風待ち町の灯(あかし)
風は朝いちばんの潮を運び、石畳の目地に白い塩粉を残していった。港の町は、いま“凪”の刻だと、見張り台の老人が教えてくれた。船は出ず、帆は畳まれ、網は干し、家々は窓を開け放って潮を入れ替える。アリアは革の鞄を肩にかけ、濃い緑の外套を腕にかけたまま、海の匂いのする路地を歩いた。
路地は短く、しかし折れ曲がりが多い。角を曲がるたびに、違う生活の音がある。貝殻を割る音、桶に水を注ぐ音、鍛冶場のふいご、早口の罵り合いと、笑いに転がる一拍。彼女は耳の内側でその拍を数えた。知らない町で歩幅を決めるのに、拍ほど役に立つものはない。
広場の縁に、菓子屋があった。ひさしの低い木の家で、窓辺には砂糖菓子が並んでいる。ねじのかたち、貝、三日月、灯台。幼い子らが小さな硬貨を手に、一つずつ選んでいる。店の奥から出てきたのは、背の高い女主人で、白い三角巾をきりりと結んでいた。
「旅の人? 海の初物、舐めてくかい」
差し出されたのは、棒の先に白く固まった“海砂糖”。塩と砂糖を湯で合わせ、ゆっくり固めたものだという。舌にのせると、ざらりとした粒の手触りのあと、潮の甘さが滲む。アリアは硬貨を置き、店内の壁に掛かった古い絵を眺めた。灯台の絵である。今と違い、頭に風見鶏がいる。
「昔の灯台?」
「そう。うちの先代――わたしの祖父が描いたのさ。あの頃は灯りも油でね、風見の鳴る音が、夜の合図だった」
女主人が言う「鳴る音」は、絵の中では聞こえない。だが、風を切る羽の金属音は、潮騒と混ざれば容易に想像がつく。アリアは窓の外に目を細め、絵の灯台と現実の灯台の違いを数えた。風見がない。柵が増えた。段の途中に小さな箱。箱――箱?
そのとき、広場の端で小さな騒ぎが起きた。魚屋の娘が叫ぶ。「灯り盗りだ!」 人々の視線が、路地を駆ける影に集まる。痩せた少年が抱えているのは、真鍮の灯箱。――灯台の登り段で見た、あの箱と同じかたち。
アリアは外套を腕から滑らせ、足をひとつ踏みだした。追うのは簡単だ。だが踏み鳴らす足音は町を驚かせる。彼女は拍をひとつ置き、路地の曲がり、洗濯物の紐の高さ、地面の濡れ具合、壁の出っ張りをなぞる。少年が布の影に消える寸前、アリアは外套を投げた。外套はひらりと洗濯紐に掛かり、ちょうど少年の鼻先で布が垂れた。少年は本能で目をつむり、足を止めた。ぶつからないよう、アリアは彼の肩に指を当てるだけにして、息を整える。
「それは、どこから?」
少年は答えない。肩の骨が細く、汗が塩くさい。抱えた灯箱の角は古く、片方の蝶番ががたついている。新品ではない。アリアは、彼の視線が一瞬だけ港の方向をよぎったことを見逃さなかった。
「痛いことはしない。返す先へ、一緒に行こう」
少年の目に疑いが渦巻く。だが“痛いことはしない”という言葉は、ゆっくり時間をかけて、相手の内側に置かれるものだ。彼は頷きもしないが、抵抗もしなかった。アリアは外套を回収し、洗濯紐に謝りながら、少年の歩幅に合わせて歩き出した。
港の手前で、見張り台の老人が手を振った。
「おや、そいつは“灯し”の箱じゃないか。盗り子、また出たか」
「盗ったの?」
アリアが少年に訊くと、少年は下を向く。老人はかぶりを振った。
「盗り子と呼ぶのは、昔のあだ名さ。盗るわけじゃない。灯を“借りて”いくのさ。灯台の灯りは、病の家や舟の目印に、夜だけ、ちょいと分けてもらう習わしがあった。昔はな。今は規律が厳しくなって、勝手に抜くと怒られる」
「じゃあ、昔のやり方で“借り”に行こう」
アリアは言った。少年の肩がびく、とわずかに上がった。老人は目を細め、ゆっくり頷く。
「夜守に話をつけるか。だが今の夜守は、先代ほど融通が利かん。理由が要るぞ」
理由。アリアは少年を見る。少年は唇を噛み、やがて小さな声で言った。
「母ちゃんが、熱で。海の風が入らない部屋で、息が苦しいって。医者に行く金、ない」
風。灯箱は油と芯と小窓でできている。灯は熱を出し、少しの光と、少しの風の動きを生む。小さな部屋で、灯の熱と風は、あるいは心を慰めるだろう。医療ではないが、夜を越える手伝いにはなる。
夜を待つあいだ、アリアは町を歩いた。風見のない現在の灯台は、昼は眠っている。根元の小屋で、夜守がさびた鍵束を磨き、帳面に字を記していた。ごつい手、真面目な目つき。名はカド。彼は“借り”という言葉に眉を寄せる。
「規律は規律だ。勝手に火を出せば、どこで何が起きるか。火は慰めにもなるが、火事のもとにもなる」
「灯は、ひとりの夜をまたぐ手段にもなる」
アリアは淡々と言った。押し問答にする気はない。規律を守る人間に、規律を裏からこじ開ける言葉はない。あるのは蝶番だ。扉を外から叩くのではなく、合うところを緩める。
「規律を破れとは言いません。昔の帳面に“灯借り”の記録があるなら、今の帳面にも、臨時の欄を設けられるはず。火の用心の見張りを増やし、使用者の名と理由を書き、返却の刻を決める。灯箱の蝶番は片方が痛んでいる。わたしが直します。夜守殿の指示のもとで」
「直す?」
カドの目が、灯箱の角を見る。アリアは背中の鞄から細い真鍮の釘と、小さなドライバー、油を吸った布を取り出した。旅のうちに、剣より針を使う時間のほうが長い日もある。彼女は膝をつき、蝶番のぐらつきを手の腹で確かめ、釘穴の木の痩せ具合を見て、少し長い釘に替え、布で摩擦を抑えてから、ゆっくり均等に締めた。動きは静かで、音は小さい。カドは腕組みを解いた。
「ふむ」
「夜のあいだ、わたしが灯台に詰めます。火の番を一人増やす。火を出す家のそばで待機し、もし危うければすぐに消す」
「なぜそこまで」
「彼は“盗った”と言われたくない。あなたも“規律を破った”と言われたくない。わたしは通りすがりで、責められることを恐れない。だから、わたしが蝶番になる」
風が海から吹いた。カドは長い息を吐き、帳面を閉じた。
「夜の刻、一刻だけだ。それ以上はだめだ。名前は」
「アリア」
「アリア。剣は灯台に持ち込むな。火の側に刃は要らん」
「承知」
夜は、早足でやって来る。風見のない灯台の頭には、代わりに風鈴が結わえられていた。小さな貝殻を合わせ、音は潮に溶けていく。アリアは灯の芯を整え、油の量を計り、板の間の隙間に砂を撒いた。砂は火の足を取る。少年――名はレイといった――は、抱えた灯箱を胸の前で大切に持ち、手の震えを抑えようと深呼吸をしている。カドは梯子を半ばまで登っては降り、外の見張りと交代の刻を取り決めた。
「走るな、レイ。灯は走ると消える」
「うん」
アリアは灯を入れ、窓に小さな光が生まれるのを見届けてから、レイとともに灯台を出た。夜の港は、潮の匂いが濃く、遠くで舟の綱がきしむ音がする。路地の洗濯紐は外され、桶は伏せられ、猫が目を光らせている。息を合わせ、拍を置き、石畳の出っ張りに足を取られぬよう、二人は歩いた。灯は、進むたびに壁に形を投げ、窓の中の人影をちらと浮かべ、やがてレイの家の前で止まった。
家は狭く、天井が低い。病の匂いと汗の匂いと、塩の匂い。布団の上で、痩せた女が浅い呼吸をしている。レイの声が震えた。
「母ちゃん、灯し、借りてきたよ。昔みたいに。怖くないように」
女は目を開け、灯箱の小窓に映る光を見て、ほんの少し口を緩めた。アリアは火の向きを壁から遠ざけ、天井から充分な間を取り、窓を指二本ぶんだけ開けた。外の風がゆっくり入る。灯は揺れ、揺れは呼吸の拍に寄り添い、拍は少しずつ長くなった。
アリアは戸口の外に腰を下ろし、剣帯を壁に立てかけ、夜の湿り気を胸いっぱいに吸った。通り過ぎる隣人たちは、灯を見ると小さく会釈し、指を唇に当てて静けさを通す。カドが時折見回りに来て、目で問い、アリアが頷きで返す。彼らは言葉をほとんど使わない。夜の町は言葉を吸ってしまう。かわりに、靴音の拍と、灯の揺れが、ひとの心持ちを伝える。
半刻ほどが過ぎたころ、女の呼吸が整い、浅い眠りに落ちた。レイはその顔を見つめ、肩を震わせ、しかし声は立てなかった。アリアはそっと立ち上がる。
「一刻で戻す約束だ」
レイは頷き、灯箱を抱え直す。足取りは来たときよりも穏やかだ。帰り道、港の端で、別の家の戸口に座る老女が手招きをした。
「火の娘、ちょっとだけ、この皿を持っておいき」
小皿に、白い砂糖菓子が三つ。灯のかたち、貝のかたち、風見のかたち。老女は微笑む。
「昔はね、灯を借りに行く子に、砂糖を一つ渡した。走らないように口をふさぐためさ。舐めていれば、大声を出さないだろう。火は静けさを好むからね」
レイが笑う。アリアは一つを舐め、もう一つをレイに渡し、最後の一つを手の中で転がした。灯台の麓に着くと、カドが待っていた。帳面を開き、刻を記し、灯箱の蝶番に触れ、わずかに頷く。
「返却、確認。……母親は」
「眠れた」
カドは目尻にしわを寄せた。
「なら、よかった」
灯台の内部は、油と金属の匂いが濃い。アリアは芯を調えてから、風鈴の紐を結び直し、砂の薄いところに新しく撒いた。夜はまだある。彼女はカドに尋ねた。
「風見は、いつ外した?」
「十年前。嵐が多くなって、羽が折れて、頭に当たると危ないと。けれど、音がなくなって、夜が長くなったと言う者もいる」
「音は、灯の周りの拍になる。無くなれば、別の拍を置けばいい」
「別の拍?」
アリアは腰の袋から、小さな鈴を取り出した。旅の護りに付けている、小指の爪ほどの鈴。からん、と鳴らすと、風鈴とは違う、短い金の音が灯台の壁に跳ね返った。
「灯の芯を調える拍。油を注ぐ拍。見回りの拍。――拍が揃えば、人は落ち着く」
「なるほどな」
カドは笑った。笑うと顔が丸くなる男だ。彼は鈴を受け取り、代わりに古い、取っ手の欠けた風見の羽の欠片をアリアに渡した。
「祖父の形見だ。重くてかさばる。旅の邪魔なら捨ててもいい」
「捨てない」
短く答えた。重みは拍になる。鞄の底に入れれば、歩くたびに少しだけ存在を知らせ、彼女にこの夜を思い出させる。旅はそうした小さな記憶の重さで、歩き方が変わっていくのだ。
夜明け前、灯りは一段と白くなった。港の綱の音が増え、帆布の擦れる音が風に乗る。カドは灯を落とし、芯を抜き、油を蓋で塞いだ。レイが再び現れ、顔は眠気でむくんでいるが、目は晴れていた。
「母ちゃん、さっき笑った。少しだけ、昔の歌、口ずさんでた」
「歌?」
アリアが問うと、レイは恥ずかしそうに、鼻歌をこぼした。短い旋律。拍の置き方が町のそれと同じだ。カドが小さくうなずく。
「この町の“凪の歌”さ。風のない朝に、海が起きる前にうたう」
アリアは微笑し、外套を肩に掛けた。夜は終わる。旅人に留まる理由は少ない。だが去る前に、やることはある。菓子屋の三角巾の女主人が、店の前を掃いていた。
「昨夜のこと、聞いたよ。礼を言う。……それ、うちの祖父の絵に、風見を戻してやらなくちゃね」
女主人は店の奥から絵を持ってきた。アリアはカウンターに肘を置き、絵の空に、ほんの小さく、羽を描き足した。正確な形など要らない。“あったもの”を思い出すための小さな印。それだけで十分だ。女主人は目を細めた。
「代金は」
「砂糖菓子をひとつ。灯のかたちの」
彼女は白い小さな灯を紙に包み、アリアに手渡した。紙を受け取る掌に、ほんのわずか砂のざらりが残る。外に出ると、港の端でレイが待っていた。手には粗末な布袋。中には、磨き直した貝殻が十枚。
「これ、あげる。灯、借りたお礼」
「貝は重くない」
「重くない。けど、海の音がする」
アリアは袋を受け取り、耳に当てた。潮騒が響く。たとえ貝殻であっても、風が拍を運んでくる。彼女は頷いた。
「受け取ろう。――夜守に、灯箱の蝶番は、次の嵐まで持つはずだと伝えて」
「うん!」
レイは走り出した。今度は昼だ。走っても火はない。カドは遠くから手を振り、女主人は店の前でほうきを止め、老女は戸口で鈴を鳴らした。町全体が、音の拍でひとつに束ねられている。アリアは肩の鞄の重みを確かめ、風見の欠片が底で小さく鳴るのを聞いた。
港を離れる道は、ゆるやかに丘へ上る。頭上には、風見のない――いや、風見のあった――灯台が、白く静かに立っていた。彼女は一度だけ振り返り、短い拍を胸の内で打った。
灯は夜のために。規律は皆のために。蝶番は、どちらのためにもなるために。
旅の足どりは軽かった。だが軽いということは、何かを置いていくことでもある。だからこそ、鞄の底の小さな重みが、彼女をひとつの夜に留めてくれる。それで充分だ。彼女は砂糖菓子の紙を、まだ開かないまま、次の町までの拍を数え始めた。
――風は、潮を押し返し、丘の草を撫でた。凪は終わり、帆は上がる。風見はなくとも、音はある。小さな鈴ひとつぶんの音で足りる夜が、世界にはたしかにある。
(了)




