魔境(アリアンロッド)編 第2話 獣の旗、風に鳴る――獣人集落との合流
翌朝。石畳の通りに冷たい影が落ち、川沿いの水車がゆっくりと音を刻むころ、城門の上で角笛が短く二度鳴った。合図は「友好の来訪」。門番のリカルゾが視線だけで仲間に合図し、ダロッゾが門扉の金具を静かに押し開く。
砂埃の向こうから、灰銀の毛並みが朝日に光った。狼獣人の隊列、その先頭に、しなやかな背中をまっすぐに立てた男がいる。――グレイ。群れの長の片腕にして、剣を携えぬまま睨みだけで荒事を止めると噂の戦士だ。その横を歩くのは、耳の先で陽の粒をはじく猫耳――ミャラ。鮮やかな腰布が軽く跳ね、足取りは軽快、瞳は好奇心の色で満ちている。
「ご無沙汰だ、アリア」
門の外で足を止め、グレイは短く頭を垂れた。
「……黒羽狼の群れ、そして東の丘の毒蛇。こちらも被害が出ている。情報のすり合わせに来た」
「よく来てくれた、グレイ」
アリアは笑みを返し、掌を胸に当てる獣人式の礼で応える。
「話を聞かせて。――ミャラも、元気そうだね」
「うん! アリアの街、前よりずっとオシャレになってる!」
ミャラは石畳をトン、とつま先でつつき、屋台の布の結わえ方や雨樋の角度まできょろきょろと眺めては感嘆の声を漏らす。
「この布、風を受けて音が鳴るの。猫、好き」
「ボリスの工夫だ。風見としても役に立つのよ」フェルナが微笑む。
「中へ」
ドッグが日勤の胸章を誇らしげに叩き、来訪の列を率いて広場へ導いた。獣人たちの背中越しに、子ゴブリンやコボルトの若者が目を輝かせてついてくる。ピピは指を折りながら来客の数を数え、ヨーデルはすでに「質問が百個ある」と唇を尖らせている。
議場。長机を「コ」の字に並べ、真ん中に地図を広げた。シャルルが淡い墨で川筋と丘陵線を引き直し、ハルトが横で単位換算表を準備する。アリアは北と東に小石を置き、昨夜、トットが受け取った被害報告を整理していく。
「北の森――黒羽狼。夜、低い唸り声と共に群れで畑へ。作物を荒らすだけでなく、柵をこじ開けて家畜を散らす。噛み傷は浅い。なら、狩りより示威。縄張りの誇示だ」
オリビエが顎に手を当てる。
「東の丘――毒尾蛇。水源で脱皮殻が見つかった。尾の先に毒腺があり、水に毒が落ちている可能性。集落が水を取りに来る時間帯に、尾で威嚇を繰り返す。……こちらは“水の番”のつもりかもしれん」
グレイは黒い瞳で地図を一瞥し、静かに言う。
「我らの側でも似た。黒羽狼は“新たな群れ”が増えたらしい。血の匂いは薄く、飢えの匂いが強い。毒蛇は……眼が澄んでいた。守っているのは巣か、あるいは“湧き出るもの”か」
「なるほど」
シャルルが地図の東に小さな青点を書き込む。「湧水点が複数……蛇の巡回路があると見るべきだろう」
「獣人の皆さんの被害は?」
トットが通訳を申し出て、獣人側の若者に問いかける。
「……畑、二つ、やられた。家は……子が泣いただけ。怪我は浅い」
「水は?」
「茶色く濁った。匂いはきつくないが、舌がピリつく」
アリアは頷くと、指で二つの問題に円を描いた。
「どちらも『排除』より『線引き』が先。――黒羽狼は“こちらの線”を見せれば退く余地がある。毒蛇は水利の“時間割”と巡回路の変更で共存が可能かもしれない」
グレイの耳がわずかに動く。
「“追い払えば”済む、と言わぬのだな」
「追えば、また来る。飢えと縄張りの問題だから。私たちは暫定の“道”を作り、そこで境界を守る。守りの線は“見えるほどに柔らかく、破ろうとすれば硬い”のがいい」
アリアは合気の動線を描くように、地図上で指を滑らせた。
「……面白い」
グレイが短く笑う。「魔境のやり方、嫌いではない」
「魔境!」ミャラが飛び跳ねる。「そう呼ばれてるの? にゃるほど~。なんだかワクワクする響き!」
ルラが片手を上げる。
「じゃ、実務に落とそう。人員編成、食糧、運搬、標識、合図。外周路の小隊は誰が握る?」
「昼は俺だ」ドッグが即答する。「外輪道に見張り台を二つ増設中。コボルトの若いのを交代で回す。獣人の“鼻”に頼りたい区間はグレイたちに前を歩いてもらう」
「夜は私たちがやるわ」ティアが微笑する。「狼の気配は夜に濃い。幻惑で“境界を太く見せる”のは得意よ」
「森の黒羽狼には、わたしの星で“道の縁”を灯そう」
セレスティアが青い耳飾りをそっと押さえる。「星糸で導線を縫い、星環で足場を整える。狼が走りやすい‘細い道’をこちらで与えれば、畑に入る理由が減る」
「矢で『入ってほしくない場所』をはっきり示すわ。風を乗せて“痛くない警告”を繰り返す」
フェルナが矢羽を撫で、静かに続ける。「必要なら雨を呼んで匂いの道を洗う」
「毒尾蛇は?」
カテリーナがそっと挙手する。「薬草を束にして“苦手な匂い”を作れるかも。水辺に添えて“ここは来ないで”って伝える……」
「いい。リマ、解毒と皮膚保護の軟膏を追加で。ハルト、搬送用の担架と水袋の数を」
「はい!」
若手の顔が引き締まる。
グレイは静かな目で、会議を端から端まで見渡した。
「アリア。……お前たちの街は、昔より静かで、そして賑やかだ」
「どっちなんだい?」
「静か――余計な血の匂いが減った。賑やか――役割の声が増えた。鍛冶の音、子の笑い、数字の筆音。『人が生きる音』がする」
ミャラがうんうんと大きく頷く。「わかる! 夜はティアの笑い声が遠くで聞こえて安心するし、朝はドッグ隊長の怒号で目が覚めるし」
「怒号言うな」ドッグがむず痒そうに耳を掻いた。
「では――」
アリアが机の中央に手を置く。「編成を出す。北の森の黒羽狼は、アリア、シル、フェルナ、セレスティア、ティア、トット、獣人前衛(指揮:グレイ)。東の丘の毒尾蛇は、オリビエ、マキシ、リマ、カテリーナ、リカルゾ、ダロッゾ、ドッグの外周支援。ルーンは森側に優先して合流、ティムの準備を」
「了解」
「任された」
「おっけー!」
小気味よく返事が重なっていく。
そこへ控えめなノック。扉から顔をのぞかせたのはマリーヌだ。
「……ふふふ。話はまとまったようだね。なら、街道の露店と携帯食を三日分ずつ。羊皮紙の“路商許可”は私が発行するよ」
「商人殿、抜け目ない」ルラが笑う。「“魔境の露店許可証”なんて刷ったら、それだけで土産になるぜ」
「ふふふ……儲けは最後の一拍よ」
笑いが落ち着くころ、シャルルが議事の締めを告げる。
「合図は三種。『集合』『警戒』『鎮静完了』。地図の赤線は進入禁止、青は安全路、白点は星糸の設置予定。――以上。各隊、準備にかかれ」
会議がはけると、広場の陽はよく伸び、影は短くなっていた。
装備の点検。水袋の配布。薬草束の仕分け。弓弦の張り具合、刃の角度、靴底の釘。
その合間を、ミャラがするりするりと抜けていく。
「シルの短剣、かっこいい。きらっと光るところ、どこ?」
「ここ。新しい鞘。影がまとわりつきにくいの」
「へぇえ! わたしも“猫パンチ強化鞘”ほしい!」
「命名が可愛い」ティアが吹き出し、セレスティアが咳払いで笑いを飲み込む。
「グレイ」
アリアは灰銀の戦士の肩へ視線を向けた。「……あなたたちも、被害で疲れているのに来てくれてありがとう」
「礼は要らぬ。我らもこの“魔境”の息吹に賭けると決めた」
グレイは一歩近づいて声を潜めた。「アリア。お前は、獣の誇りを傷つけぬ戦い方を知っている。――だから、共に歩ける」
短い握手。皮と皮の間に、ひとつ呼吸が交わされる。
出発の合図がかかる前、トットがアリアの袖を軽く引いた。
「……兄貴」
「どうした?」
「今朝、門前で小さなゴブリンが言ってた。“魔境の街は怖くない匂いがする”って。……その匂い、俺、好きだ」
「なら、もっと濃くしよう。皆でね」
タン・タン・タン――
集合の合図が、真昼の空に軽やかに響いた。
⸻
北への道は若い緑の匂いで満ち、風が木立の間から細い声で鳴いた。
獣道を先導するのはグレイの小隊。鼻先が風を割り、足裏は土の湿りを読み取る。彼らに続いてシルとフェルナが幅を測り、アリアとセレスティアが節を刻む。ティアは後ろから囁きの糸を森へ垂らし、トットは合図と通訳の両方に耳を澄ませていた。
「ここが“匂いの分岐”」
グレイが立ち止まり、低く言う。「左は畑に通じる。右は沢沿い。群れは左を選んだ跡」
「なら、右を“走りやすく”しよう」
セレスティアが掌で星屑をすくい、沢沿いに《星糸》を細く細く張っていく。目に見えぬほどの糸は、しかし獣の足に“軽さ”を与える。
「わたしは匂いを洗う」
フェルナが矢を抜かず、風だけを通す。草の表面を撫でる風は薄く雨を含み、左の道の“餌の匂い”を散らしていく。
「合図、入れるね」
ティアが囁きを森へ落とす。「――ここから向こうは“眠い”。こっちは“楽しい”。さあ、どっちが好き?」
「狼って、案外わかりやすいのよ」
シルが耳をぴんと立て、口の端だけで笑った。「走るのが好き。風のほうへ行きたがる」
やがて、低い唸りが草むらを這い、黒い影が地面に溶けるように現れた。黒羽狼――背中の毛がわずかに青く光り、耳は鋭い。十体、二十体。群れはアリアたちを包むように弧を描き、牙を見せ――だが、飛びかかる気配は薄い。
「威嚇。境界を見てる」
アリアは足裏で土と話し、真っすぐに一歩だけ前へ出た。
「受けない。見せる」
肩を落とし、掌を地に向け――《入り身》の一拍だけを空気に置く。
狼の先頭がわずかに鼻を引き、足取りが軽い右へ首を向けた。
「うまい」グレイが呟く。
「いま。右」
シルが小さく合図し、フェルナの風筋が右の沢へ細い通り道を作る。
星糸はやわらかく、しかし確かに“走りやすさ”を伝え、ティアの囁きは左の道に“眠気”を敷く。
先頭の二体が右へ。三体、四体。
群れの半分が沢沿いを駆け、残る半分はまだ畑の匂いに未練を残している。
「ここで“道しるべ”」
トットが懐から小さな金具を取り出し、木の枝に結わえた。薄い鈴のような板が、風に揺れて微かに鳴る。
ミャラが目を輝かせる。「猫、これ好き!」
「風が変われば音が変わる。群れの‘今日はこっち’の合図になる」
トットはぶっきらぼうに言い、だが目は得意げに笑っている。
「ルーン、準備は?」
「――うん」
草陰から現れたルーンは、まだ顔色に薄さがあるものの、瞳はしっかりと澄んでいる。
「“傷つけない声”で呼ぶ。……ティムは、彼らが“こちらの道”を選んだあと」
両手を胸の前で組み、そっと目を閉じる。
森の匂いと風と光を少しずつ混ぜるように、声にならぬ声が広がっていく。
狼の耳がぴくりと動き、目の縁から険しさが抜けた。
「ルーンの音、いいね」
シルが囁き、フェルナが小さく頷く。「これなら、無理はない」
群れの最後尾が振り返り、もう一度畑の方を見た。
そこにアリアが、掌で“柔らかい壁”を置く。
触れれば流し、退けば消える壁。
狼はそれに鼻先を当て、くんと匂いを嗅ぎ、――踵を返して走った。
「……やった」
ハルトが息を漏らす。少し離れた見張り台から、この一部始終を見守っていたのだ。
「“導線の勝利”だ」シャルルの声が、風に乗って届く。「記録しよう」
「あと二つ、群れがいる」グレイが気配を嗅ぎ分ける。「同じように“道”を与えれば、森は静かになる」
「行こう」
アリアが頷く。
「魔境は、怖くない匂いで満たす」
⸻
同じ頃、東の丘。
乾いた草を渡る風が、鈍い鈴のように低く鳴る。水源は岩の胸を割って湧き、その脇に、脱皮殻が白く丸まっていた。尾の先――黒く太い棘。毒尾蛇は日の角度を読み、水面すれすれの影に身を潜めてこちらを見ている。
「刺激しない。……だが、こちらも水が要る」
オリビエが剣を下げ、重心を落とす。「鎮めの型で寄る」
「マキシ、焦らないで。尾は見えてるところより長い」
リマが盾の角度を示し、カテリーナが薬草束を水際から離れた“風下”へ置く。
「この匂い、蛇は嫌い。人は平気。風が運ぶから、近づきたくなくなる」
リカルゾとダロッゾが門番の時と同じ無言の圧を背に置き、ドッグが外周警戒で巡る。
「相手は一体じゃない。石影にも目をやれ」
蛇が尾を上げ、空を切るように一閃。水面がぱしん、と弾ける。
その音に、若者たちの喉がひゅっと鳴った。
だが、踏み止まる。
オリビエの一歩が、蛇の“抜け道”を塞ぎ、マキシの一歩が“逃げ道”を残す。
リマの盾が“ここまで”を示し、カテリーナの匂いが“そこから先は不快”を描く。
尾が二度、三度と打たれたのち――蛇はゆっくりと方向を変え、湧水点の“対岸”へ身を寄せた。
水を汲みに来た子らの位置からは、尾が届かない。
「……よし」
オリビエが息を吐く。「今日のところは、これでいい。時間と道を覚えさせる」
ドッグが合図旗を振る。「タタタ・ターン――鎮静完了!」
丘陵に、安堵の風が渡った。
⸻
夕刻。北と東、双方からの帰路。
広場の端で待っていたミャラが、先に見えた北側の隊列へ駆け出した。
「どうだった? どうだった?」
「走るのが好きな奴らに、走る道を渡した」
シルが笑い、ルーンが小さく親指を立てる。
「黒羽狼、何体かとは“手が握れた”。畑に鼻先を向けたら、こっちの鈴が鳴る……そんな約束」
「こっちも、歯は見せなかった」
オリビエが穏やかに報告する。「水を分け合う線が、一本引けた」
アリアは仲間たちの顔を順に見、最後にグレイと視線を合わせた。
「――これで、一歩だ」
「ああ。一歩だ」
灰銀の戦士は空を見上げ、遠くの雲の切れ間を睨む。
「“魔境”という言葉が、ただの恐れの名ではなくなる」
グレイの後ろで、若い獣人が囁き合う。
「……魔境、やっぱりすごいな」
「怖くない匂い、した」
ピピがそれを聞いて、満足そうに数を数え直した。
「いーち、にー、魔境!」
「単位が増えたぞ、ピピ」ハルトが苦笑し、シャルルが静かに付け加える。
「いい。言葉は時に、街をつくる」
夕焼けが石畳を染め、鍛冶場の火が星より先に瞬いた。
誰かが「今夜も屋台だ!」と叫び、誰かが「明日は標識をもう二つ」と返す。
笑い声と鍛冶の音と、紙の擦れる音。
“人が生きる音”が、重なる。
「次は」
アリアは小さく息を整え、みんなへ向き直る。
「周りの集落を一つずつ回ろう。今のやり方を、それぞれの土地に合わせて置いてくる。……それから――」
彼女は広場の真ん中を指差した。
「ここを、みんなが名前で呼べる“街”にする。外からは魔境でいい。けれど、私たち自身の言葉で、内側の名を決めよう」
ミャラがぱっと手を挙げる。「命名会議! 猫、そういうの好き!」
グレイは口の端をわずかに上げる。「多数決は得意ではないが……参加しよう」
トットが肩をすくめ、しかし目は嬉しそうだ。
「兄貴、こりゃ忙しくなるぜ。通訳の出番も増える」
「頼りにしてる」
アリアは短く返し、皆の輪の真ん中に立った。
「――魔境に、灯を増やそう。名を与えよう」
広場の灯りがひとつ、またひとつと点った。
夜が深くなるほどに、匂いは優しくなる。
“怖くない匂い”で満たされた魔境が、ひとつの街へと形を整えていく。
(つづく)




