栓を回し、琥珀の液がとくとくと落ちる。
青年の体がゆっくり沈み、ぱちり——瞼が上がる。
薄い金の瞳。水の膜を通して、こちらをまっすぐ見た。
呼吸が戻るまでの数拍、誰も武器に触れなかった。
まず、アリアが右手を見せる——空の手。攻撃意思がない合図。
青年は微かに頷いた。止め具が外れ、ざばあと水が床へ流れ落ちる。
「——ここは、どこだ」
初めての声はかすれていたが、はっきりとした言葉だった。
トットが耳を傾ける。「古い言葉だが、分かる。“ここは21階層、温室。外はルーンブルグの地”」
青年は口の中で繰り返す。「ルーン……ブルグ……。聞いたことはない。どれほど眠っていた?」
エリオットが目を細める。「少なくとも、数百年。記録が正しければ**千**の位だ」
青年は目を伏せ、胸に手を当てた。「胸が、静かすぎる。……私の名は——」
そこで言葉が途切れる。
「思い出せないのか」
「名は“帯”に縫い付けておいたはずが……帯がない」
シルが肩をすくめる。「いきなり名付けは酷だよ。呼び名は保留。体を温めよう」
ティアが外套をかけ、セレスティアが灯を柔らげる。フェルナは温水で濡れた器具を洗い流す。
アリアは穏やかに告げた。「焦らなくていい。今はここ。息ができることから始めよう」
3.古い記録板——“避難庫”の設計者
乾いた喉に水を流し込むと、青年はゆっくり語り始めた。
「ここは“オルシア”。——避難庫だ。地上が荒れ、人の形を保つための場所。私は……管理者だったと思う。器具を持つ手の感覚がそう言っている」
エリオットが記録板を拾い上げ、指でなぞる。「この刻みは保守手順。循環液の調整、栄養の配合、起床の安全順序……合理的だ」
ヨハネスが壁の凹部に視線を止める。「そこ、扉」
「見えるのか、ヨハネス」
彼は短く。「……“線”がある」
アリアが手で触れると、微かな切れ目が確かにあった。青年が頷く。
「保守庫。工具と、記憶の箱がある。開けるには、二つの脈が要る。——生きた者の今の脈と、ここに眠っていた脈」
アリアと青年が左右に手を置く。エリオットが短く数える。
「一。二。——三」
コトリ。石が退く音。暗がりの向こうに、ひんやりした空気が流れた。
4.保守庫——オートマタの眠り
中は長い廊下と小部屋の連なり。
ひとつめの部屋には、手のひら大の補助機がいくつも並び、二つめには腕だけ、三つめには足だけ——部品と工具。
四つめの部屋を開けたとき、空気が変わった。
人の背丈ほどの枠が、布を被って整然と並んでいる。十体、いや、十二。端の二つは崩れていたが、真ん中の四つは形を保っている。
バロスが見たら涎ものだろう、とアリアは苦笑する。
エリオットは慎重に布をめくり、枠の肩口に触れた。「補助人形。護衛ではなく、作業の手だ。——殴るより、支えるための形」
青年が続ける。「“力を預ける背骨”。人の筋の延長として設計した。骨を傷めず、手順を守らせるために」
「これ、動く?」シルの瞳が子どものように輝く。
「一体なら」青年は迷いなく言い、工具に手を伸ばした。「起動の“声”は弱っている。——合図が要る。一=準備、二=持ち上げ、三=固定。君たちのやり方に合わせる」
アリアが笑う。「なら、うちのやり方でいこう」
5.最初の目覚め——作業用オートマタ
フェルナが回路へ清水を流し、エリオットが古い魔法式を“今の言葉”に置き換える。ティアは香草で気持ちを落ち着かせ、セレスティアは灯の角度を絞る。
アリアの短い声。「一(準備)」
トットが配線を繋ぎ、ヨハネスが重心を支えやすい位置へ枠を移動。
「二(持ち上げ)」
アリアとオリビエが肩を受け、青年が起動装置に触れる。
「三(固定)」
コッ……コッ……
枠の内部で、心臓の代わりの鼓動が光として短く点る。
——カシン
関節が一度だけ、正しく噛み合った音。
「やった……!」シルが思わず小さく跳ねる。
青年は頷き、枠の胸に手を置いた。「動く。ただし“押す仕事”に限れ。殴るために作っていない」
「押す、支える、持ち上げる。——街の仕事だ」アリアは速やかに言葉を繋げる。「境界石の二基目に肩が要る。茶屋の大釜にも背骨が要る」
以蔵の声が胸の奥で笑った。
『剣にばかり頼らん世は、ちと面白いの……』
6.記憶の箱——“彼”の手が覚えていること
保守庫の最奥、小さな箱があった。
青年は迷いなく鍵の位置を探り、二つの脈でそれを開ける。
中には薄い板が幾枚も。刻まれているのは、街の整備の手順——
•荷を運ぶ板の角度一覧
•水路の落差を測る簡単な歌
•**“二指=刻み二つ”**の単位統一
•赤→黄→青の旗の使い方
•合図は三つ、言葉は短く
アリアは思わず笑ってしまった。
「……同じだ」
「あなたたちの“今”と、私の“昔”は、同じ場所を見ているのかもしれない」
青年は板を胸に抱え、深く息をした。「私が失った“名前”は、ここにある。やり方として」
セレスティアが月のない天井を見上げ、静かに言う。
「名は後でいい。まずは息を整えよう」
ティアがうなずく。「“ルーンブルグ”は、続けられるやり方を歓迎する街だよ」
7.帰り支度——そして、扉の向こう
部品を必要な分だけまとめ、記録板を巻物に変え、作業用オートマタ一体は担架に固定する。
アリアが最後に保守庫を振り返ると、奥の壁にもう一つの切れ目が走っているのに気づいた。
「……まだ、ある」
青年は目を細めた。「守りの間。私ひとりでは開けられない。“三つの脈”が要る。——街の脈が」
「じゃあ今は開かない」アリアは即断する。「急がない。街が、息をそろえたら来よう」
ヨハネスが静かに剣を傾け、オリビエは背を押す。「戻るぞ」
エリオットが起動したばかりの枠の肩に手を置き、「——ようこそ、ルーンブルグへ」と穏やかに告げた。
青年はわずかに微笑む。その笑いは、眠りの残り火をおさめるように小さく、けれど温かかった。
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8.地上の月——名の夜明けに間に合うように
戻り路でも“短い合図”は変わらない。
一=準備/二=持ち上げ/三=固定。
押す力は面で受け、危うさは横へ逃がし、迷えば赤から黄へ、そして青へ。
新しい“背骨”が、静かに荷を助ける。
シルは枠の歩幅に合わせ、フェルナは水の音で天井の滴を読む。セレスティアは灯の角度を変え、ティアは香草で呼吸を整える。
エリオットは時折ふり返り、青年の歩みを確かめた。彼はまだ名を持たないが、足取りは確かだ。
地上へ出ると、門上には大きな新しい板が立てかけられていた。
夜通し起きていたらしいバロスが、目の下に隈を作って得意げに胸を張る。
「見てみい! ルーンブルグだ!」
彫りたての文字が白い月に照らされ、柔らかく光る。
トットが隣でひょいと跳ね、「仮決定だがな!」と肩をすくめる。
ドッグの黄旗が青へ落ち、門は穏やかに開いた。
「ただいま」
アリアが言うと、広場の灯が一斉に揺れて応えた。
誰かが小声で尋ねる。「新しい人?」
アリアは頷く。「古い街の管理者。——名前は、これから」
青年は門標の板を見上げた。
月の光が「ルーンブルグ」の輪を白く縁取る。
その白の下で、彼はおだやかに息をついた。
「……いい名前だ。輪が残る」
アリアは横で笑う。「ようこそ。輪の街へ」
——そのとき、遠くの鐘がひとつ鳴った。
保守庫の最奥、まだ開かれていない扉の向こうで、誰かの気配がわずかに反応したのだ。
それは脅威の音ではない。呼び声だ。
やがて“街の脈”がそろった夜、あの扉は開く。
だが今は——
「まずは湯と、シチューだね」
ティアが目を細め、甘い香りの束をくゆらせる。
「そして“合図”。声を休ませる湯気を、もう一つ」
ルーンブルグの夜風が、新しい仲間の頬を撫でた。
名を持たぬ“彼”の歩みは、月と同じ速さで——静かに、しかし確かに街へ溶けていった。
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次回予告
第21階層編 第2話:記憶の糸、背骨の街——オートマタ整備と“声の工房”
白衣の青年が語る古い手順は、ルーンブルグの“今”と驚くほど噛み合う。
バロスとボリス、エリオットが手を組み、作業用オートマタの再整備に着手。
“押す・支える・持ち上げる”——街の背骨が増えるほど、暮らしの手は軽くなる。
その一方で、保守庫の最奥に眠る「守りの間」は三つの脈を求めている。
街の脈=輪の息をどう結ぶ? そして——彼の“名”は、どの言葉に宿るのか。




