山見市(やまみいち)のほら貝
山見市は、峠と峠のあいだにひらけた町だった。
石を積んだ大きな階段を上がると、市の広場。牛の鳴き声、木槌の音、山菜の香り。奥には高台があり、そこに古い“合図台”がそびえている。
その台の上で吹かれるのが、町の宝――ほら貝だ。
「山祭りの朝は、貝の音で始まるんだよ」
荷を運ぶ少年が誇らしげに言った。
「朝一番に“どぉーん”と鳴らすと、峠の上まで響いて、山の神さまに市が開くのを知らせるんだ」
アリアは階段を見上げる。台のてっぺんには木枠があり、その横に黒々と大きなほら貝が吊られている。陽に照らされ、螺旋の模様が光っていた。
だが――。
「おや?」
貝の下に立っていた町役人が、額を押さえていた。
「なくなった……」
「なくなった?」
「朝、台に掛けてあったはずのほら貝が、影も形もないんです!」
広場がざわつく。
牛も鳴く。山菜売りの婆さんも口に手を当てる。
「貝がなければ祭りが始まらんぞ」「神さまが怒る」「市が立たぬ」――。
アリアはため息を一つ。旅先で宝物がなくなる話は、どうしてこうもよく起きるのか。
「落ち着いて。広場から人を動かさないで」
役人がしがみついてきた。
「探してくだされ! 女騎士さま!」
*
まず台を調べた。木枠に縄の切れ端が残っている。ざらりとした断面。
「刃物ではなく、歯だな」
「歯?」
役人が目を白黒させる。
「縄を噛み切った跡。人の歯じゃない。獣だ」
その時、裏手から子どもの叫び。
「おーい! 豚小屋が空っぽだー!」
広場がまたざわつく。
駆けていくと、豚小屋の柵が壊され、中は空っぽ。残っていたのは、貝殻の粉のような白い欠片。
「豚が……ほら貝を?」
「ありえん……が、噛み跡は確かに似ている」
アリアは膝をつき、粉を舐めてみた。しょっぱい。海の塩気。
「豚は塩を欲しがる。貝を舐め、齧ったんだろう。けど丸ごと持ち去るのは無理だ」
ちょうどその時、牛が“もー”と鳴いた。
振り返ると、牛の角に――。
「……ほら貝が刺さっている」
広場が大爆笑に包まれた。
角にすっぽり貝がはまり、牛は誇らしげに歩き回っている。人々が追いかけるが、牛は軽快に逃げる。
祭りの音は、まだ鳴っていないのに、市はすでに大騒ぎだった。
*
「捕まえる!」
若い衆が縄を持ち出したが、牛は角を振り回し、追う者を軽々とかわす。
アリアは外套を外し、広げて立った。牛の前に。
「こっちだ」
牛は突っ込んでくる。
アリアは外套をふわりと動かし、牛の目を覆うようにした。
布を抜けた瞬間、牛はきゅっと足を止め、角を振った。その拍に合わせて、アリアは貝の縁をつかみ――“ぽん”と外した。
角は無事。貝もひびひとつない。
広場がどっと湧いた。
役人は涙を流さんばかりに喜ぶ。
「助かった! これで祭りが……!」
だが問題はもう一つ。
「吹ける者がいない」
貝吹きの老人は、朝から腹をこわして寝込んでいるという。
「代わりを……!」
人々が顔を見合わせる。
「わしは肺が弱い」「あたしゃ歯がない」――。
誰も手を上げない。
視線が、自然とアリアに集まった。
「……わたしに?」
「女騎士さまなら、肺も強かろう!」
「剣を振る腕力なら、貝も鳴らせるはず!」
祭りは待たない。空はすでに白んでいる。神に市を告げる時刻だ。
アリアは貝を構え、唇を当てた。
(……やったことはない)
肺に力を込め、一気に吹く。
――「ぷすっ」
広場が静まり返った。
子どもが肩を震わせ、大人も口を押さえる。
笑いをこらえている。アリアは赤面した。
二度目。力任せではなく、息を“支え木”にする。
息を細く、長く。肺の奥から支える。
――「ぼぉぉおおおおん!」
今度は響いた。
山に跳ね返り、谷を渡り、空に吸い込まれる。
牛も豚も驚いて鳴き、鶏が一斉に羽ばたいた。
市の人々は拍手を抑えきれず、どっと笑った。
「立派だ!」「祭りが始まった!」
アリアは貝を下ろし、耳がじんじんするのを感じながら、笑いの渦に立っていた。
*
祭りは賑やかに始まった。
豚は戻され、牛は干し草をもらい、子どもたちはほら貝の形の焼き菓子をかじる。
役人が深々と頭を下げた。
「女騎士さま、どうか記念にこれを」
渡されたのは、小さな木彫りの笛。ほら貝を模してある。
「これなら、吹きやすいでしょう」
アリアは笛を鳴らした。
――「ぴゅるる」
広場がまた笑いに包まれた。
彼女は肩をすくめ、鞄に笛をしまった。
祭りの喧騒を背に、峠の坂を登りながら、もう一度吹いてみる。
「ぴゅる」
音は小さいが、確かに山に届いた気がした。
旅は静かなときもある。
けれど、笑い声の山鳴りも、悪くない。
(了)




