砦、さらに地獄と化す(主に私が)
翌朝。
市場は昨日より賑やかで、粉砂糖のかかった揚げパンがやたら売れていた。どうやら“粉の女騎士”の噂が瞬く間に広がったらしい。串屋の親父に「今日は粉なしで」と言っても、笑われるだけだった。
「アリア姉ちゃん!」
駆けて来たケイが、胸をどんと叩く。「今日は味方用の“通り道”、ちゃんと作った。札もある。だから――」
「ありがたいが、昨日の蜂蜜は二度と使うな」
「さすがにね!」
二人で路地の廃屋へ向かう。昨夜、見回りに引き渡した三人組は拘束中だが、頭がもう一人いる、と鼻の男が白状した。どうやらそいつが“紙の罠”の黒幕で、回収しきれなかった書き付けを今日取りに来る――という段取りだったらしい。
廃屋の前。ケイが胸を張る。
「見て! “味方入口”!」
昨日の板戸の脇に、細い人ひとりが通れる抜け道が新設され、上にはぎこちない字の板札。確かに“味方入口”。手を伸ばすと、札が小さく揺れ、どこかで鈴が鳴った。
「判定は?」
「札の下をくぐると、鈴が“ちりん”。僕が“よし”って言った人だけ、次の仕掛けが止まる」
「では最初に通って“止めて”くれ」
「もちろん!」
ケイがするりと潜る。鈴。続いて壁裏から“ガちっ”と木の爪が引っ込む音。
なるほど、昨日の糸の大半が“受け止め”の位置で固定される設計だ。
アリアも身をかがめてくぐる。鈴。何も落ちてこない。
――勝った。
そう思った瞬間、梁の上ですさまじい音が走った。
「がららららららら――」
(いやな音だ)
天井から、直径手首ほどの丸太が“ぶわんっ”と弧を描いて飛び出した。昨日の梁を横断する形で吊られていて、今まさにこちらの腰の高さを――
「低い!」
ケイの叫びと同時に、アリアは反射で床に沈んだ。
丸太が背中の上を“ごおおおん”と掠め、後方の壁に“どかぁん”。石灰が降り注ぐ。
反動で丸太が戻ってくる。次は顔の高さ。
「伏せて!」
二回目は床に頬をつける。風圧で髪が持っていかれた。
三回目、丸太は疲れた振り子のように小さくなり、やがて止まった。
……沈黙。
砂が、ぽつりぽつりと床に落ちる音だけ。
ケイが青ざめて手を合わせる。
「ごめんッ! それ“味方止め”の回路に繋ぐの忘れてた!!」
「それは最重要だろう」
「でも見て! 狙いは完璧でしょ! 昨日の悪い大人なら、お腹と顔に二連ヒット!」
「完璧に悪い」
アリアが起き上がると、廃屋の奥から靴音。
細い影が二つ。昨日の三人とは違う。黒い外套、低い声。
一人は細身に長靴、もう一人は片耳に銀輪。どちらも、歩き方が“動ける者”。
「なるほど、“味方入口”ねぇ」銀輪が笑う。「子どものお城だ」
「お城は攻め落とすより、見学が先だ」長靴が首をかしげる。「噂の女騎士殿、昨日は粉菓子になったとか」
「続報、今日は丸太に轢かれかけた」
「噂の更新が早い」
軽口の間に、彼らは室内の仕掛けを観察していた。目線の運びが素直でない。つまり、何かを探している。書き付け、金庫。
アリアはケイに囁いた。
「“味方止め”は今度こそ全部入っているな?」
「入ってる。……はず」
「“はず”が怖い」
長靴が靴底で豆を押し、「昨日の教訓、活かせ」とでも言うように足運びに無駄がない。銀輪は天井からぶら下がった鈴を見上げ、ふと笑って――その鈴を親指で“ちょん”。
“ちりん”
その音が合図だったかのように、廃屋中のどこかで“コトン”。
アリアの首筋に、嫌な”時限”の気配が走る。
「来るぞ」
言うより早く、床板が“ぐにゃ”と沈み、左右が持ち上がる。
逆さシーソー。上手い。中央がへこみ、両端が上がる。乗っていた者はおのずと中央に滑る。中央には――ぬるぬるが塗ってある。
「石鹸水!」ケイが叫ぶ。
アリアは滑る足を壁に当て、摩擦で止める。長靴はつるりといき、見事に中央へ。銀輪も同じく中央。
次の瞬間、天井の梁から“くるり”と洗濯物ロープが落ちてきて、二人の肩の下を“すぱっ”と通り、巻き上げに入った。
「おっと」
軽い。こいつら、体幹がある。ロープを肩で止め、逆に巻き付けて跳ねようとする――が、床の滑りが邪魔をして宙吊りでくるん、と。
「芸術点は高い」
アリアはロープの端を踏んで、彼らの回転を止めた。
銀輪が逆さまのまま笑う。「非致死だな。助かるよ」
「助けるとは言ってない」
「痛くはする?」
「少しは」
「止めます止めます!」ケイが慌てて“味方止め”の札を叩く。壁裏で“ガチャン”。ロープの滑車が止まり、二人は床に“どさっ”。
「いまの二つ、止まってなかったのだが」
「鈴を鳴らすと別系統が起動するんだ……敵が手を出した合図だから」
「汎用性が高すぎる」
銀輪が身体を起こし、埃を払う。
「少年、君は腕がいい。だが脅しには飽きた。目的の紙を出せ」
「出さない」ケイは背筋を伸ばす。「父ちゃんの家だ」
長靴が吐息で笑い、「なら少し本気を」と腰に手を伸ばした。
――短いナイフ。刃渡りは小さいが、室内距離だと十分に脅威。
アリアは一歩、間に入る。
「刃はしまえ。これは子どもの砦だ」
「だから何だ。子どもに刃を向ける気はない。邪魔な女騎士なら、刃の背で十分だ」
言葉の冷たさより、足の向きが嫌だった。逃げ道を切る足。
アリアは壁の“味方入口”札を軽く叩く。「ケイ、仕掛けの“橋”を貸せ」
「“橋”? ――あ、通り道!」
ケイが紐を引くと、部屋の隅の本棚が“ぎぃ”と動き、床に細い板が“スッ”と伸びた。まるで仮設の飛び石。
「ここを踏めば、上の鉛の重しが“受け止め”位置で止まる。そこ以外踏むと、泥」
「泥?」
「外の樽から引いたやつ。昨日の粉と逆!」
長靴がにやりと笑う。
「教えてくれてありがとう」
最短コースで板を避けて踏み出した瞬間――
彼の足の下から、床板が“ぱかっ”。
(落とし床)
長靴の片足が“すぽっ”と落ち、膝まで泥。
「おや」
もう片方の足が踏んだのは薄い板、そこで“べきっ”。
長靴の両足が泥に“ずぶっ”。
「……設計が上手い」
銀輪が肩を竦め、「なら私は板の上を――」
板の上に乗った銀輪の頭上で、“くいっ”。
梁の上の木枠から、なぜか“魚の内臓”が落ちてきた。
(昨日の魚屋由来か)
どろり。
銀輪、「オーケー待ってこれは想定外だ」
匂い。強烈。
内臓が肩、胸、そして床へ。床には薄い灰が撒かれていて、それが内臓の汁と触れて、見事な粘着コンディションを生成。
「ケイ」
「“泥だけだと滑るから粘着も欲しいな”って……魚屋のおばちゃんが協力してくれて」
「協力者が多彩」
アリアは長靴の肩を軽く押し、泥の縁に肘をかけさせる。沈み過ぎるのは良くない。怪我の危険が上がる。
銀輪はさすがに戦意が削がれ、ナイフを床に“ころり”。
「降参……はしないが、少し話そう」
「話しながら足を洗え」
アリアがバケツを持ち、泥の濃度を“逃がす”。泥の重さを受け止めて薄めて返す。
そのとき、廃屋の表で笛。昨日の見回りより短い、合図用の高音。
銀輪が目を細める。「頭か」
「来たな」
入口の板が“どん”と外から叩かれ、陽の輪郭を背負った影が差し込む。
背が高く、歩幅が長く、軽い。
額には古傷。片手に棒――いや、杖。
だが杖の握り方が“人を払う棒”のそれ。
入ってきた男は、一瞬で室内の全てを見た。粉の跡、丸太の振り幅、泥の深さ、アリアとケイの立ち位置。
「騎士殿。粉菓子の二日目は“どろんこプリン”か」
「言い草が悪い」
「褒めたつもりだがね」
男は杖の先で銀輪を指す。「こいつらはただの手。紙を出せ。金庫を壊す前に済ませてやる」
「脅しの順番を間違えるな」アリアは言う。「子どもの前で“壊す”は禁句だ」
男は肩をすくめ、杖を床に“こん”。
その杖の響きが、壁のどこかに届く。
(こいつ、位置を測ってる)
続く二打、三打。響きで空洞と梁を確かめた。壊しどころを探す音。
アリアは一足分、前へ。“橋”の板の上を踏み、鉛の重しの“止め”を一段固める。
男は口の端で笑い、「頭を冷やすだけだ」と――杖の先を、床の“味方入口”側に向けた。
「おいケイ、鈴はどれだ」
「教えるわけない!」
「だよな」
次の瞬間、男は露骨に“最悪の一歩”を踏んだ。
昨日、アリアが外しておいた――はずの――蜂蜜ゾーンの手前。
(無いはず――)
と思ったら、床の節の隙間から薄い飴色が“ぬっ”。
ケイが青ざめる。「昨夜、予備を流し込んだ……忘れてた」
「最重要だと言った」
杖の一歩は蜂蜜に“ぺと”。
男は足裏の吸い付きを“すっ”と剥がす。剥がし方が上手い。だが、その剥離で対角の糸が“ぴん”。
天井の角から、昨日の羽根の最後の一袋が“ばさぁ”。
「…………」
羽根は男の肩と頭にふわりと積もった。
顔だけが無表情で、白い羽根の冠を載せている。
外の光の中で見ると、神々しくさえある。
「頭、似合ってます!」銀輪が言ってしまった。
「黙れ」
男は羽根を払わず、アリアに向いた。
「ここで剣は抜かせんよ。子どもの家だ」
「抜く気はない」
「なら、勝負は足だ」
男は“橋”の板を正確に踏み、非味方ゾーンの泥を避け、丸太の死角を抜け、見事にアリアの間合いへ。
速い。
杖の先がくるりと回り、手首を払う打ち。
アリアは手首を“受け皿”に置く。押さえず、流す。
二合、三合。
男の目が“遊べる”目から“測る”目に変わる。
「騎士殿、“壊さない”のは尊いが――」
杖が床を“こん”。
反響。
「仕掛けは壊しておけ」
その一言と同時に、壁の裏で“ぴしっ”。
(何かが切れた――)
丸太が、静かに、しかし確実に“戻された位置”から外れた。
一周目より低い軌道。狙いは――アリアの腰。そして、その後ろにある“味方入口”の板。
(板が折れたら、裏の棚が倒れて――ケイの避難路が塞がる)
アリアは一歩、前へ出た。
丸太の弧の中心へ、自分の腰を差し出す形。
受ければ、吹っ飛ぶ。
だが、丸太の中心には“空白”がある。結び目だ。
そこに、“通り道”を作る。
「ケイ、伏せろ!」
丸太が来る。
アリアは地面に片手をつき、身体を丸め、結び目の“輪”に背中を滑り込ませた。
“ごぉん”
背骨に鈍い衝撃。肺から風が抜ける。
だが、丸太はアリアの背で一瞬“死に”、板の手前で力を失った。
板は無事。
ケイも無事。
代わりに、アリアの意識の端が“しゅわ”と白くなる。
「いってぇぇぇぇぇ……」
「騎士殿!」
男の目がわずかに見開く。
すぐに戻る。
「立てるか」
「立つ」
膝が笑う。笑わせない。
アリアは歯を食いしばり、丸太のロープを“片結び”で柱に固定した。もう振れない。
男はわずかに顎を引いた。
「なるほど、“通り道”だ。力の真ん中に細く道を通した」
「壊さずに済むなら、そうする」
「だが――」
男は杖の石突きを、床の角に“コツ”。
薄板が跳ね、隠れていた“金属爪”が姿を現した。床から斜めに突き上げる、靴底破壊用。
「子どもの家でこれを仕込む連中の相手に、遠慮は要らん」
アリアは呼吸を整え、男と向き合う。
背中は火が付いたみたいに熱い。
だが、ケイが後ろで“味方入口”の札を握りしめている気配がある。
(なら、わたしの仕事は一つだけ)
「ケイ」
「うん」
「“味方”の定義を、今決めろ。悪い大人でも、降参したら味方に変える。降参しないなら敵。――札を動かすのは君だ」
ケイが大きく頷き、札を持った手を掲げる。
銀輪が手を上げた。「降参。魚は臭い」
長靴も泥の中で肩を竦める。「降参。泥は冷たい」
ケイが鈴を鳴らす。
“ちりん”
壁のどこかで“がちゃん”。爪が引っ込み、床が平らに戻る。
男は目だけで二人を横目に見、「情けは二度までだ」と吐き、杖を構え直す。
「頭、あんたも降参しなよ」ケイが言う。「味方になったら、たぶん、うちの母ちゃん、豆スープくれる」
男は笑った。
「魅力的だが、今は豆より紙だ」
再び交錯。
杖の円、手の角。
アリアは壊さず、男は壊しにかかる。
床の“橋”を守り、板の“通り道”をずらし直し、重しを“受け止め”に寄せる。
格闘というより、家の声を聴きながらの綱引きだった。
三合、五合、十合――
男の呼吸が熱を帯び、アリアの背の痛みは熱を越えて“鈍さ”に変わる。
「――終いだ」
男が低く言い、杖を逆手にして石突きで床を突く。
床の下で“ぱちん”。
金庫の隠し爪が外れた音。
(やばい)
同時に、外から笛。昨日より多い、複数の足。
見回りの増援。
男の口元がわずかに歪む。「間が悪い」
「良い間だ」
アリアは男の杖に指を置き、流し、床の“橋”に自分の体を預けて回転――男の手首の内側に“軽く”当てる。
「っ」
握りがわずかにほどけ、杖が床に落ちる。
男は拾わない。拾えるが、拾わない。目で笑って、背後の“味方入口”とは別の小さな窓へ――
「ケイ!」
「はい!」
ケイがロープを引く。
小窓の外で“ぱんっ”。
洗濯物ロープが弾け、男の身体が“くるっ”。
羽根が舞う。
その瞬間、見回りの頭が板戸を蹴破って飛び込み、手勢が“ざっ”。
男は一瞬で状況を測り、面白そうに肩を竦めた。
「今日はここまでだ」
窓の外へ、羽根を残して飛び降りる。着地の音は軽い。
追おうとする見回りを、アリアは首を振って止めた。
「足場が悪い。怪我をする」
見回り頭が頷き、銀輪と長靴を後ろ手に繋ぐ。
「粉の人、いやアリア殿。背中が――」
「今は大丈夫だ。あとで泣く」
「後で泣くのは名台詞だな」
ケイが駆け寄り、アリアの腰に腕を回す。
「ごめん……僕の丸太……」
「良い丸太だ。次は“味方止め”に必ず繋げ」
「わかった」
見回り頭が金庫を見て、「こいつは役所で預かる。父君が来たら立ち会いだ。……それと、少年の家の仕掛けは、危なすぎるものだけ撤去だ。豆はいい」
「豆は平和だ」
銀輪が小声で「魚は撤去しよう」と付け足し、長靴が「魚屋の許可は取ってあるか」と真顔で言い、見回りに「ないだろ」と一括された。
アリアは丸太のロープを解いて“支え木”にし、梁にくくり直した。もう勝手に振れない。
「通り道には橋、重みには支え。――家は壊さず守る」
ケイが頷く。「魔法みたいだね」
「ただの下地仕事だ」
外に出ると、市場は昼の拍。
粉砂糖の揚げパンが、やっぱりよく売れている。
串屋の親父が、こっそり紙袋を突き出した。
「背中に効くやつ。生姜砂糖だ」
「恩に着る」
ケイが“味方入口”の札を撫でる。
鈴が“ちりん”。
音は昨日より澄んで、廃屋が少しだけ“家”に戻った気がした。
「明日も来る?」
「来る。紙の後始末と、君の仕掛けの“整理”が残っている」
「やった!」
ケイが跳ね、屋根から取り忘れの羽根が一枚、今日も律儀にアリアの頭上に“ふわ”。
アリアはそれを指でつまみ、ケイの耳の後ろに挟んでやった。
「今日は君に王冠だ」
「……へへ」
笑い声。
背中が痛む。痛みの上から、笑いが薄く塗られる。
それで、今日は充分だ。
(了/次話「三 紙の罠は紙で返す(後始末と小さな王冠)」)




