魔境(アリアンロッド)編 第5話 風の谷の影――翼あるものたち
北の森は静まり、東の丘は澄みを取り戻した。
戻った夜、広場では簡素な祝杯が掲げられたが、宴は短く切り上げられた。翌朝には南の谷――“風の走路”と呼ばれる地へ向かうと決めたからだ。そこでは翼ある魔物が空から畑を襲い、苗を根こそぎ奪っていくという。
「飛ぶ相手は“境界の線”が薄くなる。線を面に広げる工夫が要るわ」
フェルナが地図を前に、風の筋を指でなぞる。
「風は西から東へ抜ける。上昇気流がここ、断崖の切れ目で強くなる」
「なら、“上と下”の線を同時に見せればいい」
アリアは頷き、掌を二度合わせた。「上空は星と声で“ここは嫌だ”を、地上は旗と糸で“ここは飛びやすい”を――安全な通り道を空に作る」
「空の案内線、楽しそう!」
ミャラが目を輝かせ、グレイは短く笑う。「猫は高いところが好きだな」
「道具を幾つか持って行け」
鍛冶場からボリスが顔を出した。腕には組み立て式の骨組みと布。
「“風鳴り旗”や。布に張った薄い板が風で震えて鳴る。上空の鳥にとっちゃ不快や、でも地上の者には合図になる程度の音にしとる」
バロスが続けて木箱を差し出す。「こっちは“空糸”。極細の麻糸を松脂で固め、杭と杭のあいだに渡せる。見えにくいが、触ると弾む。“面”を感じさせるための仕掛けだ」
「星は私が」
セレスティアが青い耳飾りに触れた。「高いところに《星糸》を織る。遠目でも‘道’に見えるくらい濃く」
「囁きも上へ通すわ」ティアが肩をすくめる。「“ここは風が悪い、向こうは楽しい”ってね」
「地上の守りは任せろ」
リカルゾとダロッゾが槍を担ぐ。「畑の上を低く滑る奴らには、影だけ見せて追い払う」
ドッグが昼勤の帳面を叩いた。「外周の見張り台を二つ移設して、谷の入口を見張る。旗の合図は“赤が危険、白が通行、青が鎮静”で統一だ」
「ルーン、無理はするな」
アリアが視線で確かめると、ルーンは頷いた。
「うん。……空の魔物に“名を呼ぶ”声は、少し勝手が違う。でも、試してみたい。空の道を、共にわかち合えるか」
トットが短剣の鞘を叩き、「通訳の出番、空でもやってやらぁ」と歯を見せる。
準備は整った。
⸻
南の谷は、音から始まった。
崖壁に沿って風が走り、低く、長く、弦を弾くように鳴る。
谷底には畑が広がり、若い芽が風に耐えて揺れている。だが、いくつかの畝には抉られた跡。大きな爪と嘴の痕が鋭く残っていた。
「……来る」
フェルナの耳がふるえ、弓がわずかに上を向く。
上空に、黒灰の影が三――五――やがて十。
嘴の先が白く、両翼の外縁が鉤状に尖った猛禽――《フックウィンド》。翼は風を掴んで跳ね、群れは螺旋で高度を稼ぐ。
「配置!」
アリアの号令で、仲間が持ち場へ散った。
崖上――セレスティアとティアが並び、星と囁きで空に“道”を描く。
谷底――ボリス製の“風鳴り旗”をミャラとトットが順々に立て、稜線に沿って“空糸”を渡していく。
畑の端――リカルゾとダロッゾが槍を立て、影を大きく広げる構え。
中央――アリアとフェルナとシル。地上の“最後の線”。
外周――ドッグ隊が白旗を掲げ、子どもや年寄りを退避させる。ハルトが記録を取り、カテリーナとリマが薬箱を置く。
「星、走らせる」
セレスティアが手を広げると、薄青の《星糸》が斜めに何本も空へ渡った。
それは見上げる者の目に“踏み段”のように映り、風の層に沿って緩やかに波打つ。
「――こっちは渦が悪い。向こうは軽い。行きなさい」
ティアの囁きが、鳥の耳にも届く高さまで“持ち上げ”られ、星糸と重なって響く。
上空の群れが、ほんのわずか隊形を崩した。一本、二本と星の梯子を渡り、谷の“安全走路”へ進路をずらす。
最初の十羽は、言うなら“素直”だった。
だが、三十、四十と増えるにつれ、猛り立った若鳥が谷底へまっすぐ急降下してくる。
「下は“面”だ。引っかかるぞ」
トットが風鳴り旗の位置を確かめ、糸の張りをきつくする。
低く滑った一羽の翼が“空糸”に触れ、びん、と高い音を返した。バランスを崩した鳥は慌てて高度を上げる――その間に、畑の上を素通りしてしまう。
「よし。面で押し返すってのは、こういうことだ」
アリアが頷く。
だが、一羽――いや、群れの中の首領が違った。
他の鳥の失敗を見て、わざと“空糸”よりも低く、畝と畝のわずかな隙間すれすれを抜けようと、翼をたたみにかかる。
「賢い。来る!」フェルナが矢をつがえた。
「傷つけずに示せ!」
アリアは地を蹴る。
シルが先に躍り出て、短剣を交差させた。
「《燕返し》――“風見の刃”!」
刃は翼の風だけを切る。紙一重で羽根の列を撫で、気流を乱す。
首領格の進入角が半度ずれて、地上の“空糸”を踏む。びぃん――翼の骨に嫌な震えが走り、鳥は咄嗟に翼を開いて浮き直った。
「もう一押し」
フェルナの矢が風鈴を射抜き、旗が鳴りやむ。
次の瞬間、崖上から別の音――セレスティアが星糸を指ではじき、澄んだ高音を連続で発した。
高低が切り替わる“音の道”。鳥は反射で“心地よいほう”へ針路を取り直す。
そう、上へ。
「いい子。上で走りなさい」
ティアが笑って囁き、群れの大半が星の梯子へ集まる。
谷底の畑の上は、からりと空いた。
「あと数羽、乱暴者が残ってる」
ミャラが耳をピンと立て、足で合図を刻む。「タン、タン、タン――中央、お願い!」
「了解」
アリアは地面に“柔らかい壁”を置き、シルが“刃の影”を走らせる。
フェルナの《ホーミングショット》は核を撃たない角度で翼の外縁をかすめ、鳥たちは“痛くない嫌悪”を覚えて高度を戻す。
「……いける」
グレイが崖の陰で小さく頷いた。
「では“握る”」
ルーンが手を胸に当て、空へ焦点を合わせた。
「――空の来客さん。ここは分け合う場所だよ。上には風の路がある。下は芽の路。……手伝って、ね」
透明な糸が、幾筋か鳥の心に触れた。
首領格が一度だけこちらを見下ろし、ふい、と翼を返して星の梯子へ乗る。
その背についた二羽、三羽がつられ、空の通り道は一段と太くなった。
白旗が三度、外周で振られる。
ドッグの号令。「白――通行! 青――鎮静まであと一歩!」
谷の風が一段やわらぐ。
畑の苗は倒れず、若い葉は陽を受けて震えた。
⸻
日が傾くころ、フックウィンドの群れは上空の走路へ完全に移った。
谷底を低く掠める影は消え、稜線の旗は風に任せて穏やかに鳴るだけだ。
「――青!」
ドッグの合図旗が翻り、谷に“鎮静完了”の節が落ちる。
リカルゾが槍の石突きを地に置き、ダロッゾが大きく息を吐いた。
「空の客と地の客。喧嘩させずに済んだな」
「面白かった!」ミャラが跳ね、旗の影でトットが肩をすくめる。「縦の戦いは、足が疲れねえぶん、頭を使うな」
「ありがとう」
ルーンが少し汗ばむ額を拭き、空を見上げる。群れの何羽かは、彼女のほうへ低く一鳴きしてから、星糸の高みへと消えていった。
「……きっと、明日も上を通る」
「谷の連中に、合図の意味を教えておこう。旗と音と、星の梯子」
アリアが振り返ると、すでに周辺の小集落の者たちが畑の端に集まっていた。
ゴブリンの老女が震える手でアリアの手を取り、コボルトの青年が深々と頭を垂れる。
誰かが呟いた。「……魔境だ。けれど、怖くない匂いがする魔境だ」
その言葉に、グレイが静かに相槌を打つ。
「“魔境”――そう呼ぶにふさわしい」
フェルナが空を仰ぎ、弓をほどいた。
「呼び方は、流れの名。ならば、この流れを誇ろう」
⸻
帰路。
外輪の小道には、新しく立てられた小さな標が等間隔に揺れていた。
ピピがその数を数え、ヨーデルが質問を十個投げ、カテリーナが薬草束の残りを点検し、リマが“風焼け”の頬に軟膏を塗る。
ドッグは昼勤の帳面をぱたりと閉じて、しみじみと言った。
「――やっと、夜は眠れる街になってきた」
広場に戻ると、集落の使者たちが待っていた。
黒羽狼の森の代表、東の丘の代表、谷の代表、そして獣人のグレイとミャラ。
簡素な酒と薄焼きのパン、蜂蜜と草スープ。火の周りに輪ができる。
「魔境のことを、私たちの言葉で呼びたい」
誰かがそう言った。誰も否定しなかった。
“魔境”は外が付けた名。けれど、この街は――自分たちで、名を持っていい。
アリアは杯を掲げた。
「森に線を、丘に時間を、谷に道を置いた。次は――私たち自身の名だ」
エリオットがニヤリと笑う。
「“死霊都市”なんてどう――」
「却下!」と四方から一斉に声が飛び、マリーヌが涼しく微笑む。
「ふふふ……儲けが吹き飛ぶ名前は遠慮したいねぇ」
笑いが弾け、火が躍る。
シャルルが短く宣言する。
「明夜、命名会議を開く。多数決で決める。――参加資格は、ここに灯りをともす者、すべて」
輪の中心で、ルーンが少し戸惑い、そして小さく笑った。
誰かが囁く。「この街の“核”は、あの子の名だ」
別の誰かが返す。「ああ。導く声の名だ」
アリアは炎の向こうの皆の顔を見て、静かに頷いた。
**魔境**は、恐れと畏れの名から、拠りどころの名へ。
そして――街の名へ。
(つづく)
次回予告:第6話 名を持つ灯――「アリアンロッドのルーン」
外の呼び名は“魔境”。内の正式名は、皆で選ぶ。
ルラの毒舌、イザベラの悪ノリ、エリオットの物騒案、以蔵のツッコミ。
多数決の先に残るのは――“ルーン”。
街は、名を得て、輪郭を持つ。




