粉まみれの女騎士、路地に散る
市場の昼下がりは、果物の甘い匂いと、焼き串の脂の音でできている。
アリアは串を一本、もぐ、と噛み、焼き目の塩を舌で転がしながら、石畳の向こうに走る影を見た。
小さな少年――麦色の髪、頬に泥、肩に小さな鞄。
そのあとを、でっぷりした大男と、鼻の長い痩せ男、まん丸の眼鏡をかけた口うるさい女の三人が、ずどどど、と追っていく。
「おーい、坊主! 母ちゃんが呼んでるぜぇ!」(でっぷり)
「逃げ足が速いねぇ、君ぃ。君のためなんだよ、ねぇ?」(鼻)
「止まりなさいッ! 保護対象を勝手に移動させないのッ!」(眼鏡)
市場の人々は“関わらない”の拍で左右に割れ、串屋の主人がため息と共に七味を振った。
アリアは串を食べ終える拍で立ち上がり、三人の進路に一歩、入った。
「少し待って。彼とは、どういう関係だ」
「え、あんた誰」(鼻)
「女騎士? 用心棒?」(眼鏡)
「よぉし、交渉だ。これでどうだ」(でっぷりが、油でぬめる手のひらを見せる。賄賂という意味で)
「手、洗ってからにしてくれ」
アリアはその手をそっと押し返し、少年に視線を移した。
少年の目は、走るものの目だ。周囲を素早く測り、数拍先の逃げ道を決めている。
「君、名前は」
「知らない人に教えないルール」
まっとうである。
アリアが頷いたその瞬間、少年は地面の小石を片足で蹴り上げ――器用に二段バウンドでアリアの額へ“こつっ”。
「……っつ」
「ごめん、敵か味方か、まだ判定中!」
少年は身を翻し、魚屋と香辛料屋の間の細路地へ消えた。
「おいおいおい!」三人組が殺到する。
アリアは額を押さえつつ、三人へ一言だけ投げた。
「彼、いま“敵”って言ってたぞ」
「そりゃあ、子どもは逆らうもんだ」(鼻)
「“敵”の定義は、侵入者だ。……とりあえず、話はあとで聞く」
アリアは串の棒を捨て、外套を翻し、細路地へ入った。
*
細路地は、洗濯物の香りと、猫の目と、桶の残り水でできている。
アリアは足元を確かめながら走り、角をひとつ、ふたつ。
そこには古い二階建ての廃屋が、壁に蔦をまとって、息を潜めていた。
扉の代わりに立て掛けられた板。
板の前に、きれいに並べられた――豆。
(豆?)
背後からどしどしと三人組。
「いたぞ! ここだな!」(でっぷり)
「こりゃまた見事な廃屋」(鼻)
「行政手続き上は立ち入り禁止よ!」(眼鏡)
「待て、豆に――」
言い終わるより早く、でっぷりが“ざざぁっ”と豆の海に突入して、見事に横滑りした。
鼻が「学習能力!」と叫びながら踏み出して同じルートで転倒、眼鏡は「片足なら!」と謎の理論で片足ホップを敢行して、より見事にひっくり返る。
「だから言ったのに」
アリアはため息をひとつ。
豆の列のぎりぎりを、つま先でかわしながら板を起こす――その瞬間、どこかで“ピン”と糸の音。
(まずい)
天井梁の上から、粉の入った麻袋が落ちた。
小麦粉。
避けようと思えば避けられる。だが背後の三人が豆でつるつるだ。
アリアは外套を広げ、袋を受け止める方向へ一歩。
――どさぁっ。
粉は見事に、女騎士の頭から肩にかぶさった。
外套を通しても逃げ場を失った粉は、もくもくと辺りに白い霧を作る。
鼻がむずむずし、くしゃみが込み上げ――
「へくしっ」
粉の霧に、三人の咳とくしゃみが重なり、廃屋の一階は一瞬で粉雪の世界になった。
二階の窓が、ほんの少し軋んで閉まる音。
アリアは白い睫毛の上に残る粉を瞬きで落とし、上を見上げた。
「そこか」
「そこだな!」(でっぷり)
「包囲だ包囲!」(鼻)
「いや、粉対策が先!」(眼鏡)
「水は厳禁だ。糊になる」
「知ってるわよ!!」(眼鏡、涙目)
三人が粉をはたき合っているあいだに、アリアは板を脇にどけ、足場を確かめて屋内へ。
土間の中央に、絵のように吊るされた鍋、ぶら下がる壺、張り巡らされた糸。
床板の一部は薄い。踏めば沈む。“沈んだら何かが落ちる仕掛け”の匂い。
「……周到だな」
廃屋の奥で、かすかな足音。
少年の声が、板壁の向こうから飛んだ。
「侵入者には容赦なし!」
「話を――」
言い終わるより早く、壺が“ぱかん”と割れて、中から黒い液が――
「墨汁か」
飛んできて、アリアの外套に“べしゃ”。
跳ねたしぶきが頬に点々。
(粉の次は墨。白黒はっきり、ということか)
背後から三人組の悲鳴。
「ぎゃあああスライム!?」「違う墨だ!」「スライムでも役所に申請すれば――冷たいッ!!」
アリアはため息二つ目。
粉まみれの外套を外し、墨部分を外へ投げて被害を最小化。
床板の“沈む板”を避け、吊り糸を剣ではなく指で避ける。非致死・ほどほど。切らない、壊さない、触らせない。
階段は――半分、梯子に変えられている。
踏み板が一本ない。
(飛べばいける。が、上の仕掛けが……)
上から“カラン”。
小さな鈴の音。遅れて、漬物石の重たげな揺れ。
(落とし石)
アリアは体を壁に寄せ、落ちてくる石の軌道から半歩外す。
石は“ごん”と板に当たって跳ね、粉の海に落ち、白いきのこ雲。
即座に二階の奥へ走る足音。
追う。が――
「いてっ」
天井からぶら下げた小さな木槌が、額に“こつ”。
(これは効く)
涙目のまま二階へ出ると、そこは――小さな砦だった。
机は横倒しで胸壁になり、引き出しの中身で作られたビー玉地雷ゾーン、薄い布のカーテンの向こうには、なぜか羽根(枕のやつ)が詰められた袋が結われている。
「おい、坊主」
アリアは壁に向けて、あえてよく通る声で言った。
「敵にもしないでくれ。味方にもしないでくれ。――話をする受け皿だけ、くれ」
「……受け皿?」
「怒りも、不安も、一度ここに置いて。こぼしたら、拭く」
沈黙。
つづいて、かちゃ、と木の鍵の音。
少年が顔を半分出す。
至近距離で見ると、目は思ったより幼い。だが、その幼さを補うだけの“仕掛け脳”が瞳に光っている。
「……お姉ちゃん、さっき市場で串食べてた人?」
「見られてたか。うまかった」
「なら、今は粉ドーナツだね」
少年がくすっと笑い、アリアも仕方なく頷く。
笑いが一拍。
その一拍を待っていたかのように、階下から「突入ーっ!!」の叫び声。
「やめろ!」
アリアが叫ぶ間に、でっぷり・鼻・眼鏡が階段へ突撃。
豆で学ばない。学習という概念はきっと彼らの辞書では後半に載っている。
「侵入者には容赦なしって言った!」
少年が紐を引く。
――“ばさぁ”。
羽根袋が破け、二階の空間を白い羽根が舞う。
同時に、壁の裏からバネ仕掛けで飛び出した板が“べちん”と三人の額にナイスヒット。
さらに床のビー玉が“ころころころり”。
三人は粉+墨+羽根で、早くも立派な“鳥人間コンテスト”状態になった。
「うわぁぁぁ!!」「視界がッ」「役所的にはこれは違法――痛っ!」
アリアは額に残る木槌の余韻を撫でつつ、少年の肩を横目で見た。
(この子、笑ってるけど、膝が震えてる)
「坊主、危ない仕掛けは――」
言いかけた時、鼻の痩せ男が転がりながら袖から黒い棒を抜いた。
棍棒。
目が一瞬、悪い光を帯びる。
(非致死の範囲を越える前に――)
アリアは前へ出ようとした。
その瞬間、足裏に妙な“ぺとっ”。
(粘着)
床板に樹脂か何かを塗ってある。
足が軽く吸い付いて――
「よっ」
力任せに剥がす。
が、剥がれた瞬間、背後の糸が“ぴん”。
天井の角から、小さな壺が回転落下――中身は蜂蜜。
肩から背に“どろん”。
「…………」
羽根舞う空間で蜂蜜は禁忌である。
理解した次の瞬間、右肩にふわり、と大きな羽根が着地。
アリア、粉+墨+蜂蜜+羽根の最終形態に進化。
「ついに来た! 最強形態!」(でっぷり、歓喜)
「違うだろ!」(鼻)
「衛生面が……!!」(眼鏡)
「……終わったら、絶対にこの家を掃除していくから」
アリアは蜂蜜の糸を袖で押さえ、棍棒に向かって前へ。
棍棒の軌道は大きい。狭い室内、振り切れば自分も壁も痛む。
アリアは低く入り、棍棒の手首に指を置く。掴まない。押さない。流し、回す。
男の手首が自分の胸の方向へ巻き込まれ、自然に棍棒が床に“ころり”。
「痛っ、な、何だ今の……」
「“危ないほうへ行く手”を、反対に返しただけだ」
でっぷりが突っ込む。
アリアは滑る床とビー玉の位置を一瞬で読み、でっぷりの進路に自分の体を残さず、“空振りさせる場所”に手を置く。
でっぷりは自分の重量で勝手に前へ行き、“どてん”。
眼鏡が懐から手錠のようなもの――いや、大きめの洗濯バサミ――を出して振りかざす。
アリアはそれを“ぱちん”と自分の袖にはめられ――
「いたっ」
「自業自得ですわ!!」(眼鏡、なぜか誇らしげ)
「君、官吏か何かなのか」
「民間委託の巡回補助! これは私物!」
「なるほど、ただの洗濯バサミだな」
袖を捻って外し、アリアは三人の足元に転がっていたロープを拾い上げる。
(縛るより、置き場所)
片足同士を“ほどけやすい結び”で繋ぎ、二人三脚状態に。
逃げようとすれば、互いが転ぶ。転べば、また粉が舞う。舞えば、くしゃみ。くしゃみで視界が死ぬ。悪循環の受け皿はこちらで持つ。
「待てやコラ!」(でっぷり)
「法的根拠!(息苦しい)」
「粉末は関係法令――はくしっ!!」
そこへ、少年の叫び。
「後ろ!」
アリアが振り返ると、さっきの棍棒男が、床の板を外して“抜け穴”に手をかけていた。
逃げる気だ。
そして、その先に――市場側。人混み。
(まずい。人の中に逃げ込ませれば、被害が増える)
アリアは腰の短い紐を投げ、“抜け穴”の縁に引っかける。
男の背中に軽く当たるだけ。だが、その一拍で男の体勢が崩れ、板が“べこ”。
男は自分の足で“抜け穴”に半身落ち、腰で止まった。
痛いが、骨は折れない角度。非致死・ほどほど。
横で見ていた少年が、思わず拍手を二回、ぱんぱん。
「お姉ちゃん、強い!」
「粉ドーナツでも、だ」
「それ言うなら“黒糖ハニー羽根クランチ”!」
名付けセンスよ。
アリアが苦笑しかけた時、階下の方角から笛の音。
市場の見回り。
眼鏡が顔面蒼白になり、でっぷりと鼻が同時に叫ぶ。
「逃げるぞ!!」
「逃がすか」
アリアが一歩出た瞬間、少年が短く合図し、壁の板の向こうから――“がらがらがらっ”。
木箱が雪崩のように滑り出し、階段にバリケードを形成。
同時に、窓の外で“ぴしゅっ”。
どこから伸ばしたのか、洗濯物のロープがぴんと張られて、三人の進路を綺麗に塞ぐ。
「よくやった」
「侵入者には容赦なし、でも、捕まえるのは“誰か”のお仕事」
少年が片目をつむる。
アリアは頷き、二階の窓を開け、合図の布を外へ振った。
見回りの笛が近づく。
三人の顔が同時に土色になる。
「話は署で聞こうか」
眼鏡が最後まで“役所語”を呟き続ける間に、でっぷりと鼻は観念した。
ロープの二人三脚が見事に役立ち、階段で“すってん”。
見回りの役人が「粉! 羽根! 墨! 流行りか?」と困惑しつつも、手際よく拘束。
「こちら、防犯協力者。……誰だい、あなた、粉の神?」
「旅の者。粉は事故」
「了解。あとで事情を」
アリアは粉と墨と蜂蜜で粘着質な礼をし、少年に向き直る。
少年は、安堵の息と、少しの照れ笑い。
「名前、まだ聞いてなかった」
「こっちこそ。……僕はケイ。ケイでいい」
「アリアだ」
「アリア姉ちゃん、さっきはごめん。敵か味方か、迷って、石……」
「額のこぶは、君の“正しさの代償”と思うことにする」
「なにそれ怖い」
「冗談だ。……で、君は何から逃げてた」
ケイの視線が、廃屋の床に落ちる。
さっき外した抜け穴の板の下。そこには、小さな金庫。
金庫は開いていない。だが、周囲に古い図面と家の権利書のような紙束。
「家を売らされそうになってた。母ちゃんがいなくなって……父ちゃん、一人でいろいろやって……そこに、あいつらが来て、“代理人”だ、“補助金”だって、難しい言葉で。サインもらえば“一時的に預かる”って。でも実は全部取るやつ」
「君の“砦”は、家を守るための砦か」
ケイは小さく頷いた。
アリアは粉まみれの髪をざざ、と払って、微笑む。
「なら、砦にもう少し“支え”が要る。仕掛けだけじゃなく、紙の支え、言葉の支え、味方の支え」
「味方?」
「今来た役人の中に、ちゃんと仕事する人が一人はいる。――わたしが橋渡しする」
「……アリア姉ちゃん、粉まみれだけど、かっこいい」
「ありがとう。粉は洗えば落ちる」
そこへ、見回り頭が上がってきた。
「事情を聞かせてもらえるかな。……粉の人」
「アリアです。事情は簡単。三人は脅しと詐欺。少年は自己防衛。廃屋は――」
アリアの説明は、粉が舞う中でも的確だった。
見回り頭は「なるほど」を三回言い、眼鏡女の“民間委託ガー”を丁寧に無効化し、でっぷりと鼻に“適切な大人の扱い”を与え、金庫と書類を保全した。
「少年、保護者は?」
「父ちゃん、今は山の仕事で。今日の夕方帰る」
「なら、夕方までうちの見張りの下で保護しよう。君は?」
「付き添う。粉を落としてから」
見回り頭が笑う。「まず洗おう。粉の人」
「アリアだと言ってる」
*
路地裏の共同ポンプで、粉と墨と蜂蜜と羽根を落とす儀式は、町内のおばちゃんたちの“祭り”になった。
「まぁ、気の毒に!」「粉はぬるま湯で!」「蜂蜜は油よ、油で浮かせるの!」
アリアは素直に従い、粉→油→石鹸→水→ため息の順に儀礼を完遂した。
ケイはその様子を見ながら、タオルを差し出しては引っ込め、差し出しては引っ込め、最終的にタオルを持ったまま笑い転げた。
「そんなに面白いか」
「面白い。……ごめん」
「許す。笑いは支えになる」
夕方。
粉のない、いつもの外套に戻ったアリアは、見回り詰所のベンチでケイと並んで座った。
三人組は別室。書類は机上。
窓の外で、鳥が二羽、屋根を渡る。
「アリア姉ちゃん」
「何だ」
「ありがとう。……でも、僕の仕掛け、姉ちゃんにも当たった」
「当たった。派手に」
「次は、味方判定が済んだら、味方にだけ“通り道”作る」
「それがいい。“敵”と“味方”の境目に、通り道を作るのが、大人の仕事だ」
ケイが難しい顔をしてから、こくりと頷いた。
ドアが開き、見回り頭が顔を出す。
「話がまとまりそうだ。父君、帰ってきたらここへ。……それから、少年の砦、危ない仕掛けだけ外してやってくれないか、粉じゃない人」
「アリアだと言っている」
ケイが吹き出す。
アリアも、肩をすくめた。
*
その夜。
廃屋の砦には、危険度の高い落とし石と蜂蜜ゾーンが“撤去”され、代わりに見回りの合図笛と、簡単な木札の“入場許可札”が付いた。
ケイが作った。
札には、ぎこちない字で“味方入口”の三文字。
「いい門だ」
「次は敵が来たら、入れない。味方が来たら、入れる」
「その区別は、君がつける。困ったら、誰かに相談する。――受け皿を、君一人で持たないこと」
ケイが親指を立てる。
粉の夜風が通り、鳥が屋根を渡る音がし、遠くで串屋が鉄板を洗う音がした。
アリアは鞄の底に、小さな木槌――額に“こつ”とやった犯人――を一本、ケイから貰って入れた。
「記念品」
「痛かった?」
「痛かった」
二人は笑った。
どこかで見回りの笛が鳴り、町は夜の拍に落ち着いていく。
「じゃ、続きは、また明日」
「明日?」
「三人組、まだ“仲間”がいるかもしれない。紙の仕事も、父君と一緒にやる必要がある。――わたしは明日もいる」
「やった!」
ケイが跳ねた拍で、天井から取り忘れの羽根が一枚、ふわり。
アリアの頭に着地した。
「……今のは故意じゃないな」
「偶然!」
「よろしい」
アリアは羽根を指先で回し、空へ放った。
羽根はゆっくり回転しながら落ち、砦の“味方入口”の札に、ちょうど、ふわ、と引っかかった。
(了/次話「二 砦、さらに地獄と化す(主に私が)」)




