アリアンロッド発展の章 第十一階層編 第1話
闇に沈む回廊
朝靄が街路の石をしっとり濡らし、鍛冶屋の煙突から細い白が立つ。アリアは肩の留め金を確かめ、鞘口に指を添えた。広場には、今日の再突入に向けて集まった顔がならぶ。シルは短剣を腰の左右に吊り、フェルナは弓と小型の水袋を背に、ルーンは革のポーチに契約札と乾肉を詰めた。老騎士オリビエは静かに胸甲の革紐を締め、ヨハネスは刃の反りを目で撫でるように確かめている。後方支援のシャルルとハルトは、記録板と予備灯り、簡易担架を積んだ小荷車を押していた。
「出発前に、確認するよ」アリアは皆を見た。「旧式の鉄の巨人は物置で封印。新しい方は観察だけ、操作は無し。地上でエリオットと以蔵が見守ってくれてる。私たちは――私たちの手で、道を切り開く」
「…ヒソヒソ…了解…人数分…生きて…戻る……」ヨハネスの囁きは短く、鋼のように固い。
城壁下の転移門が淡く光り、冷気が流れ込んだ。第十一階層は、地上の季節感を忘れたかのようにひやりとしている。目を開けた瞬間、世界の色が一段暗くなる――それがこの階層の第一印象だった。天井は低く、煤けた岩に水が筋を作って滴る。細長い回廊が縦横に伸び、遠くで風が重い音を鳴らした。
「空気が重い……魔素の流れが粘ってる」フェルナが掌に水の薄膜を広げ、光を弾かせる。「視界、二十歩先が限界。音がよく通るぶん、反響で方向が狂う」
「バディ、鼻を頼りに。前方二十歩で曲がり角」ルーンが犬の首筋を撫でる。バディは短く吠え、耳を立てて先導した。彼女の肩には闇色の大鴉が止まり、脇を小さな岩トカゲがぴょこぴょこと付いていく。みな、ルーンがティムして信頼を結んだ仲間だ。
「俺とハルトは十歩後ろを保って、記録と標。戻る道に粉を撒く」シャルルが指示を飛ばす。「音の合図は二度打ち、危険は三度。よし、進行」
回廊の床はざらついた石で、ところどころに黒い斑点のようなものがある。近づくと、それは苔でも汚れでもなく、岩肌から染み出した鉱液が固まった跡だと分かった。靴底がきゅっと鳴るたび、壁のどこかで返事のような滴りが落ちる。
「……これ、迷いやすいね」シルがひそひそ声で笑う。「でもわくわくする」
「わくわくは半分にしなさい。残り半分は慎重」オリビエが低く告げた。「闇は腕だけで突破できる相手ではない」
「……ヒソヒソ…闇は…速さを…鈍らせる…焦るな…刻む……」
角を一つ、二つと折れた時、バディの背毛がぶわりと逆立った。低く唸り、前脚を踏みしめる。直後、通路の先から――ぬるりと影がのびた。黒に灰の筋が入り、べったりとした艶を持つ長い体。目のない蜥蜴のようなものが、壁と床の境目から身体を離す。いや、それは壁と同じ色をして、さっきまで壁そのものだったのかもしれない。
「影喰い……!」フェルナの声が鋭くなる。「光へ寄る!」
アリアは膝をわずかに曲げ、踏み込みと同時に鞘を滑らせた。刃は抜き切らず、肩口で止める――合気の呼吸で相手の突進をいなすための角度だ。ぬらり、と影が伸び、靴先に触れた瞬間、ぞわりと痺れが這い上がった。体温を奪う触感。背後から二体目、三体目。
「飛燕斬り!」シルが低く囁き、床から床へと跳ねる。斜めに滑るような踏み切りで、影の首と思しき部分を二度えぐる。「ダブルスラッシュ!」二撃目が躊躇なく重なる。刃は浅いが、速度が毒のように効く。影がびくりと痙攣し、床に溶けるように広がった。
別の影が弓なりに跳ね、ヨハネスの影へ重なる。彼は一歩、半身。刃がすっと起き、音もなく降りた。――斬ったのが分かるのは、影の輪郭が一拍遅れて崩れたからだけだ。
「…ヒソヒソ…一つ……」
フェルナが息を整え、矢を二本指にはさんだ。「ホーミングショット」囁くと同時に、矢羽根に水の糸が走る。矢は暗がりへ吸い込まれ、壁と床の隙間に逃げ込もうとする影を自動的に追い、狙い澄ましたように刺し込んだ。影が細く縮む。
「右壁!」アリアの声。影が横から彼女の胸を狙って舌のように伸びた。踏み込みを抑え、肩をわずかにずらす。滑るように肩から肘、手首へと力を流し、相手の重さだけを掴んで、そのまま床へ――「入り身」からの、返し。斬らない。叩き伏せて動きを封じる。
真後ろ。ハルトの息が詰まる。「アリアさん、後ろ!」
「任せなさい」オリビエの声が重く、確かだ。老騎士は盾を半歩後ろへ差し出し、影の突進を受ける。金属ではない、革と木の重量で柔らかく受け止め、刃で縁を切り上げる。「下がれ。列を崩すな」
影は一瞬で五体に増え、回廊の両側からじりじり迫る。ルーンが短く息を吸って杖を掲げた。「大鴉、上から! トカゲ、背を噛んで! バディ、吠えて合図!」
闇の中を黒い翼が走り、岩トカゲがぴたりと影の背へかみつく。体勢を崩した影が床に広がった瞬間、フェルナの二の矢が吸い込まれ、シルの短剣が稲妻のように二閃走った。アリアは動いた敵を倒さず、動けない状態に流し込む。ヨハネスは動きの止まった個体へ最短の刃を落とし、オリビエは列を支え、後衛に抜けそうな影を押し返す。
わずか五十呼吸。体感はもっと長い。最後の影が、床へ墨のように広がって消えた。水の滴りだけが帰ってきて、全員がいっせいに息を吐いた。
「……ふぅ」シルが腰に手を当て、尻尾をぱたぱた揺らす。「数で来るの、ちょっとズルいよね」
「ズルいから、勝つ理由になる」アリアが苦笑する。「みんな、怪我は?」
「擦り傷程度」フェルナが冷静に答える。矢筒の中身を数え、矢じりを拭う。「水の糸、効果は十分。回廊の湿りが味方」
「俺は大丈夫です!」ハルトが背筋を伸ばしたが、手が少し震えていた。シャルルがちらりと見て、記録板に素早く筆を走らせる。
「……ヒソヒソ…三手…早かったら…肩を…噛まれていた……」ヨハネスがハルトの肩へ視線を落とす。「…呼吸…整えて…次……」
「はい……!」若者は深呼吸して頷く。
小さな踊り場に出て、一度輪になって腰を下ろした。ルーンが乾肉を薄く裂き、大鴉とトカゲに分ける。バディは皆の顔を順に見回して、満足したように鼻を鳴らした。
「ここで一回、整えようか」アリアが言う。「今の戦い、みんなの動きは悪くなかった。でも、もっと楽にいけるはず」
「分析は私がまとめる」シャルルが記録板を膝に置く。「けれど、ここはルーンに口火を切ってほしい」
「え、わ、私?」ルーンは目を丸くしたが、すぐに真剣な顔になった。「……うん。あのね、さっきの戦い、みんなの得意がうまく“重なった”ところと、“ぶつかった”ところがあったよ」
「…ヒソヒソ…聞く……」
「まず、ヨハネスさんは一体ずつ“確実に落とす”のがすごく速い。アリアさんは“流れを止める”のが得意。オリビエさんは“列を崩さない”。シルは“隙を作る”、フェルナは“場を整える”。――だから、数で来る相手には、最初に場を作って、その上で“順番に落とす”のがいちばん楽かも」
「“場”っていうのは、足場のこと?」シルが首を傾げる。
「足場もあるし、敵の“行きたい方向”を狭めること。例えば、フェルナが水の糸で滑りやすい帯を作って、シルがその外側で待って、アリアさんが真ん中で“止めて”、止まったのをヨハネスさんが“落とす”。オリビエさんは後ろで“抜け道”を塞ぐ。――みたいな」
フェルナが目を細め、すぐに頷く。「できる。今の湿度なら、水の糸を床に“一本の川”みたいに引ける。そこを渡ろうとする影は足を取られる。シル、川の右岸に立って」
「了解! 川の外で待ち構え、ね」
「アリアは“川の中央”。流れ込んだ敵の勢いだけを掴んで、滑らせる。ヨハネスは“川の出口”で一つずつ落とす。――老騎士殿は後衛の盾」
「良い配置だ」オリビエは顎に手を当て、廊下の広さを測るように目を走らせる。「狭い回廊ならなおさら効果が高い。後方のハルト、合図の打ち方を工夫しよう。二度打ちの前に、短く一度打って注意喚起だ」
「はい!」
「……ヒソヒソ…わたしは…出口……必ず…一太刀……外さない……」
ルーンは胸に手を置いた。「それから、私のティムたち。大鴉は“頭上の見張り”に集中、トカゲは“背中に噛みついて足止め”。バディは“吠えで合図”。みんな、役割をはっきり分けよう」
「いいね!」シルが尻尾をふわふわ揺らす。「やってみよう!」
短い休息のあと、隊は再び立ち上がった。フェルナは石粉を混ぜた水を指で弾き、床に細い線を描く。たちまち、線は淡い光を帯び、湿った回廊に一本の“見えない川”が生まれた。
次の角。音もなく、影がまた伸びてくる。だが、今度は待っていた。
「右岸、私!」シルが小声で位置につく。
「中央、私が受ける」アリアが一歩前。
「出口、任せろ」ヨハネスの囁きは風よりも低い。
影の先端が“川”へ踏み込み、ぬるりと滑った。勢いだけが前へ走る。アリアは肩でその勢いを受け、ほんの指先ほど“流す”。敵の重さが勝手に回転し、床へ広がる――止まった影の首へ、ヨハネスの刃が落ちる。
別の個体が外側へ逃げようとして、右岸のシルに飛び込む。「飛燕斬り!」軽い二撃が関節の節を断ち、フェルナの矢が“川の手前”で二体目を釘付けにする。
背後からすり抜けようとした細い影を、オリビエの盾がふわりと“受けて”押し戻した。
「吠え!」ルーンの声。バディが短く吠え、上の大鴉が左右の暗がりを監視して警告を落とす。岩トカゲは足をすくわれた個体の背中に食らいつき、体勢を崩す――そこへ、ヨハネスの刃が一拍遅れて静かに仕事を終える。
今度は、息が長くならない。
十手にも満たないやり取りで、影の群れは“川”に乗って整然と解体された。
呼吸が揃い、足音が揃い、視線が交差しない。
戦いが、急に軽くなる瞬間というのは、こういうものだ。
「……すごい」ハルトが、思わず声を漏らした。「さっきまでと、全然ちがう……!」
「“違い”を重ねただけよ」フェルナが矢羽根を撫でる。「同じ動きにならないように」
「……ヒソヒソ…重ならない…から…強い……」
シャルルは記録板に素早く線を引き、要点だけを書き留める。「効果:戦闘時間短縮、消耗軽減、危険の集中回避。――良い。続けよう」
回廊はどこまでも続くように見えた。だが、足取りはもう重くない。
時折、遠くの壁に小さな印を刻み、粉を撒いて戻り道を明るくする。
曲がり角のたびに“川”を引き、陣を敷く。
影は来る。だが“整えた場”では、敵は敵でなくなる。
小さな広間へ出たところで、アリアは手で合図を出した。「ここで、今日は切り上げよう。標をつけて戻る」
「私は賛成です」シャルルが顔を上げる。「連携の手応えを得た日こそ、引き際を早く。次に繋げるために」
「……ヒソヒソ…余力…残す……」
シルが名残惜しそうに短剣をくるりと回し、鞘に落とす。「もう一群れくらい、いけそうだけど」
「欲張りは次の楽しみに取っておきなさい」オリビエが肩に手を置いた。「戦いは、勝って帰って初めて価値がある」
ルーンは大鴉に合図し、トカゲの背を撫でた。「みんな、ありがとう。今日はすごく助かったよ」
戻り道は、来た時よりもずっと短く感じられた。粉の白い道しるべが、地上へ向かって一本の糸のように伸びている。
転移門を抜け、湿り気のない風が頬に触れた瞬間、全員が同時に大きく息を吐いた。
「素晴らしかった」シャルルがまとめるように言う。「次回は、今日の“川”を前提に、より複雑な陣形を――」
「待て、今日はこれでいい」アリアが笑って手を振った。「複雑にするのは、必要になってからで十分。シンプルな強さは、何度でも使える」
「……ヒソヒソ…賛成……」ヨハネスの囁きが、夕方の光に柔らかく沈んだ。
ハルトは拳を胸に当てた。「今日、みんなの背中が……少し、見えました」
「うん。背中は、並んで歩けば、自然と見えるものだよ」アリアは彼の肩を軽く叩いた。「次も、並んで行こう」
西の空が朱に染まり、鐘が一度、二度と鳴った。
街へ戻る道すがら、シルとルーンはわいわいと“川”の名前を考え、フェルナは水袋の残量を確認し、オリビエは黙って歩調を整える。ヨハネスは短く刃を拭い、鞘に静かに戻した。
闇の回廊は、もう怖くない。
あの場所は、皆で整えて歩く道になったのだ。
――次回:第十一階層編 第2話 剣と矢の違い
(今日の手応えをふまえ、ルーンの提案で“違いの地図”を描く回。さらに噛み合う役割、さらに軽くなる戦いへ)




