魔境アリアンロッド・建国前夜編 月下の語らい――ルーンブルグの名
月が大きかった。
境界石の棒影はもう役目を終え、白い光のなかに溶けていた。広場の焚火はまだ赤く、歌の名残が風にちいさく流れていく。人々はそれぞれの家へ戻り、門の上では交代の見張りが小声でやり取りをしている。夜は静かだったが、どこか弾んでいた。四本の石が立った夜は、街全体が深い呼吸を覚えたみたいだ。
アリアは門標の板――今は「ルーン」とだけ刻まれた木の看板――を見上げ、それから川べりへと歩いた。月明かりが水面の波を薄く撫でる。彼女はいつものように、夜の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。剣の柄に触れるでも、鎧を鳴らすでもなく、ただ、ここが“帰る場所”だと確かめるように。
背後で足音が止まった。振り向くより先に、やわらかな気配がそっと隣へくる。
「……起きて大丈夫?」
「うん。まだ頭が少し重いけど、歩くくらいなら」
ルーンだった。名付けの負担で数日は寝込み、ようやく今夜、短い時間だけ外へ出る許しが出たばかりだ。月の白が頬を薄く照らす。髪に編んだ細い紐飾りが、川の風でほそく揺れた。
「境界石、立ったんだね」
「うん。みんなで。“三つの合図”が効いたよ。短く言って、短く動く。――倒れないやり方」
ルーンはふっと笑った。「ピピの歌、耳から離れないや。いーち、にー、さん、って」
「わたしもだよ。あの子の声は道具になる。剣や盾と同じくらい、頼もしい」
二人はしばらく黙って月を見ていた。遠くでドッグたち夜の巡回が通り過ぎ、青い旗が静かに振られる。門の外の細道から帰ってくる影は、狼獣人のグレイだろうか。夜の街はもう、“ひとつの輪”の息づかいを持っていた。
「……ルーン」
「うん?」
アリアは視線を川から彼女へ移し、まっすぐに言った。
「みんなで決めた。――この街の名を、『ルーン』に」
ルーンの肩が小さく跳ねた。
「……どうして、私の名前を?」
「“君だから”だよ」
アリアは淡々と続ける。感情を煽らず、でも一言ずつに重さをのせて。
「サキュバスの子たちが刃を向けた夜、君は『殺さないで』と先に言った。リカルゾとダロッゾの角と爪を、最初に“仲間の手”に変えたのは君だ。トットの古い傷に触れたとき、君は痛みを見つけて、それを“返し”にしなかった。……君はいつも、前に出た誰かの矢印を、輪の真ん中へ連れ戻してくれる」
ルーンは黙って聞いていた。夜の水音が、アリアの言葉の間を埋める。
「これからこの地に人が増えて、やがて忘れる人も出てくる。――でも、**“ルーン”**という名は残る。『ここは繋ぐ場所だ』って、名そのものが言ってくれる。だから借りたい。君の名前を、街の名に」
ルーンの睫毛が、月の光を受けて小さく震えた。
「……私なんか、まだ未熟だよ。驚かれるのは慣れてるけど、敬われるのは苦手で」
「未熟でいい。未熟だから、助けたいと思える。誰かが手を伸ばせる」
言葉が落ち着いたところで、くすり、と気配が割り込む。影が二つ、月明かりの縁から現れた。
「ふふ。月下での告白は、見ているこっちが照れるね」
「……邪魔をしたなら謝る。けれど、今の話は聞き逃せない」
セレスティアとティアだった。セレスティアは光を吸うような黒衣の裾を揺らし、ティアは薄い笑みで頬杖をついている。いつも通り、夜の二人は空気を変えるのがうまい。
「セレ、ティア。盗み聞きは趣味が悪いよ」
「“見守り”と言ってほしいわ」ティアが肩を竦める。「それで――街の名が**『ルーン』**? やるじゃない、うちの看板娘」
「看板娘はやめて……」ルーンが慌てて首を振る。
セレスティアは少し遠い目をして、月を仰いだ。
「……彼女は、力で従わせる真祖でも、艶で縛る魔でもない。けれど、人は彼女を中心に集まる。それは“恐れ”ではなく、“信”に似たものだ。私の種から見ても、稀有だよ」
「そうそう」ティアが指先で月をなぞる。「あたしたちみたいな“夜”の者でさえ、ふと頼っちゃうんだもの。**『最後には彼女のところに戻ればいい』**って、身体が覚えてる。うん、これは人望ってやつね」
ルーンは何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。セレスティアが横目で笑う。
「謙遜は要らない。名は重さではなく、方向だ。君の名がこの街の標になるなら、私も夜の門を護ろう」
「じゃ、私は昼に茶屋を増やして、甘い香りで人を落ち着かせる係ね」ティアが胸に手を当ててウィンクする。「それで、名前は**『ルーン』のまま? ――ふふ、“ルーンブルグ”**なんてどうかしら」
風が一度止まり、月光が四人をまとめて照らした。
アリアは一拍置いて、口の中で転がしてみる。
「ルーンブルグ」
ルーンが続ける。「るーん、ぶるぐ」
セレスティアが静かに。「……響きがいい。**“輪の城”にも聞こえる」
ティアが笑う。「そう、“輪の街”**でもある」
門の上で、交代の兵が小声で復唱した。「……ルーンブルグ」
巡回のドッグが気づいて首を傾げる。「何だそれは――新しい合言葉か?」
「街の名の候補だよ」アリアが手を振った。ドッグは目を細め、歯を見せて笑う。
「悪くない。口に出すと息がそろう。……ルーンブルグ」
川向こうの家々でも、眠れぬ者たちが窓から顔を出し、そっと真似してみる。「ルーンブルグ」。ピピがどこかで小さく歌に混ぜた。「いーち、にー、さん――ルーンブルグ!」
名は、そうして輪の外まで転がっていく。誰に強いられたわけでもなく、ただ“言いやすいから”。“気持ちが合うから”。
アリアは、うなずいた。
「決まりだね。明日の輪の席で提案して、門標の板を彫り直そう。バロス、起こさずにいられるかな」
「起きてるわよ、あの人は」ティアが肩をすくめる。「鍋の面倒を見ながら、次の鍋のこと考えてる人でしょ」
「彫るのは明日でいい」セレスティアが言った。「今夜は名を受け入れる時間だ。焦って刻むより、皆の口に馴染ませるほうが早い」
ルーンは両手を胸の前で組み、ゆっくり言葉を選んだ。
「……私の名前が、この街の名前になるのなら。私が背負うんじゃない。みんなで持つ。――そういう意味で、受け取るよ」
アリアは静かに微笑み、彼女の肩に手を置いた。
「ありがとう。君の“繋ぐ”は、いつだって軽やかで強い。名は私たちのものだ。倒れそうになったら、赤を上げる。――それでいい」
「うん」
ルーンの目に、ほんの少し光が滲んだ。それは涙にも見えたが、月明かりのせいかもしれない。彼女は袖でそっと目元を押さえ、気を取り直すように笑った。
「じゃあ、最初の仕事は……看板の書き換え?」
「それはバロスの楽しみだろうね」アリアが肩を揺らす。「私たちは“声の整備”を続けよう。合図役の喉を休める茶屋をもう一つ、門の手前に。昼は青い旗、夜は香草。――ルーンブルグの“息”を整える」
「“息”は街の剣だものね」セレスティアが頷く。「刃は最後。息が先」
「そして甘い香りはいつでも正義」ティアがにっこり。「任せて」
四人で川べりから戻る。途中、境界石のひとつが月光にきらりと白い面を返した。棒影は夜の真ん中にすっと伸び、足元の草紐が輪を描く。昼の合図は眠っているが、やり方は生きている。三つの短い声で持ち上げ、三つ目で固定する――その手順が、もう街のあちこちに根を張っていた。
広場に入ると、夜の茶屋がまだ薄く湯気を立てていた。ティアが店主に合図し、甘い香草の束を一房増やす。セレスティアは見張り台に短い手紙を置いた。「名の候補:ルーンブルグ。口に出して歩くこと」。ドッグがそれを受け取り、巡回路の端々で試す。「ルーンブルグ。――ルーンブルグ」
輪の席が開かれる前から、名は街の内側を巡り始める。決めるより先に、馴染む。それがここらしい。
やがて広場の端で、顔を赤くしたバロスが工具箱を抱えて走ってきた。
「おいおい、聞こえたぞ! ルーンブルグだってな! 板は明日でいいが、試し彫りくらいさせろ!」
「今夜は寝て」アリアが笑って手を出す。「明日は長い。門の板だけじゃない。市場の端に相場札をひとつ足して、合図役の休憩所をもうひとつ。――“名の夜明け”は忙しいよ」
「くう、たまらんのう!」バロスは頭をがしがし掻いて、それでも嬉しそうに踵を返した。「じゃあ明け方に起きる!」
ルーンはその後ろ姿を見送り、ぽつりと言う。
「みんな、楽しそうだね」
「うん」アリアが応じる。「名前は宴だ。呼ぶたびに、輪が広がる」
門標の板の下に立つ。アリアは最後にもう一度、確かめるように口にした。
「――ルーンブルグ」
ルーンがうなずき、同じ言葉を重ねる。
「ルーンブルグ」
その響きは、月に届くほど派手ではない。けれど、胸の奥にきちんと座る重さがあった。今日立てた四本の石と同じ、倒れない重さだ。
セレスティアがふっと笑む。「いい夜だ」
ティアが肩越しに手を振る。「じゃ、私は甘い香りの見回り。――おやすみ、ルーンブルグ」
四人はそこで別れた。アリアは門の見張りと短い言葉を交わし、ルーンは夜の茶屋に寄って温かい湯をひと口。セレスティアは屋根の影に溶け、ティアは香草の匂いの道へ消える。
月が雲の縁を淡く染める。
静かな夜は、ゆっくりと新しい名に慣れていく。
そして街は、またひとつ“やり方”を覚える――三つの合図で、明日をまっすぐ立てるというやり方を。




