アリアンロッド発展の章 第十三階層編 第3話「影鬼の間」
水脈の音が細く遠のき、代わりに息を潜めた闇が広がる。通路の先は天井が高く、床は磨かれた黒石の広間。四方の壁には縦に細い割れ目が並び、そこから滲み出るように影が遅れて流れていた。灯りを掲げれば、光が飲み込まれてひと呼吸遅れて戻る。音も同じだ。足音を刻めば、壁際でもう一度小さく鳴る。
「ここが“影鬼の間”か」アリアは深く息を整え、鞘に指を添える。「慌てず、三歩進んで――ピタッと止まる。呼吸は揃えて」
ソラビトが上空を一周し、影の“ゆがみ”を探って戻ってくる。フチマモは広間の端へぴたりと張りつき、モリシノは影から影へと忍び、サララは足裏で床の細かな砂の走りを読む。イザベラは荷を下ろし、実験灯のつまみを最小に調整してアリアへ親指を立てた。
「影の階調、極弱に。暴発はしない設定! たぶん!」
「“たぶん”は外でやろうね」フェルナが苦笑し、矢羽根を指で整える。
「……ヒソヒソ……音が遅れる……影も遅れる……注意の置き場をずらすのが狙い……」ヨハネスの囁きは、闇の底でもまっすぐ通る。
そのとき、広間の四辺すべてで影が起き上がった。黒い輪郭だけを持つ鬼――眼孔は空洞、獣のような爪だけがきらりと鈍く光る。十、二十……数えるより先に、気配の数が体にのしかかった。
「来る!」シルが右へ跳び、短剣を逆手に構える。
「正面は任せて!」マキシが一歩で前に出て、胸で壁を作る。
「風で“道”を作る。射線を開けて!」フェルナが弓を引き、薄い風膜を幾筋も走らせる。影は膜の境目で一瞬動きを鈍らせ、矢がそこを穿つ。
「ソラビト、上から“遅れ”を鳴いて!」ルーンの指示に、大鴉がカァとひと声――その声も壁で半拍遅れて返る。遅れの線が見えた。
アリアが合図を切る。「タン、タン、タン――ピタッ!」
三歩で寄って、一度止める“間”。遅れて飛びかかる影鬼の爪は、その間で空を切る。アリアは肩で受け気味に合わせ、重さの逃げ場を与えて爪の線を逸らすと、手首で円を描くように入り身投げ。黒い輪郭は床にふわりと落ち、壁絵のように潰れかけ――だが消えない。影は影へ戻って立ち上がる。
「切り離しても、壁から補充される!」フェルナが声に焦りを滲ませる。
「なら“足”を止める!」シルが床の影へ短剣を突き立て、影ごと縫い付ける。
「ナイス!」ルーンが叫んだ。モリシノがその釘のような短剣影を足がかりに、別の影の**“すき間”へ滑り込む。
マキシは二体同時の突進を胸で受けて後ろへ重さを返す**。足は止めるが、体は硬くならない。アリアに教わった“止まるための止まり方”――ピタッと止め、次の一歩を軽くする。
その時、影鬼の一体がルーンの背に回り、爪を振りかぶった。
「――危ない!」
トットが飛び込む。小柄な体でルーンを抱き倒すように庇う。爪がトットの背を掠め、熱い痛みが広がった。
「トット!」ルーンの声が震える。
「大丈夫だ……これくらい……」歯を食いしばるトットの目が、闇の奥に焦点を結ぶ。「俺は……もう守られるだけじゃねぇ。返すんだ、こいつに」
黒石の床にじわりと滲む影。トットはそこへ掌を押し当て、低く何かを呟く。耳には届かない言葉、けれど意味だけが胸に落ちる。
影がゆっくりと、トットの背へ吸い込まれた。痛みが影に記録される。胸の内で熱が反転し、冷たい刃になって立ち上がる。
「――ペインバック」
トットの指がすっと前へ。影が針の束となって走り、さっきの影鬼の胸を正確に貫いた。鬼は一歩遅れて折れ、壁の割れ目へ押し戻される。
「今の……痛みをそのまま返したの?」フェルナが目を見張る。
「お、おいトット……! なにカッコつけてんだよ!」シルが笑うが、瞳は本気で驚いている。
トットは肩で息をしながら、にやりと口角を上げた。「効いたろ?」
だが影鬼はまだ多い。四辺の割れ目すべてから補充され、形を変えながら押し寄せてくる。イザベラが実験灯を薄明にして影の濃淡を浮かせると、ヨハネスが一太刀だけ芯を折る。
「……ヒソヒソ……注意を……ずらす……目を奪え……」
「やってみる」トットが短く告げ、影へ手を伸ばす。
「トット、ムリは――」
「平気だ。――ダークフラッシュ」
パチン。
影が一瞬だけ白く爆ぜ、広間の視界が揺れた。まばゆさではなく、影の目録が裏返る感じ。影鬼たちの“目”が迷い、向くべき方向を一瞬失う。
「今!」アリアが踏み込む。タン、タン、タン――ピタッ。
止めの間で二体の爪を面で外に送り、マキシが間に入り壁を作る。シルの短剣が影の縫い目を断ち、フェルナの矢が風の糸で導いた先へ吸い込まれる。
影鬼の群れが再び形を取り戻す。トットはうっすら膝をつき、呼吸を整える。
「トット、傷が――」ルーンが手を伸ばす。
「平気だって。影縫いなら、もう少しやれる」
トットはルーンの手を一瞬だけ握り返した。それから立ち上がり、床へと短剣をコツと当てる。
「……影縫い」
足元の影が釘に変わる。黒い釘が何本も走り、影鬼の足と床を固定した。動こうとすればするほど、釘は深く沈み、逃げるほどに遅れる。
ヨハネスがそのわずかな“遅れ”を刃の芯で折り、オリビエが居たなら称賛したであろう一本の線で、危ない軌道だけを無効化していく。
「面白い!」イザベラが興奮して身を乗り出す。「影の位置情報に干渉してる! つまり実質的に拘束を――」
「実験講義は後で!」シルが影の背を蹴りつけ、短剣でもう一本縫い付ける。
「ルーン、仲間の呼び!」アリア。
「任せて。ソラビト、天井の遅れを鳴いて! モリシノは影の隙間へ、サララは縁を走って導いて!」
呼ばれた名に、ピタッと応える気配。名は呼びかけであり、道だ。
ソラビトの一声が上から半拍遅れで返り、影鬼の注意を天井へ引き上げる。モリシノが足元の影の隙間を連結し、サララが縁の砂を細い帯に固めてアリアたちの走路を描く。
押し引きが整ってきた、――が。
広間の中央の割れ目が低く唸り、ひときわ濃い影が湧き上がった。
他の影鬼より一回り大きい。輪郭は不定形、踏み込むたびに別の場所にいるように見える。主だ。
「こいつが本命だね」シルが息を吐く。
「構えを崩すために注意をずらしてくる」フェルナが矢をつがえた。「視線と足の向き、合わせて」
「マキシ、前で受ける。怖がるな、怖がると体が固まる」アリアが肩を叩く。
「う、うん。胸で受けて、重さは後ろに――戻す……!」
「トット、無理はしない。だがお前の“返す”は要だ。ここで試すか?」
トットは一瞬、ルーンを見た。彼女は迷いのない瞳で頷く。「一緒に」
「――ああ。一緒に」
主の影鬼がふわりと消え、次の瞬間、背後に回って爪を振り下ろす。
アリアの「ピタッ」の声と同時に、マキシが壁を一枚置き、シルが横から外へ押す。フェルナの風が爪の角度を僅かにずらし、ヨハネスの刃が軌道だけを折る。
だが、完全には消えない。主の影鬼は遅れてもう一度、今度はルーンめがけて滑る。
「ルーン!!」
トットが飛び込み、胸で庇う。今度は真正面から、爪の衝撃を受けた。
肺が焼かれるような痛み。視界が白く弾け、膝が折れかけ――だが、トットは落ちない。
彼は痛みを抱えたまま、静かに呼吸を整えた。
一度吸って、吐いて――ピタッ。
影が逆流する。
「――ペインバック」
さっきよりも深い、黒紫の線が床を走る。主の影鬼の胸に返した痛みがそのまま刻まれ、形が大きく歪む。
「今!」アリアが入り身で懐に入り、四方投げの崩しで“重さの向き”を変える。
主の影鬼のバランスがふわりと浮いた瞬間、トットが短剣を下から差し入れ、影縫いを芯へ打ち込む。
影が悲鳴を上げた――ように、広間の空気が震えた。
割れ目からの補充が止まり、壁の影が薄くなる。
ヨハネスが最後の一本の線を静かに折ると、主の影鬼の輪郭は霧のようにほどけ、黒い埃となって床へ落ちた。
静寂。
遅れていた音が、今度は追いついてこない。
イザベラが実験灯のつまみを戻し、「成功……した……の?」と白衣の袖で汗を拭った。
「した」フェルナが弦を緩め、安堵の笑みをこぼす。「止めの間が効いた。返す刃も、縫う釘も」
「……ヒソヒソ……良い……返し……良い……止まり……」ヨハネス。
トットはその場に片膝をつき、荒い息を吐いた。背中の裂傷は浅くない。ルーンが慌てて駆け寄る。「トット!」
「大丈夫……さっき返した。痛みの芯は、もう向こうだ」
そう言って笑う顔は、もう“小柄な相棒”の顔ではなかった。
影が彼の周りで薄衣のように揺れ、瞳が一瞬だけ赤黒く光る。耳は少し長く尖り、肩幅がわずかに広がっている。体つきが“人間に近い亜種”へと変わっていた。
「トット……進化、したんだね」ルーンの声が震える。
「遅いくらいだろ。ようやく並べた。――ルーン」
差し出された手を、ルーンは強く握った。
アリアが歩み寄り、短く言う。「立派になった」
シルはにやにや笑い、「でも顔は相変わらず生意気!」と肩を小突く。
「そっちこそ、足が速すぎ」トットが即座に返す。
フェルナは微笑み、「“返す”は強い。けれど、無理な受け方はしないこと。痛みは、皆で分ければ薄まるから」
「心得た」トットは素直に頷いた。
「さて――」アリアが広間を見渡す。「この間は、出口を隠しているはず」
フチマモが端を伝って一周し、床のわずかな段差で尾をトンと打つ。
「ここだ」
モリシノが影の継ぎ目に身を滑り込ませ、サララが砂を細い帯に固めて輪郭を描き出す。イザベラが灯を細く当てると、黒石の床に溶け込んでいた扉の継ぎ目が浮かんだ。
「押し方は――面で、軽く。ピタッと止めてから、すべらせる」
マキシとアリアが同時に掌を置き、胸でゆっくり圧をかける。ぐぐ、ではなくすうっと、扉が横へ滑った。
その向こうから、ひやりとした新しい空気。水と鉱石の匂いに、かすかな草の香りが混じる。
「今日はここまで」アリアが決める。「地上で整え、次へ進もう」
誰も異論はなかった。闇はまだ深いが、胸の中には軽い鼓動があった。
帰りぎわ、トットがふと立ち止まる。落ちた黒い埃の中に、淡く光る欠片が紛れていた。
「……おい、これ」
ルーンが拾い上げると、指先を透かす薄い黒水晶。
「“影の小心”だ。触媒になる」フェルナが目を見張る。「トットの闇の術に、きっと相性がいい」
「へぇ。じゃ、今度はちゃんと実験しよう」イザベラがわくわく顔で近寄り――アリアに「外で」と肩を掴まれて苦笑した。
帰路。
広間の入り口で、マキシがそっと拳をトットへ突き出す。
「さっきの“返す”……すげぇ。俺も受けて返すを練習する」
「おう。お前の壁があったから、返す隙が出来た」拳と拳がコツと触れ、二人は笑った。
通路を抜ける前、アリアは一度だけ振り返った。
闇は深いまま――けれど、さっきのようにまとわりついてはこない。
三歩進んで――ピタッ。
彼女は小さく止まり、胸の呼吸を整えた。止まるから、また進める。
「行こう。帰って、次に備える」
ソラビトが一声鳴き、フチマモが端を案内し、モリシノが影をつなぎ、サララが細い道を描く。
そして、新しく生まれ変わったトットが――ルーンと肩を並べて歩き出した。
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つづく — 第十三階層編 第4話「音の回廊と黄金の羽」
(影鬼の間を抜けた先は、音で形が変わる長い回廊。
黄金の羽根の使い道、黒水晶の触媒、そして“見えない敵”の予兆。
帰還後の語らいで、里のリマたちの奮闘談も明かされる。)




