アリアンロッド発展の章 第十二階層編 幕間その2「里の暮らしと笑顔」
朝の冷たい空気が、集落の屋根と屋根のあいだを抜けていく。祈りの火床の脇に造られた新しい公園は、露がまだ芝の先に丸く残るほどの時刻だ。丸太のベンチ、湧き水の手押しポンプ、小さな木のアーチ。そこに、ピピが両手のちいさな指を折りながら、覚えたての言葉と数を唱えている。
「イチ、ニ、サン……」
言葉がたどたどしくも、タン、タン、タンと一定の拍で流れていく。
周りの子ゴブリンたちも、ピピの真似をして指を折る。
アリアは立ち止まり、少し離れてその様子を見守った。拍がずれると、ピピは自分でふくれっ面をしてから、ふん、と深呼吸をしてやり直す。止を知っている。えらい。
「良い公園になったな」オリビエが横に立つ。
「ボリスが“灯のそばに学びを”って」アリアは火床の小さな炎を見た。「ここで覚えた拍は、きっとあの子らの道になる」
木柵の向こうで、巡回のドッグが若者たちに簡単な指示を出していた。今日の同行はハルト、そして“かつての子ども組”――今は堂々たる成人のヨーデルとマキシだ。
「南の林道、交差二。異常なしを確認後、三拍歩行で戻る」
「三拍歩行、了解」ハルトが返し、石突を軽く地に当てる。タン。
ヨーデルが控えめに手を挙げる。「質問いい? 三拍に“止め”を入れるのは、足音が森獣を刺激しないため? それとも隊列の呼吸合わせ?」
「両方だ」ドッグは短く笑う。「止めの拍で視線も揃える。息が合えば、音も消える」
「へぇ……やっぱり止があるから進めるんだな」マキシが肩を回し、槍を担いだ。「行こうぜ」
彼らが門の方へ歩み出すと、ゴブリンの里の長グルーと長老グバが日陰の椅子から手を上げた。
「若い衆の足音、良い」グバが目を細める。「アリア、あの拍は森が好きじゃ」
「なら何より」アリアは頭を下げる。「今日のうちに下層の段取りを整える。里の見回り、頼んだよ」
「任された。ドッグの顔、良い顔になっておる」グルーが笑い、ドッグは「恐縮です」と短く頭を下げた。
市場通りでは、朝の支度が進んでいた。鍛冶場からはバロスの槌音。タン、タン、タン――タン。
その向かいでは、ボリスが火床の灰を払って新しい木片をくべる。祈りの言葉は短く、落とす拍は静かだ。
フェルナは水汲み場で桶の水面を指先で揺らして、朝の光の屈折を確かめている。シルは屋台の棚を手伝いながら、干し肉を一切れつまみ食いしてピピに見つかり、舌を出して謝る。「ごめんって。ほら、あとで走るから!」
ルーンはバディと大鴉、それに岩トカゲの様子を見て回り、餌の量や毛並みを丁寧に記す。「名前……そろそろ、つけてあげたいな」小さくこぼした言葉に、ピピの耳がぴくりと動いた。
「ナマエ?」
「うん。皆の仲間だもの。――今度、皆で考えよう」
昼前。集会所の長卓に、作戦用の板と墨、印石の写しが並んだ。シャルルが指で三つの記号――丸・四角・三角――を描きながら、淀みなく要点を並べる。
「十二階層の仕掛けは“拍に反応する系”が中心。三拍と二拍の交差、そして四拍目の小止での上書き。次の下層へ行くメンバーを確定したい。――そこで提案がある。リマを里側の盾に置き、誰か一名を入れ替える」
場が静かになり、皆の視線が自然とリマへ集まった。
彼女は驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑う。「私もそう考えてた。……最近、広場や公園に小さな子が増えたでしょ。訓練中の子も。下層の盾も好きだけど、今は里を守る盾になりたいの」
「頼もしい」オリビエが頷く。「後ろを預けられる盾は、戦場にも街にも必要だ」
アリアはリマの目を真っ直ぐに見た。「ありがとう。じゃあ、誰を入れるか」
マキシが一歩前へ。「俺にやらせてくれないか。近接で壁を作れるし、“外押し”も練習してる。ヨハネスさんみたいに一点で割るのは無理でも、列の“胴体”を支えられる」
ヨーデルも控えめに手を上げる。「僕もいつかは。でも今は、研究と記録を手伝いたい。仕掛けの理屈を言葉にする役、シャルルのそばで覚える」
「良い判断」シャルルは満足げに目を細める。「じゃあ入れ替えは、リマ⇄マキシでいこう」
フェルナが板の端に“壁/外押し/踏み替え担当:マキシ”と書き、マキシは少し緊張したように背筋を伸ばした。
「合図は俺が打っても?」ハルトが控えめに尋ねる。
「もちろん」アリアが頷く。「タン、タン、タン。それから、必要があれば四拍目の小止。指示は私かシャルル」
「了解」
シャルルが付け加える。「ハルト。今度は“遅れを見る係”も兼ねよう。仕掛けの反応や敵の踏み替えには、必ず遅れが生じる。耳で、目で、拾って私に合図を」
「はい!」
「……ヒソヒソ……遅れ……拾う……良い役目……」ヨハネスの低い囁きが、卓の木目に吸い込まれた。
会議が終わる頃、香草と焼き麦の匂いが集会所に流れ込んできた。市場は昼の賑わい。
マリーヌが帳場で帳を整え、ルラが横からひょいと覗き込む。
「三拍の売り捌きってやつ、あれもう少し詳しく」
「…ふふふ…まずは…信頼、次に…価値、最後に…取引。順番を…踏み外すと…全部…崩れますよ」
「耳が痛いねぇ」
その横をシルが走り抜け、乾ききらない毛先を揺らして大声で叫ぶ。「午後は公園で鬼ごっこ剣舞だからねー!」
「剣舞?」とピピの仲間が目を輝かせる。
「足でやるんだよ。タン、タン、タン――タンって走って、四拍目で止まるの。止まれないと“鬼”に捕まる!」
子らの笑い声が弾け、火床の炎がそれに呼応するように揺れた。
夕刻。巡回から戻ったドッグ班の足音は揃っていて、門の影が長く伸びている。
「異常なし。……マキシ、明日から前衛の練習、増やす」
「了解。壁、覚える」
アリアは門柱にもたれて、そのやり取りを聞いていた。彼らの声はもう、子どものそれではない。
やがてドッグがこちらを振り向き、「明朝は南の獣径を封鎖。三拍で進み、二拍に注意」と告げる。
「二拍?」
「“火”だ」ドッグは短く答えた。「匂いが残っている。仕掛けの残り火がどこかで息をしてる」
「了解。明け方、私も見る」フェルナがすぐに反応する。「湿度が下がる前に」
日が落ち、祈りの火床の前に自然と輪が出来る。ボリスが短い祈りを落とし、皆が黙ってそれを聞く。
そのあと、ルーンがそっと手を挙げた。「明日の夕方、名付けをしたい。ティムした子たちに、皆で名前を」
ピピが顔を輝かせる。「ナマエ! ピピ、カゾエル!」
「いいね」アリアは微笑む。「名前は拍と同じ。呼べば、そこに“道”が出来る」
夜風に、どこか遠くの森の匂いが混じった。
アリアは空を見上げる。星の出始めた濃紺に、白い筋が一本、細く延びる。
――守りたいものが、また増えた。
彼女は小さく息を吸い、吐き、止める。
「明日、下りの準備に入る。配置は今日の通り。リマは里の盾、マキシが前衛。シャルル、書き出しは任せる。ハルトは“遅れ”を拾って」
「任された」「はい!」
「……ヒソヒソ……良い…布陣……」
火床の灯が、拍のようにタン、タン、タンと揺れた気がした。
広場の隅では、ピピがまだ指を折っている。
「イチ、ニ、サン……トマル!」
止めた指先が、夜の空気を小さく掴む。
アリアはその静かな一拍に、次の一歩の力が満ちるのを感じた。
――つづく:幕間その3「名付けと誓い」
(夕暮れの公園で、ティムした仲間たちに名を授ける。里と街と森の拍が重なり、次なる下層への決意が静かに結ばれる。)




